亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第四章 神なき地で交わす約束 ⑧


 ノヴァ・テクタ・ルウェンティス内の大会議室にて、一同が着席し、交渉が始まった。会議室は、要塞の中では場違いな広い部屋だが、外務省と比べるとやはり狭い。テーブルでは、幹部たちが肘が触れるような距離感で座り、かべぎわに座る若手の椅子には背もたれもない。

 上座で、エンシュロッスとバタイユがにらう。

 口火を切ったのはエンシュロッスだった。


「本日、皆様にお伝えしたいことは一つ。ルジュエル地方を無条件で割譲せよとの貴国の要求ですが、検討の結果、やはりお応えできないという結論になりました」


 そう言って、エンシュロッスは向かいに座るバタイユにほほみかけた。会議室がざわつく。特に、帝国側の人間の多くは、信じられないと言いたげな表情だ。

 バタイユは、背もたれにもたれると、口をすぼめ、おおに驚きを表現した。


「ほう。それでは再三お伝えしている通り、我々は、帝国固有の領土であるルジュエル地方を武力をもつて奪還する……という決断をせざるを得なくなります。アルトスタには、我々と戦うお覚悟がある、ということでよろしいですな?」


 ナイフを刺し込むような言葉に、場が張り詰める。

 しかしエンシュロッスは動じず、かすかな笑みを崩すことはなかった。


「はい、もちろん。むしろ我々との戦いに覚悟が必要なのは、貴国の方なのではありませんか? バタイユがいきよう

「どういう意味ですかな?」

「これは、ある確かな筋から得た情報なのですが……皇帝陛下のご体調、かんばしくないようですな」


 エンシュロッスの言葉に、アルトスタ陣営に緊張が走った。皇帝の体調。それこそアルトスタの帝国に対する切り札であり、エンシュロッスがそれを口にするということは、戦場で司令官が全軍突撃の号令を上げることと同じなのだ。

 が、しかし。会議室の反応は、意外と静かだった。帝国陣営は、大半が、驚きというより理解ができないという様子で、きょとんとしている。

 バタイユも、困ったように眉をひそめた。


「それは……おつしやっている意味がよくわかりませんな。陛下はお元気で、先月も戦没者の慰霊式典にお出ましになったばかりですが……」


 その戸惑った口調に、エンシュロッスは僅かに表情を硬くし、アルトスタ陣営に動揺が広がる。誰もが、心の片隅に抱いていた不安。皇帝崩御など、ただの勘違いなのではないか? にせの情報に踊らされて、無謀な駆け引きに挑んでいるのではないだろうか? これが失敗し、帝国の心証を悪くしたら、もっとひどい条件を突きつけられるのではないか……?


(いいぞ……計画通りだ)


 そんな中、サピンだけは、冷静に帝国陣営の表情を観察していた。確かに、この場にいる帝国の人間は、大半がエンシュロッスの言葉の意味を理解していないようだった。だがそれは、皇帝崩御がにせじようほうだということを意味しない。当然だ。帝国の人間も、皇帝崩御の情報など知らないのである。皇帝の死亡は、それが事実なら、国家の将来を揺るがす最重要機密であり、政権に近い人間以外知らされるわけがない。かべぎわに座る若手はもちろん、着席している幹部も、半数以上は理解できないはずだ。

 バタイユも、そう簡単に動揺を表に出すほどかつではあるまい。

 だが、間抜けが一人いた。

 バタイユの隣に座る、レナード参事官だ。彼は明らかに目が泳ぎ、額に汗をかいている。

 サピンは思わず笑みを浮かべ、拳を握った。バタイユが驚きを隠し通すのは予想していた。だが、全員がそこまで太い神経をしているはずがない。尻尾を捕まえた。

 エンシュロッスは僅かに振り向いて、サピンの方を見た。サピンはその目を見返してうなずく。エンシュロッスも重々しい表情で小さくうなずくと、バタイユに向き直った。


「陛下がお元気であらせられるなら、何よりです。では、これから私が話すのは、あくまで仮定の話ということになりますが……現宰相のツフロ閣下は、就任時、『五箇条の誓約』なる公約をお出しになった。そのうち、唯一今も達成されていないものが、『ルジュエル地方の奪還』です。もし仮に、最後の公約である『ルジュエル地方の奪還』を成し遂げないまま、皇帝陛下が退位なさり、第一皇子に帝位をお譲りになるようなことがあれば……ツフロ宰相の求心力は低下し、対抗する第二皇子派に、反撃の口実を与えることになる。第二皇子派が反旗をひるがえせば、大規模な帝位継承争いが発生することになるでしょうな」

