亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第三章 会議室の武士 ⑨

「……外に出るぞ!」


 考えるより先に、サピンは叫んでいた。ミアスとヘーメルはぎょっとして振り返るが、構わずドアを開けて外に出る。道路に降り立ち、サピンは頭上を見上げた。夜空に、闇をいたような赤い光の線が見える。光は、弧を描いてこちらに近づいてきていた。


「早く出て! 早く!」


 サピンが絶叫し、ミアスとヘーメルが馬車の外に出たのとほぼ同時、馬車が炎上した。サピンたちは熱風に吹き飛ばされて地面に倒れる。

 サピンは、地面に伏せたまま、ぼうぜんとすることしかできなかった。燃える馬車の周囲だけが、昼のように明るい。馬は、首から血を流して倒れていた。もう疑いの余地はない。何者かに襲撃されている。

 我に返って周囲の状況を確認すると、今いるのは、アルトスタ大使館に通じる大通りだった。斜め前方には、既に大使館の正門が見えている。追っ手の姿は見えなかった。


「大使館はすぐです! 走りましょう!」


 サピンが走り出すと、ミアスとヘーメルも続く。頭はぐちゃぐちゃに混乱していたが、その中で、後悔がはっきり形になる。やはり、帝国はスキルパ・ヘーメルを殺すつもりだった。間一髪、先手をとってヘーメルを迎えに行くことはできたが、そこで安心すべきではなかった。暗殺者がそんなことで諦めるわけがなく、サピンたちがアルトスタ大使館に向かうと予測して、待ち伏せしていたのだ。馬車を燃やしたのは、攻撃系魔石技術の一種、【きゆう】だろう。やつらは、外交官であるサピンとミアスごと殺すつもりなのだ。

 すぐに息が切れ、脚がもつれる。目の前にあるはずの大使館の正門が、遠い。この通りはこんなに広かっただろうか? 必死に脚を動かしながら、サピンはまた失敗を悟る。この通りには身を隠す場所がない。


「ま、待ってくれ……」


 振り返ると、ヘーメルとだいぶ距離ができていた。老人にこの全力疾走はこたえる。


「ヘーメルさん、急いで!」


 サピンは慌てて引き返すが、その瞬間、顔に生温かい感触を感じて立ち止まる。頰に手を触れると、てのひらが黒くれていた。粘りのある液体が、炎に照らされて光る。血だ。

 驚いて顔をあげると、ヘーメルが、膝から崩れ落ち、倒れた。胸の辺りから、まりが広がっていく。


「ヘーメルさん!」


 サピンはヘーメルに駆け寄ろうとしたが、急に脚に力が入らなくなり前のめりに倒れた。起き上がろうとしてもやはり右脚が思うように動かず、手を触れると、ふとももの辺りが生温かい血でれている。鋭利な刃物で切られたような、大きな傷ができていた。


「サピンさん! ヘーメルさん!」


 ミアスの声が聞こえた。顔をあげると、ミアスはこちらに引き返そうとしている。


「来るな! 先に大使館に! 助けを!」


 ミアスは顔を引きつらせてしばらく迷っていたが、やがてきびすを返した。長い脚をしなやかに動かし、みるみる距離が離れて行く。サピンは場違いにも、ミアスは何かスポーツをやっていたのだろうかとのんに考える。

 そのとき、思い出したように脚の傷が激痛を発し始めた。それは、暴力と無縁に生きてきたサピンが感じたことのない痛みだった。頭の中が痛みに支配されて何も考えられず、必死に押さえた傷口からは湧き水のように血が流れ出る。

 視界の隅に、人影が映った。振り返ると、炎の逆光の中を、一人の男が近づいてくる。男は、金属の棒のようなものを持っていた。棒の先端には、半透明の石がついている。魔石武具。攻撃系の魔石を先端に格納した、戦闘用の武器だ。男は、倒れたヘーメルの前で立ち止まった。

