亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第四章 神なき地で交わす約束 ⑫

 ラジャは、肩で息をしながら周囲の気配を探る。どうやら、戦える兵士はもういないようだ。機関室は完全に制圧した。歩き出そうとして、痛みに顔をゆがめる。左肩に大きな切り傷ができて、血が流れている。さっきの散弾型【ふうじん】のせいだ。

 ラジャは防具のポケットから魔石を取り出し、傷に近づけた。


治癒クレトウ・エリーズ


 魔石が輝き、傷が塞がっていく。【】の魔石技術は、できるのはせいぜい止血と消毒だけだが、出血を止められるだけでも十分だ。

 ほとんど負傷をせずに、ここまで来ることはできた。目標はもう目の前だ。

 だが、順調などとは言えない。前を向くと、無数の機械で入り組んだ通路が続いている。この先に、この要塞の、そして【ちようばつ】の魔石技術を格納する場所があるはずだった。

 自分は、間に合わなかった。

ちようばつ】は、発射されてしまったのだ。



 空中要塞『ノヴァ・テクタ・ルウェンティス』の会議室は、沈黙に包まれていた。熱気と狂騒を無理やり押さえつけた、爆発寸前の沈黙である。

ちようばつ】の試射から、交渉は小休止となっていた。飲み物が配られ、しばしの休憩となるが、特にアルトスタ側からは、小声の雑談すら聞こえてこない。皆、先ほどたりにした光景に戦慄し、萎縮しているのだ。会話どころか、恐怖で叫びだしそうになるのを我慢するのがやっとだった。

 サピンは、手の中のコップに半分ほど入った水を見つめる。手が震えているのか、要塞全体が揺れているのかわからないが、水は小さく波打っていた。


「【ちようばつ】の魔石技術か……歴史で習う伝説の兵器が、よりによって、帝国で開発されていたとはね……」


 隣に座ったミアスが、ぼうぜんと正面を見ながらつぶやく。確かにそれは、現代に生きる人間にとって、今までの常識がひっくり返る出来事であった。


「これで、私たちの交渉は完全に破綻しましたね」


 ミアスはそう言ってサピンを見た。顔には、やけくその笑いが浮かんでいる。


「だってそうでしょ? 私たちは、『泥沼の長期戦になれば、帝位継承争いを抱える帝国の方が不利』という前提に立って、理論を組み立てていた。でも、【ちようばつ】みたいな兵器があるなら、その前提は崩れます。あんなものが……あんなものがあるなら、帝国とアルトスタの戦争は、泥沼になんかならない。あっという間に、首都を制圧されて終わりですよ。それこそルジュエルどころじゃない、アルトスタそのものの……」


 そこまで言って、ミアスは口をつぐんだ。続きを言うのが恐ろしくなったのだ。サピンは返事をせず、正面を見る。


「では、皆様。時間も迫っておりますので、そろそろ交渉を再開できますかな?」


 バタイユが穏やかな声で言った。エンシュロッスははじかれたように顔をあげるが、おびえた目でバタイユを見るだけで、何も言わなかった。バタイユは続ける。


「これから申し上げるのは、我々のさいつうちようです。ルジュエル地方を、我々に無条件で返還するか。それとも、実力によって雌雄を決するか。ご決断いただく時です」


 サピンは、周囲のアルトスタの同僚たちを見回した。皆、目を見開き、固唾をんでバタイユを見つめている。恐ろしいのに、逃げ出したいのに、引き寄せられるように視線を離せない。少し体格がいいだけのただの老人が、会議室全体を圧迫する力を放っている。その正体は、帝国という存在そのものだ。彼はがいきようとして、帝国という国を背負っている。彼の口は帝国の口であり、彼の声は帝国の意志を代弁する。アルトスタの外交官たちは、バタイユを通して、帝国という、巨大な魔物を見ているのだった。