「ずいぶん具体的な仮定ですな」


 バタイユは鼻で笑うが、エンシュロッスは構わず続ける。


「内にそんな争いを抱えながら、外と戦争などはできんでしょう。確かに、帝国の軍事力はアルトスタをりようするが、内憂外患に同時に対処できるほど今の帝国は強くない。何より、そのような状況を、周囲の列強が黙って見逃すはずがありません。フェルザ帝国は、狩る者から狩られる者に立場が転落する。それでも、我々と戦う勇気がおありなら……」


 エンシュロッスは長い脚を組むと、優美な笑みを浮かべた。


「ご自由にどうぞ。アルトスタは受けて立ちます」


 一気に、帝国の席がざわついた。レナードの顔はあからさまに引きつり、他の面々も、エンシュロッスの言葉がハッタリではないことを感じ取って雰囲気が変わってくる。

 が、バタイユだけは、その顔に何の感情も表してはいなかった。少し何か考えるような仕草をした後、僅かに後ろを向いて、かべぎわに座る若手官僚の一人に目配せすると、若手は立ち上がってバタイユに駆け寄り、顔を近づける。バタイユが何か耳打ちすると、若手はうなずいて駆け出し、会議室から出ていった。

 バタイユは、ようやくエンシュロッスに向き直った。


「ずいぶん雄弁を振るっていただきましたが……帝国法には、帝位継承猶予期間を定める条文があるのはご存じですか? 我々は、それを適用する、という選択肢も持っている。条文によれば、帝位継承に最高三年の猶予を設けることができ、かつ、決議によって延長も可能だ。その間にルジュエル地方を奪うのは、そう難しいことではないと感じますな」

「なるほど。だがその条文によれば、猶予期間中は、帝位継承候補者による合議制によって政治を取り仕切ることになっていますね。そして三百年前、実際にその法律が適用されたときは、結局国はまとまらず、その後十年に渡る内戦となったはずです。そんな不安定な体制が、そうくいきますかな?」


 エンシュロッスの流れるような反論に、バタイユは黙った。

 サピンは、思わず隣のミアスと目を合わせた。ミアスは一瞬口元に笑みを浮かべるが、すぐにすました顔で正面を向く。

『猶予期間』の法律については、調査済みだった。そして、その法に基づく体制が極めて不安定で、三百年前のたった一度の事例以来全く利用されておらず、ほぼ死文化しているということも。反論は準備していたのだ。交渉に関連する帝国の法律の調査は、政治部が総力を挙げて行っていた。ミアスが政治部を説得できなければ、そんな人海戦術は使えず、ここまで古い法律を発見することはできなかっただろう。ミアスの手柄だ。

 そして、バタイユから今の発言を引き出したのは大きな意味があった。

 バタイユは、この論点を持ち出すことで、皇帝の体調が危うく帝位継承が近いことを、暗に認めてしまったのだ。表情には出ていないが、やつあせっている。


くいきそうですね」


 ミアスが小声でささやいた。平静をよそおっているが、頰は興奮で上気している。


「ああ。今のところは」


 サピンも押し殺した声で返す。

 ともかく、『皇帝の死』を材料にした揺さぶりは通用した。第一段階は成功だ。

 だが、これは最低限の、交渉の始まりに立ったに過ぎない。


(ここからは、綱渡りだ……)


 皇帝の死によって、アルトスタは防戦一方から、反撃の手段を得た。だが、それはすなわち勝利ではない。ここで強気に出過ぎても、アルトスタの立場は危うくなる。