亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第四章 神なき地で交わす約束 ⑨

 皇帝の死(もしくは危篤)を知って、アルトスタはそこを突き、ルジュエル地方の無条件引き渡しを拒否した。この時点で、帝国には二つの選択肢が残っている。

 一つ。皇帝の死を公表する前に、一か八か、アルトスタに戦争を仕掛けること。

 一つ。ルジュエル地方奪回を諦め、帝位継承戦に専念すること。

 このどちらかだ。そしてまだ、帝国が前者、戦争を選ぶ可能性は十分にある。

 確かに、ルジュエル奪回を諦めれば、帝位継承争いとアルトスタとの戦争、両方同時に対処する危険はなくなる。だがそれは、帝国が国際的な〝信用〟を失うことを意味した。

 国同士の関係に必要なのは、信用だ。それは、他国への援助や正義の行いなどによって積み上げられる、いわば〝正〟の信用だけでのことではない。帝国に逆らえば自分たちは滅ぼされるかもしれない、帝国はやると言ったら本当にやる、という、〝負〟の信用もまた重要なのだ。帝国にとって、アルトスタを恐れてルジュエルから手を引いた、という評判は恐ろしい。帝国の軍事力恐るるに足らずとなれば、今後、威圧的な外交は通用しなくなる。

 だが、一か八か、アルトスタに戦争を仕掛け、しかも短期間で勝利を得られたとしたら?

 帝国の力なら、電撃作戦でルジュエル地方を占領できる可能性もなくはない。そうなれば、全て丸く収まる結末だ。もちろん、戦争が泥沼化し、最悪の内憂外患に陥る可能性はあるが、帝国が賭けに出る可能性は十分にある。

 だからアルトスタは、帝国が『一か八かの戦争』を選択することを避けねばならなかった。絶対に、『ルジュエル地方を諦める』方の選択をさせねばならない。

 ならば、いかにして、帝国をそちらの選択に誘導するのか?

 方法は、事前にエンシュロッスと打ち合わせていた。

 それは、譲歩だ。

 アルトスタは、ギリギリである『譲歩』をすることで、帝国が、『諦める』選択を取りやすくするのである。

 だがその譲歩は、決して、アルトスタの側から提案してはいけなかった。

 交渉における『譲歩』は、出し方によって、全く違う表情を見せる。弱者が強者の機嫌を伺うために差し出す、卑屈な献上品となるのか。もしくは、強者が弱者に与える、慈悲から生まれた施しとなるのか。そして、譲歩が弱みの現れと見抜かれれば、そこから交渉の流れが変わってしまうこともあり得るのだ。

 今は、沈黙こそ正解であった。

 バタイユは無表情のまま正面を見つめ、何も言わなかった。一方のエンシュロッスも、予定通り、余裕の表情で沈黙している。そこはさすが、大使になるだけの人物ではある。

 後ろから見ているだけなのに、サピンの拳の中は、汗で湿っていた。



 ラジャは、ノヴァ・テクタ・ルウェンティスのえんすいけいの中央塔の外壁を、少しずつ、円周上を回るように横に移動していた。

 やはり、進みは遅かった。たまにある窓の近くだけ気をつければ、見つかる心配は無い。だが一度下に落ちたら戻ってくる方法がないので、慎重に進まざるを得ないのだ。

 少しずつ進みながら、ラジャはふと足を止める。真下を見ると、外壁の、建物にして三、四階ほど下の位置に、巨大な扇形の構造物が生えていた。中央塔に接続されている、要塞の四枚の花弁の一つだ。

 図面によると、風向きなどに応じて角度を変えて姿勢制御を行う、平衡翼という部分らしい。

 ラジャは考える。このまま落ちないようにゆっくり進んでいては、目的地までとても時間がかかる。ならばいっそ、あの平衡翼に飛び降りるのはどうだろうか。平衡翼は巨大で、それだけでアルトスタ大使館の中庭くらいはある。風にあおられたとしても、落下地点から外れることはないだろう。安全に、相当の時間を短縮できる。

