亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第四章 神なき地で交わす約束 ⑤

 そこまでの背景があって、自分が怠けるわけにはいかない。言い出しっぺであるサピンは、足の激痛に耐えながら、人の倍働いたのであった。

 そうして、慌ただしい日々が過ぎていき、交渉が十日後に迫った、ある夜。

 誰もいない総務部の執務室で、サピンは一人、自分のデスクに向かっていた。交渉の理論に穴がないかの確認や、想定される反論と、それに対する反論のシミュレーションを繰り返す。

 ふと気づくと、もう部屋には誰もいなかった。不安感が拭えず、つい遅くまで作業を続けてしまうが、体調を崩しては元も子もない。今日は切り上げることにして、席を立つ。

 足を引きずるようにして、真っ暗な廊下を歩く。脚の痛みはだいぶ引いていたが、完治はしていなかった。へいたんな場所はともかく、階段の上り下りはまだ大変だ。

 手すりにしがみついて階段を下り、踊り場で折り返した瞬間、サピンはギョッとして足を止めた。真っ暗な二階の廊下に、ぼんやりと、白い影が立っている。

 踊り場の窓から入る月明かりが、その人物をかすかに照らした。

 立っていたのは、ラジャだった。いつもの無表情で、サピンのことを見上げている。


「驚かすなよ。どうした、ラジャ」


 サピンはあんの笑みを浮かべるが、ラジャは、何も言わず黙っていた。


「……ラジャ?」

「ハナシ、アル」


 ラジャはそれだけ短く言うと、身をひるがえして歩き出した。

 サピンの顔から笑みが消える。来るべき時が来た気がした。

 大使館前の襲撃以来、ラジャと話す時間はほとんどなかった。あのときの力のことを詳しく聞きたい気持ちはあったし、助けられた礼も言いたかったが、いかんせん時間がなかったのだ。ラジャも、強いてサピンと話そうとはしてこなかった。

 そのラジャが、自分から働きかけてきた。無口な彼女が、話しかけてくること自体ほとんどない。何かの覚悟をした上での行動であるのは間違いない。

 サピンは、心を決めて歩き出し、ラジャの後に続いた。

 ラジャが向かったのは、職員用の食堂だった。いつも二人で飯を食っていた、テラス席だ。

 ラジャは、手すりに軽く手を触れ、外を眺める。サピンも、無言でその後ろに立った。テラスからは、大使館の中庭が見渡せる。ラジャが、この大使館で過ごすことになった、あの中庭だ。整えられた庭木と、古びた小さな東屋を、月明かりが柔らかく照らしている。

 ラジャは、ゆっくりと振り返った。


「オネガイ、アル」


 サピンは唾を飲み込んだ。それは、こんな状況で言われたのでなければうれしい言葉のはずだった。ラジャが、初めて、自分の希望を伝えようとしている。しかしもう、明るい想像をすることはできない。脳裏に、【ふうじん】で容赦なく刺客を撃ち抜くラジャの姿がよぎり、果たして自分は彼女の願いを受け止められるのか、不安に襲われる。

 そんなサピンの心に構うことなく、ラジャは、普段と変わらぬ揺らぎのない声で告げた。


「サピン、ニゲロ」


 生ぬるい風が吹き、彼女の長い黒髪を揺らした。何も語らない瞳が、まっすぐにサピンを見つめる。サピンは、どう答えてよいかわからず立ち尽くした。サピン、逃げろ。ラジャは確かにそう言った。


「逃げるって……ラジャ、何を言って……」

「センソウ、ナル。アルトスタ、マケル」


 静かだが、一切の反論を許さぬ口調だった。戦争、なる。アルトスタ、負ける。普通に考えれば、ラジャにそんなことがわかるはずがない。まして、今アルトスタは帝国の弱点を見つけ、領土問題に有利な決着をつけるべく交渉に臨むところなのだ。戦争は、回避されるはずだった。しかし、無口なラジャが、意味もなくこんなことを伝えようとするとも思えない。

