亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第三章 会議室の武士 ⑧

 ヘーメルの声に、サピンは振り返る。ヘーメルは、顎に手を当てて渋い顔をしている。


「君たちの勢いに押されてついここまで来てしまったが……やはり、私が暗殺されるというのはどうも信じられん」


 サピンは舌打ちしたい気持ちを抑えた。最初こそ、サピンたちの勢いに乗せられていたヘーメルだが、大使館が近づくにつれ、表情は疑わしげになっていく。


「そもそも、私が帝国政府に暗殺される、というのは、何か根拠があることなのかね? 確かに、私はアルトスタの『分割案』に賛同し、帝国の方針に背いた。だから、地位を失うことは覚悟していたが、殺すというのはどうも……。君たちは、帝国を、暴力的で無秩序な国だと誤解しているのではないかな?」

「そ、そのようなことは……しかし……」


 ミアスは言葉に詰まった。赴任地に対する過剰な偏見を指摘されるのは、外交官としてはかなり痛いところだろう。サピンは構わず割って入る。


「あり得ますね。今の帝国なら」

「何だと?」

「私も、帝国がそこまでするとは思っていませんでした。ミアスだってそうです。ですが、今日の会議で、バタイユがいきようの発言を目の当たりにして、考えを改めざるを得なかったのです。彼らは、戦争を当然の選択肢として持っている。しんちゆうむしに発言権が与えられるのは、平和な時代だけです。戦時であれば、不安要素は潰すだけだ」


 サピンのまなしにヘーメルは一瞬たじろぐが、まだ諦めない。


「だが私は、皇帝陛下の主治医まで務めた人間だぞ? それをいきなり殺すなど!」

「だからこそですよ。あなたは、皇帝の近くにいて、プライベートを知っている。そんな人物が裏切りの気配を見せたのを、今の帝国が放っておくわけがない」


 ヘーメルの表情がこわった。


「ならば、むしろ今こうして君たちと行動を共にし、夜中に大使館に駆け込む方がまずいだろう! あらぬ誤解を招く!」

「誤解とは……?」

「それは……私が本当に帝国を裏切って、アルトスタと内通しているのではないかということだ! 私は『分割案』に賛成しただけなんだぞ? 陛下への忠誠は変わらんつもりだ!」


 サピンは言葉に詰まった。確かに、帝国がヘーメル暗殺をもくんでいるという、確たる証拠はない。もし全てが取り越し苦労だったとしたら、今のヘーメルの行動は、ただ帝国との関係を悪化させるだけなのだ。それでもサピンは、帝国がヘーメルを見逃すとは思えなかった。だから、無理やり引っ張って行くつもりで、彼を連れ出したのだ。


「ヘーメルさん。いっそ、このままアルトスタに亡命してはいかがですか?」


 サピンの言葉に、ヘーメルは驚きで目を見開いた。


「亡命だと!? 何を馬鹿な……!」

「私の考えでは、あなたがこのまま帝国にいるのはやはり危険すぎます。仮に暗殺が取り越し苦労だったとしても、あなたの帝国での立場は厳しいものになるでしょう。ならばいっそ、アルトスタにいらしてくれればいい」

「簡単に言ってくれる! 残してきた仕事は、財産は、どうなる? 何の準備もせず、無一文でどう生きていくのだ! 君は、国を捨てるということがどういうことかわかっていない!」


 それは、かつてルジュエルを追われたヘーメルが言うからこそ響く言葉だった。サピンは何も言えなくなるが、ミアスが割って入った。


「もし、亡命後のお住まいや生活が不安なのであれば、私の実家の邸宅に来てください」

「レゲール君? 君まで……!」

「古い屋敷ですが、広さは十分で、客室も沢山あります。自慢ではありませんが、生家のレゲール家は、アルトスタの古い貴族ですので」


 ヘーメルは一瞬ポカンとしていたが、やがて気まずそうに目をらす。


「別に、そういうことが言いたかったわけでは」

「今の生活を捨てることは、難しい決断だというのはわかります。でも私は、ヘーメルさんに、死んでほしくないんです」


 ミアスはまっすぐにヘーメルを見ていた。ヘーメルは何か言おうとして、言葉をむ。


「私は、外交官としてはまだまだ未熟で、フェルザ帝国のような大国での勤務は初めてです。右も左もわからなかったとき、いきなり医学会のシンポジウムを任されて……そのとき、ヘーメルさんには本当に助けられました。本当に感謝しています」