 ラジャは覚悟を決めると、勢いよく壁を蹴った。小柄な体が宙に舞い、強風で僅かに落下の軌道がれるが、予想通り巨大な平衡翼から外れるほどではない。

 ラジャは、つんいで平衡翼の付け根付近に着地し、鈍い音と共に翼が振動する。


(よかった、くいった)


 あんでほっと一息をついた、その時。

 何かを引き裂くような音と共に、足が下に引っ張られた。平衡翼に穴が開き、足が突き抜けたのだ。

 裂け目はさらに広がり、下半身が翼を突き抜けた。宙ぶらりんになりながら、上半身で平衡翼にしがみつくが、その部分もピシピシと割れる気配がする。腕を突っ張って体を引き上げようとするが、バックパックが引っかかってくいかない。ひび割れの音が大きくなり、ラジャはがむしゃらに正面に手を伸ばす、が、ほぼ同時。体の周辺の板が完全に壊れた。

 砕け散った薄い板の破片が、パラパラと湖に落ちていく。

 ラジャは、かろうじてつかんだ平衡翼の一部に、片手だけでぶら下がっていた。


(……あぶなかった)


 顔をあげると、自分が突き破った平衡翼の穴から空が見える。平衡翼は、驚くべきことに、鉄の骨組みに、薄い木の板を張り巡らせただけの粗末な造りだった。穴が開くわけである。軽量化のためだろうが、要塞がここまで安っぽい造りだとは思わなかった。

 平衡翼の上によじ登り、今度は骨組みの上を慎重に歩いて、再び中央塔の外壁に取り付く。

 反省したラジャは、もう横着せず、慎重に外壁を下りていった。残りの距離はそう長くない。

 ほどなくして、目的の第九階層に辿り着いた。周囲を見回すと、非常出口はおろか、窓すらほとんどない。だがサピンの推測が正しければ、近くに、ある部屋の窓があるはずだ。


(あった)


 少し離れた場所に小さな丸窓があった。しかも少し開いている。窓の近くまで移動すると、つんと鼻を突く悪臭が漂ってきた。中をのぞくと、見える範囲には誰もいない。

 ラジャは、開いている丸窓の枠をつかんだ。胸の内側が青く輝き、腕に力を入れ、ちようつがいから窓を引きちぎる。そのまま投げ捨てると、丸い窓ははるか下に小さくなって消えた。

 ラジャは、バックパックを下ろして中に投げ入れ、続いて自分も室内に入る。

 中に入ると、より悪臭がキツくなり、思わず鼻を覆う。室内はそれなりの広さがあり、場の大半を占める巨大な機械に、いくつものパイプがつながっていた。

 図面によると、ここは汚物処理室だった。要塞内の尿にようを集めて処理する場所で、機能的に要塞の最下部に置かれ、高い確率で窓がある部屋だ。

 図面を元に、サピンと話して決めた計画はこうだ。第一に、汚物処理室に向かい、窓があれはそこから侵入。なければ、二つ上の第七階層の非常口を破壊して侵入する。ラジャは、要塞の機関部が集中する、第九階層より下を目指していた。できるだけ低い位置から潜入したかったが、結果はサピンのもくどおりだ。

 誰にも見つからず、一気に第九階層まで下りることができた。ただ、楽なのはここまでだ。ここから先は図面にも情報がないし、警備も自力で突破しなければならない。

 ラジャは、バックパックを背負うと、腰につけた魔石武具を外した。

 サピンの交渉は、どういう状況だろうか?

 残された時間は少ない。ここからは、出たとこ勝負だ。



 ノヴァ・テクタ・ルウェンティスの会議室には、出席者を押し潰すような重い沈黙が充満していた。


「なるほど……私は少し、あなたたちを甘く見ていたようだ」


 バタイユのつぶやきのような一言が、静寂を破った。呼応するように、エンシュロッスの表情がかすかに動くが、すぐにすました顔で軽く頭を下げる。


「お褒めいただき光栄です」

「ですが、あなた方は、一つ大きな思い違いをしている」

「思い違い、ですか?」

「はい。交渉の根幹に関わる、重大な思い違いだ」