 サピンの心臓の鼓動が、少しずつ、速くなっていく。

 月の光が、ラジャの長い髪と白い肌を照らし、この世のものではないかのように、輪郭をぼやけさせていた。ラジャは、表情を変えることなく、淡々と続けた。


「サピン。トオク、ニゲロ」



 帝国首都の上空を、巨大な輪っかのようなものが飛行していく。

 魔石飛行艇。魔石技術によって浮力と推進力を得る、空飛ぶ船である。

 魔石飛行艇は、巨大な輪の直径部分に箱を乗せたような独特の形状をしていて、下から見ると巨大な輪が飛んでいるように見えるのだった。この輪の部分は、【浮揚】の魔石が格納された飛行艇の動力部で、輪の上に乗った長方形の箱が、客室や貨車の役割を果たす。

 その飛行艇には、アルトスタ大使館の交渉メンバーが搭乗していた。今日は、ルジュエル地方問題について、アルトスタと帝国の交渉の日なのだ。

 交渉メンバーは、エンシュロッス大使を筆頭に、政治部の幹部たち、それをサポートする若手たちだが、そんな中唯一、総務部の人間のサピンも加わっていた。

 サピンは、座席にもたれて窓から外を見た。眼下には、見渡す限り黒い砂漠が広がる。かつて人類が、伝説の攻撃系魔石技術、【ちようばつ】を撃ち合って戦い、自らの手で焼いてしまった土地、『懲罰地帯』である。飛行艇は、都市部を離れ、郊外に向かって進んでいた。

 今日の交渉場所は、帝国外務省ではなかった。帝都から飛行艇で二時間の距離にある、帝国軍魔石技術研究所の中の、ある場所を指定されているのだ。バタイユがいきようのスケジュールがどうしても合わないからというのが理由だが、アルトスタ側の誰一人、それを信じてはいない。

 隣の席では、ミアスが静かに正面を見つめていた。他の面々も、会話こそ無いが、変に緊張したり恐れたりしている様子はない。今日のために、十分すぎるほど作戦は練っているのだ。

 だから、この機内で最も緊張しているのは、サピンであった。

 サピンにとって、今日の交渉は、他の面々とは全く違う意味を持ってしまっていた。もし当初の予定通りなら、半ば勝利を確信し、静かに空の旅を楽しめたであろう。

 だが、それはもう過去のことだ。あの夜に、ラジャから打ち明けられたある事実。その事実によって、この交渉は完全に表情を変えてしまっている。そしてその事実は、アルトスタの他のメンバーにも、打ち明けるわけにはいかないのだ。

 サピンは座席から少し身を乗り出し、通路の奥を振り返った。客席スペースの後方に、格納庫への扉がある。

 サピンは再び前を向くと、祈るように手を組んで目を閉じた。

 しばらくの空の旅の後、一行は今日の議場である、帝国軍魔石技術研究所の上空に到着した。

 研究所は、飛行艇から見下ろしてもどこからどこまでが敷地なのかわからない、広大な施設だった。無限に広がる荒野の至る所に、研究施設、砲台、射撃場、訓練中の兵士たち、爆発の跡とおぼしきえぐられた地面などが点在している。

 やがて飛行艇は大きく旋回し、サピンは窓の外に見えたあるものに体を硬直させた。


「あれは……!」


 周囲の面々も座席から立ち上がり、窓に張り付いている。


「アレか……」「やっぱり本物だ」「こんなデカイのかよ……」


 巨大な平らな物体が、研究所の上空を漂っている。その大きさは、帝都の宮殿の敷地を全て覆うくらいに見えたが、正確なところはわからなかった。上空故に周囲に比較するものがないというのもあるが、何より、そんな巨大なものが空に浮いているという異常事態に、頭がついてこられないのだ。

 ノヴァ・テクタ・ルウェンティス。

 帝国が開発した、魔石式空中要塞である。先日、外務省で映像を見せられた要塞の実物が、今、目の前に浮いていた。