 サピンは、何も言わずにミアスの横顔を見る。これは、説得のための言葉ではなく、本音だろう。ミアスが、ヘーメルとしっかり人間関係を作っていたからこそ、出てくる言葉だ。


「もしかすると、暗殺なんて無いのかもしれません。それでも、もし予想通りだったとしたら取り返しがつかないんです! だから今回は、私たちを信じてください。お願いします!」


 ミアスは頭を下げた。ヘーメルの表情が、泣きそうにゆがむ。すかさずサピンも割って入った。


「私も同意見です、ヘーメルさん。まだお会いしたばかりですが、ヘーメルさんとはもっとお話ししてみたいと思っていたんです。皇帝の主治医で、堅い人間を想像していたら、俺のあり得ない失言も笑って許してくれて、その、面白いじいさんだと」


 ミアスにせきばらいしながら肘でつつかれ、サピンは顔をゆがめた。こういう、情に訴える説得は慣れていない。だがヘーメルは、意外にも、少し困ったように笑っていた。


「アルトスタで、い酒でも飲みましょう。だから、来てください」


 サピンは、これ以上何か言ってもボロが出るだけだと思い、言葉を結んだ。ヘーメルは、何も言わなかった。車輪が石畳を越える、単調なリズムだけが続く。

 ヘーメルは、ゆっくりと窓の外を見た。


「もうだいぶ大使館に近づいてきたな。ここから引き返すのは無理か」


 サピンも反射的に外を見る。風景は、大使館のすぐ近くの大通りだった。ヘーメルは、サピンたちの方を向いて笑う。


「わかったよ。私の負けだ。実を言うと、どうせ医者はこのまま引退するつもりだったのだ。外国の貴族の屋敷で余生を過ごすのも悪くなかろう」

「ヘーメルさん……」


 ミアスはあんの笑みを浮かべる。サピンも同じ気持ちだった。ヘーメルを、『分割案』の件で、アルトスタ側に引き込んでしまったのは自分だ。そのせいで、彼を死なせるわけにはいかない。ヘーメルの表情は、孫を見る祖父のように穏やかなものになっていた。


「このままアルトスタに行くことは、もう腹をくくろう。だが、亡命に当たって、一つだけ頼みたいことと言うか、条件があってな」

「はい、何でしょう」

「それは……」


 ヘーメルが口を開いた瞬間。外で、悲鳴のような馬のいななきが聞こえ、馬車が大きく揺れた。

 直後、車体に激しい衝撃が走り、三人は椅子から投げ出された。


「いって……! 何だ?」


 サピンは体に痛みを覚えながら起き上がる。


「一体、何が?」

「どうしたんでしょう?」


 ヘーメルとミアスも、驚いた表情で起き上がっていた。窓を見ると、馬車は止まっていて、目の前に壁があった。道を外れて建物にぶつかったのだろうか。連絡窓からぎよしやだいを見ると、ぎよしやの姿は見えなかった。衝突のショックで振り落とされたらしい。


「事故みたいですね……みんな、はありませんか?」


 そう言って、サピンは違和感を覚える。ここは、よく整備された都会の道だ。それが、こんなタイミングで、狙いすましたように事故など起こるものだろうか?

 そもそも自分たちは、暗殺を警戒して逃げてきた。市街地に入った時点でもう安全だと勝手に思っていたが、本当にそうだろうか? 自分が暗殺者ならどうする?

 大使館の前で、待ち伏せするのではないか?