 ヘーメルは顔をあげ、ゆがんだ表情でサピンを見た。


「サ、サピン君、逃げろ……」


 男は、金属の棒を持ち上げ、先端にセットされた魔石を口元に近づけた。


「や、やめ、やめ……」


 サピンは必死に叫ぼうとするが、息が漏れるような声しか出ない。


風刃エル・グラデイオ


 男はつぶやくように詠唱すると、魔石をヘーメルの頭に向ける。次の瞬間、石が青く輝き、三日月のような形をした何かが射出され、ヘーメルの体がけいれんするようにびくんと動いた。

 頭が、真っ白になった。ヘーメルは、うつ伏せに倒れたまま微動だにせず、まりが広がっていく。声を出そうとするが、けいれんしたように顎が動くだけで音が出ない。

 エル・グラディオ──魔石から風のやいばを射出する攻撃系魔石技術、【ふうじん】だ。ヘーメルの頭を、その【ふうじん】が貫いたのである。生きているはずがない。死んだ。理性はそう言っているが、感情は受け入れようとしない。

 男はヘーメルの死を確認すると、顔をあげ、サピンを見た。

 逃げなければと思うが、全身から力が抜けて動くことができなかった。死ぬ。自分もヘーメルと同じように、あの魔石から出る風のやいばに貫かれて、死ぬ。それはもはや疑いようのない事実だったが、現実感がなかった。燃える馬車も、倒れているヘーメルも、自分のふとももの傷さえどこかごとのように感じられるが、目の前の現実は淡々と進んで行く。男はさっきと同じように、金属の棒の先端の魔石を、口元に近づけた。

 彼が、魔石技術の短い一言をつぶやいたとき、自分の命は、終わる。

 そのときだった。何かが、サピンの視界を塞いだ。


「え……?」


 サピンは驚いて顔をあげた。小さな人影が、男とサピンの間に立ち塞がっている。

 背中まである長い黒髪。民族衣装のような変わった形のドレス。

 目の前に立っているのは、ラジャだった。

 大使館からこの騒ぎを見たラジャが、助けに来たのである。

 だが、サピンが感じたのはあせりだった。


「だ、ダメだ……ラジャ、逃げろ!」


 恐怖で吐きそうになりながら叫ぶが、ラジャは、そんなサピンの言葉を無視した。いつも通りの涼しい視線を、正面の男に注いでいる。


「お前ならわかるだろ! 帝国の刺客だ! 危険だ!」


 それでもラジャは動こうとしない。サピンは力を振り絞り、地面に手をついて体を持ち上げようとする。自分はどうなってもいい。ラジャだけは、大使館に戻さねばならない。刺客の男は、突然のちんにゆうしや、それもとしもいかない少女に驚いていたが、すぐに冷静さを取り戻した。魔石を口に近づける。


風刃エル・グラデイオ


 魔石技術、【ふうじん】の詠唱だ。男は腕を伸ばし魔石武具をサピンに向ける。間に合わない。サピンが死を覚悟した、そのとき。

 ラジャの胸の辺りが、内側から、ぼんやり青く光った。その輝きは、魔石が魔石技術を発動するときの輝きに、よく似ていた。

 ラジャが、サピンの視界から消えた。驚いて顔を上げる。いつの間にか、ラジャの姿は男の目の前にあった。魔石武具の先端の魔石が青く輝き、【ふうじん】が発射される瞬間、ラジャはてのひらで男の手首をはじいてその角度を変える。くうに放たれた風のやいばは、歩道の街路樹の枝を切断し、枝葉が舞い落ちた。

 ラジャはそのまま両手で男の手首をつかむと、身をひるがえしてふところに入り、男を背負い投げにした。男は背中から地面にたたきつけられ小さくうめき声をあげるが、ラジャはそのまま男の手首をひねり上げる。

 パキン、と骨が折れる小気味良い音がして、男が今度は甲高い悲鳴をあげた。