亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第四章 神なき地で交わす約束 ④

 ムスケルは一歩横に動いて入り口を開けた。背後に立っていたのは、政治部のミアス・レゲールだった。ミアスは自分も部屋に入ると、さらに、後ろにいる一人の女性に入室を促す。女性は、ミアスより少し歳上くらいで、目を真っ赤に泣き腫らしていた。


「彼女は……スキルパ・ヘーメルさんのご養女で、ご自身も医師の、マルテ・ヘーメルさんです。ヘーメルさんと共に、皇帝の医療チームにおられました」


 サピンの言葉に、エンシュロッスは殴られたような衝撃を受けた。スキルパ・ヘーメルの身内。しかも、彼女も、皇帝の医療チームの一員だと?

 サピンは顔をゆがめて立ち上がり、マルテに近づく。


「お久しぶりです、マルテさん。ヘーメル氏がおくなりになったことは……ミアスから聞いていますね?」


 マルテは、無言でうなずいた。


「……おつらいでしょうが、単刀直入にお伺いします。フェルザ帝国皇帝、フォンドーシュ四世は、既に死んでいますね?」


 一同の視線が、マルテに集まった。マルテは、しばらく赤い目で床の一点を見つめていたが、やがて、ゆっくりと、語り出す。


「私は……半年ほど前、陛下のご体調が悪化した段階でチームを外されたので……今現在、どうあらせられるのかはわかりません」

「なるほど。では、今も元気に公務をやっていて、今後もまだまだ長生きしそうですかね?」


 マルテの顔が引きつった。顔をあげ、にらみつけるようにサピンを見る。


「陛下の医療チームを外れて、しばらくしてから……に、それまで陛下の医療チームとして見たことや、陛下のお体に関する情報はけっして口外するな、全て忘れろと言われました。私も帝国育ちですから、それがどういう意味かはすぐわかりました」


 徐々に声が震えだし、悲しみに湿っていた瞳が、怒りで熱を帯びる。


は、ルジュエル地方に生まれ、どんなに出世しても、帝国の中ではものという扱いをずっと受けていました……それでも、医者として必死に努力して、持てる力を全て帝国のために尽くしてきたんです。秘密だって、一度もばらしたことなんかない! それが、最後に、故郷のために少しだけわがままを言ったことが、そこまで悪いことでしょうか? 殺されるほどひどいことをしたのでしょうか!?」


 いつしか、マルテは大粒の涙を流して叫んでいた。ミアスは怒りに震えながら涙ぐみ、サピンも悲しげにうつむく。マルテは、涙をぬぐい、鋭く一同を見回した。


「質問にお答えします。私がチームにいた時点で、皇帝陛下は、もう公の場に出られるような体調ではありませんでした! あれからった時間を考えれば、くなっていてもおかしくありません! 最高級の魔石治療で延命はできるかもしれませんが、皇帝として帝国を統治するなんて無理です。今、公の場に出てくる陛下は、全て、にせものだと思います!」


 そこまで言い切ると、マルテは崩れ落ち、大声で泣き始めた。ミアスが慌ててその肩を抱き、ソファに座らせる。


「マルテさん、ありがとうございました」


 サピンの押し殺した声を最後に、皆が黙った。部屋に、マルテの泣き声だけが響く。

 エンシュロッスは、完全に硬直していた。泣き叫ぶマルテに同情する暇もなかった。間違いない。皇帝は、もう死んでいるか、危篤状態にある。帝国の実質的な支配者であるツフロ宰相にとって、今、それが明らかになるのはまずい。公約であるルジュエル奪還を成し遂げないまま帝位継承が発生すれば、第一皇子派と第二皇子派で継承争いが勃発し、帝国が分裂するからだ。だからツフロ宰相は、皇帝の死を隠した。そして、隠し通せるうちに、ルジュエル奪還を成し遂げようと必死なのだ。

 だから、ツフロ宰相の配下のバタイユがいきようは、あそこまで露骨なデモンストレーションをしてまで、アルトスタにルジュエル地方を諦めさせようとした……。


「サピン君……これは、いけるぞ!」


 エンシュロッスは立ち上がり、唾を飛ばしながら叫んだ。


「しかし、なぜ彼女は、マルテさんは無事なのだ? 立場的に、ヘーメル氏と同じく、命を狙われていてもおかしくないはずだ!」


 サピンはマルテに遠慮してか、さっきよりだいぶ声を落とし、ソファに座りながら答える。


「はい。間違いなく、狙われていたと思います。でもマルテさんは、先週から、故郷で世話になった知人の看護で、帝都を離れていたんですよ。だから今朝、ミアスに迎えに行ってもらいました。ねんため、軍人のムスケルさんを護衛につけましたが」

「世話になった知人?」

「マルテさんは、ヘーメル氏同様ルジュエル地方にルーツを持ち、早くにご両親を失い、しばらくは、近所の人に育てられたようなものだそうです。帝室保安局も、親族関係は調べているでしょうが、世話になった知人にまで辿たどくのは、少し時間がかかる」


 サピンは、マルテに寄り添うミアスの方を見た。


「でもミアスは、マルテさんの居場所を知っていた。ヘーメルさんご一家と仕事で知り合って、それからもちゃんと人間関係を築いていたから、マルテさんが知人のために故郷に帰る、という個人的な事情も知っていたんです。だから、暗殺者の先回りをし、彼女を保護することができた。外交官の基本である、関係者との社交を怠らずにやってきた、ミアスだから得られた勝利です」

「え……?」


 ミアスは、褒められたのがよほど意外だったのか、驚いてサピンを見る。サピンは、それに気づいているのかいないのか、無言で正面に視線を戻した。


「……マルテさん。おつらい中、情報提供ありがとうございました。あなたの身柄は、アルトスタが責任を持ってお守りします」


 エンシュロッスの言葉に、マルテは泣きながら、声を出さずにうなずく。

 エンシュロッスは一同を見回した。


「希望が見えてきた。もう一度、帝国と話し合いを……いや、戦いの場を持とう」


 サピンは、力強くうなずく。


「これから先、統一政府は弱体化し、世界は、より弱肉強食に近づいていくはずです。そこでは、弱者の言葉など一顧だにされない。だからこそ、我々は、ここで引いてはいけないんです」


 サピンは苦しげだが、目の輝きは消えていなかった。エンシュロッスはサピンの目を見る。


「これから忙しくなるぞ。サピン君。この交渉には、君も同席してもらうからな」


 その瞬間、なぜかミアスが、不安そうにサピンの方を見た。

 するとサピンは、汗まみれの白い顔で、不敵に笑った。


「また、退職が延びたな」


 それから、帝国との最後の予備交渉に向けて準備が始まったが、出だしから暗雲が立ち込めた。今回の計画は、表向きはエンシュロッス大使の発案ということになっていたが、実際に取り仕切っているのはサピンだった。そのことを、政治部が快く思わなかったのだ。

 政治部は、外部との交渉で中心になる部署である。その政治部が非協力的では、交渉などできない。エンシュロッスの説得にも応じず、状況はいきなり暗礁に乗り上げたかに見えたが、事態を動かしたのは、意外にもミアスであった。

 今はめんを気にしている場合ではない。大使館が一体になって交渉に臨むべきだ。主導権を総務部のサピンに取られたのは、自分たちの実力不足のせいではないか。ミアスは己の立場が悪くなるのを覚悟で、政治部の面々に説教、もとい説得を行ったのである。

 若手の捨て身の説得は、政治部の面々の心を動かしたようであった。サピンの案自体は認めている者が多かったこともあり、結局、政治部長が折れて、何とか交渉の準備は動き出した。