亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第四章 神なき地で交わす約束 ③

 サピンが急に叫んで顔を近づけてきたので、エンシュロッスはのけぞった。サピンはかなり興奮しており、上司に対する礼儀も完全に忘れているが、その勢いには、本当に何か秘策があるのではと期待させるものがあった。エンシュロッスは、サピンの態度をたしなめるのも忘れ、言葉の続きを待つ。


「帝国があせる理由! それは、皇帝崩御後の、帝位継承争いです! 皇帝は老齢で、現体制の実質的な支配者は、右腕のツフロ宰相です。ツフロ宰相は、後継者としては第一皇子を支持していますから、順当に行けばそのまま継承になるでしょう。ですが、第二皇子派もまだ継承を諦めておらず、緊張関係にあるのはご存じの通りです」

「ああ、それはそうだな」


 第一皇子と第二皇子の対立は、新聞などでも報じられているから、庶民でも知っている、が。


「……しかし、第一皇子と第二皇子の勢力の差は歴然だろう。第一皇子派がよほど大きな失点でもしない限り、第一皇子の継承は固いだろう」

「その、〝大きな失点〟が、目の前に迫っているとしたら?」


 エンシュロッスは思わず言葉をむ。サピンは、悪魔のような笑いを浮かべていた。


「第一皇子派……つまり、ツフロ宰相最大の失点の可能性にして、頭痛の種。それこそ、今回のルジュエル地方奪還失敗なんですよ! ツフロ宰相が、十五年前の宰相就任時に、皇帝に対し『五箇条の誓約』を立てたのは有名な話です。それらのうち四つは達成されましたが、唯一、いまだ成されていないものがある。それが、ルジュエル地方奪還です」

「それはわかる。確かに、ルジュエル地方奪還前に皇帝が崩御すれば、ツフロ宰相の大きな汚点となり、第二皇子派に責める口実を与えることになる。だが、皇帝はいまだ健在だ。式典や公式行事にも元気に顔を出しているだろう。あせるような段階では……」


 そう言いかけて、エンシュロッスは言葉を失う。皇帝は健在。その言葉に、名状できない違和感を覚えたのだ。サピンはエンシュロッスの心を読んだかのように、口をゆがめて笑った。


「それが、違うんですよ。俺の読みでは、皇帝はもう、死んでいます」


 エンシュロッスは目を見開いてサピンを見る。


「そんな……! いくらなんでも乱暴な」


 反論しようとするが、言葉が出てこなかった。確かに自分は、大国の大使でありながら、皇帝に一度も会ったことはない。他の友好国もそうだと聞いている。それは、単に自分たちへの軽視の現れだと思っていたが、違ったとしたら?

 出てきたくても、出てこられなかったのだとしたら?

 だがそれでも、そう簡単に納得できる説ではない。


「しかし先日、帝国外務省で君も見せられただろう。魔石式空中要塞『ノヴァ・テクタ・ルウェンティス』の飛行試験映像では、笑って見送る皇帝の姿があった!」

「あんな映像、いくらでも加工できますよ。式典とかには時々姿を現していますが、どれも一瞬、豆粒みたいな姿で現れるだけで、影武者でも問題ない。重要な国際会議などは全てツフロ宰相やバタイユがいきようが代行しています。死んではいないにしても、表に出てこられない、危篤状態であるのは間違いないでしょうね」

「しかし……」

「大使は、我々の『分割案』に賛成した帝国の有力者のうち、なぜ、スキルパ・ヘーメルさんだけが暗殺されたんだと思いますか? 他にも賛同者はいるし、彼より政治的地位の高い人物もいたのに、彼だけが、真っ先に殺された。しかも、彼と行動を共にしていた、他国の外交官である俺とミアスまで狙う徹底ぶり」