 まずいな……。

 サピンはコップを握りしめる。皆、完全にまれている。この状況で、バタイユの言葉を拒否できる者などいるはずがない。コップの水面の揺れは、さっきより激しくなっている。


「私たちは、こんな恐ろしいものを、相手にしようとしてたんですね」


 ミアスが誰に言うでもなくつぶやく。サピンは振り返らなかった。


「サピンさん。国外逃亡するときは、私もご一緒しますよ」


 サピンは目を閉じる。普段のミアスなら絶対に言わない言葉だった。もう限界だ。

 そのときだった。部屋全体がガクンと揺れ、一瞬、尻が椅子から浮いた。コップの水がこぼれ手がれる。


「な、何……?」


 隣で、ミアスが不安そうにつぶやいた。


「な、なんだ?」「まだ動くのか?」と他の皆も不安そうに声をあげる中、サピンはあることに気づいた。コップに残った水が、傾いている。水面が、斜めになっているのだ。

 だが、それは間違いであった。斜めになっているのは、水ではない。自分たちの方だ。

 再び、今度はもっと大きな揺れが来た。サピンは椅子にしがみつき、コップが床に落ちて水がぶちまけられる。そして会議室は、もう勘違いのしようがないほど完全に斜めになっていた。皆が悲鳴をあげ、それぞれ机や壁につかまっている。


「な、何なのですかこれは! 何が起こったのです!」


 エンシュロッスが叫ぶが、誰も答えなかった。帝国の面々も、この事態に動揺しているのだ。バタイユも、顔をこわらせてテーブルにつかまっている。この揺れは、帝国に仕組まれたものではない。

 また要塞が大きく揺れ、傾きがさらに激しくなった。窓の向こうには、人工湖のみなが見えるようになっている。そしてそのみなは、ゆっくりと、自分たちの方に近づいてきていた。

 いや、その考えは逆だった。

 自分たち、つまりこの要塞の方が、大地に近づいていっているのだ。

 サピンは立ち上がった。


「この要塞……落ちてるぞ!」


 その叫びで、皆が現実を認めた。会議室は騒然となった。


「だ、誰か、状況を報告せよ! どうなっているのだ!」


 バタイユですら取り乱して叫ぶが、軍人含め、状況を把握している者は誰もいない。皆があたふたする間に、地面は近づいてくる。

 サピンはしゃがんで椅子につかまり、隣のミアスを気遣った。


「ミ、ミアス、大丈夫か!?」

「この状況で大丈夫な人なんています!?」


 ミアスも壁に身を寄せて叫ぶが、サピンの顔を見て、表情を引きつらせる。


「なに……笑ってるんですか?」

「え?」


 自覚はなかった。サピンは、据わった目で、笑みを浮かべていたのだ。

 また激しい揺れがあり、地面の迫る速度が上がった。会議室に悲鳴が飛び交い、幹部たちも床に転がっている。窓の外には、発着用の人工湖のみなが間近に迫り、もう落下まで間もない。

 サピンは椅子を握りしめて固く目を閉じた。

 永遠と思えるような一瞬の後。

 激しい振動で、体が浮いた。上下が逆になり、頭上に床が見える。血液が逆流するような不快感が体をかけ巡ったかと思うと、直後、全身が床にたたきつけられた。


「いっ……!」


 うめごえは激しい水音にされた。要塞は人工湖に着水し、窓の外にはみず飛沫しぶきが舞い上がり、夕立のような水滴がガラスをたたく。

 金属のきしむ音と共に、床が急な坂道のように傾いた。机や椅子、出席者たちが自分の方に流れてきて、悲鳴と共に誰かが転がってきて壁にぶつかり、椅子がサピンの背中にぶつかる。それから、今度は均衡を取り戻すように傾きが逆になり、全てが元の方向に流れていく。サピンは頭を守るように体を丸め、目を閉じる。

 どれくらいの長い時間、そうしていたのかわからなかった。