 エンシュロッスは、一瞬サピンの言わんとすることがわからなかったが、あることに気づく。


「そうか……! スキルパ・ヘーメル氏は、皇帝の医療チームの一員だ……」

「はい。彼はきっと、皇帝の健康状態を知っていたんです。そんな人物がアルトスタへの裏切りの予兆を見せれば、真っ先に殺すことになるのは当然だ。秘密が漏れた可能性を考えれば、彼と接触した俺とミアスも殺さざるを得ない……うっ」


 突然、サピンは大きくよろけて、机を支えに踏みとどまった。


「ど、どうした?」

「いえ、傷が痛みだして」


 よく見ると、サピンの顔は真っ白で、大量の汗をかいていた。エンシュロッスは慌てて立ち上がり、サピンに肩を貸し、ソファに座らせる。


「追い込まれているのは、アルトスタだけではなかった……帝国も、同じだったんですよ。帝位継承までにルジュエル地方奪回を成し遂げなければ、継承争いという内乱を抱えることになる。統一政府が空洞化し、世界全体が群雄割拠の戦国時代に向かっている中、力をつけ始めた列強が、内紛で弱体化した帝国を放っておくはずがない。帝国は、自分で作った弱肉強食の世界で、獲物の地位に落ちることになるんですよ。そうなれば、帝位継承争いに勝つどころか、国の維持すら危うくなってくる」


 サピンはぐったりソファに身を沈めながら、目だけは異様に輝いていた。


「我々は、まだ戦えます。ここで脅しに屈し、帝国にルジュエルを渡してしまうことこそ最大の悪手です。ルジュエル地方問題は、時間を引き延ばせば、我々の勝ちです」


 そこまで言って、サピンは黙った。

 エンシュロッスは、異常に鼓動が高鳴ってくるのを感じる。今まで自分は、相手の要求をどう押し返すかしか考えていなかった。そして、それは失敗した。だが、こちらから攻めることができれば。相手を崩すことができるなら。話は変わってくる、が、しかし。


「確かに、素晴らしい着眼点だとは思うが……」


 エンシュロッスは、サピンの向かいのソファに腰を下ろした。


「だが、皇帝が既に崩御している、というのは、状況証拠による推測に過ぎないだろう。我々がやっているのは、アルトスタと帝国、国と国同士の交渉だ。そんな弱い根拠では、国を動かすことはできない」


 サピンは無表情にエンシュロッスを見るだけだった。エンシュロッスは眉間をむ。


「ヘーメル氏をこちらに引き込めていれば、皇帝の体調についての事実確認ができていたのだが……それももうかなわない。先手を打った帝国はさすがだよ」


 エンシュロッスは悔しさでうつむいた。サピンの考えは、いいところを突いていると思う。だが、遅すぎたのだ。


「もちろん、そうおつしやると思いました」


 サピンの声に、エンシュロッスは顔をあげる。サピンは、ゆがんだ笑みを浮かべていた。


「確かに、確たる証拠を得ることはもうできません。ですが、近づくことはできる」

「サピン君……?」


 そのとき、唐突に部屋がノックされ、エンシュロッスは扉の方を振り返る。


「そろそろ来る頃だと思ってたんです。どうぞ!」


 サピンは自分の部屋かのように勝手に入室を促し、ドアが開いた。


「失礼します!」


 扉の前に立っている人物を見て、エンシュロッスは状況がよくわからず眉をひそめた。入ってきたのは、大使館の駐在武官、つまりアルトスタ軍人の、ムスケル少佐だった。軍服の肩が筋肉で張り詰め、気の強い笑みを浮かべて敬礼する。


「サピン君に頼まれ、客人をお連れしました、大使殿!」

「客……?」


 エンシュロッスの当惑をよそに、サピンは軽く手を振る。


「ありがとうございます、ムスケルさん」

「いやあ、ミアス君と小旅行できるなら願ったりかなったりだ。こういう依頼ならいくらでも」


 ムスケルがそう言いかけると、背後で女のせきばらいが聞こえた。ムスケルは、しまったと言いたげに眉をげる。


「軽口をたたいていい場面ではなかったね。失礼」