亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第四章 神なき地で交わす約束 ⑰

 迷っているはずだった。ここで判断を誤れば、帝国は窮地に立たされる。もしサピンが言っていることが全て本当なら、帝国はアルトスタと泥沼の戦争に突入する。だが、ハッタリを認めれば、皇帝崩御が知られた状態での交渉に戻る。究極の選択だ。

 しかし実態は、追い詰められているのはサピンも同じだった。もしバタイユが【ちようばつ】のハッタリを認めず突き通せば、アルトスタ政府は【ちようばつ】に恐れをなしてルジュエル割譲を認めるだろう。

 サピンとバタイユは、切り立った山の頂で向かい合っているようなものだった。お互い余裕の顔をして、そのすぐ後ろには、断崖絶壁が地獄まで続いているのだ。



 ノヴァ・テクタ・ルウェンティスの、最下部にある機関室。普段はさまざまな機械の駆動音で満ちているが、要塞が不時着した今、慌てふためく上階とは対照的に、静寂に包まれていた。ラジャにやられた兵士たちも皆救助され、広い空間にもはや誰もいない。

 そんな機関室の奥にある、分厚い鉄の扉が、開け放たれていた。中は、小さな円柱形の部屋で、壁面には魔石が埋め込まれ、それぞれが青く明滅している。【ちようばつ】や、この要塞それ自体を動かすための、基幹魔石技術の制御室である。

 その部屋の中央の制御卓で、何やら操作をしている小さな人影があった。ラジャである。壁に埋め込まれた魔石から四角い光がいくつも浮かび上がり、その中にはびっしりと魔石技術の構文が表示されている。ラジャは光に記された構文を読み、手元のガラス板にペンを走らせる。

 次の瞬間、青い光の中から文章が消えていった。大量の文字は、四角い光の上から下に、虫に食われるように消えていく。

 魔石の中に記された、【ちようばつ】の構文を削除したのだ。

 要塞に搭載された【ちようばつ】は、やはり、かつてラジャたちが持っていたものだった。昔のまま、技術者としてラジャの識別番号が登録されており、ラジャには構文の閲覧、編集、削除の権限があった。網膜認証と十六桁のパスワードで身分が承認されると、ラジャは構文の全削除を実行した。また、直近の閲覧履歴も見てみたが、発掘以降は誰も中を見ていないし、複製もされていない。やはり帝国は、パスワードの突破に手こずっているのだろう。

 先程の、ノヴァ・テクタ・ルウェンティス不時着は、要塞を飛行させる魔石技術のうち、姿勢制御系統の技術を削除し、システムに緊急事態を認定させることで、強制的な不時着を発動させたのだった。着水後、飛行のための魔石技術も削除した。

 これで、この世界に、もう【ちようばつ】も、それを運用するための要塞も存在しない。自分のやるべきことは、終わったのだ。

 制御室を出て機関室に戻ると、巨大な機械と無数のパイプが、無言でラジャを迎えた。ラジャはその場で目を閉じ、静寂に身を任せる。

 サピンは約束通り、ラジャの目的である【ちようばつ】の消去に全面的に協力してくれた。

 要塞最下層の機関部に、【ちようばつ】に関係する魔石があることはわかっていたが、問題はそこにいかに辿たどくかだった。サピンは、外務省の飛行艇にラジャを便乗させると共に、図面を元に安全な移動経路を探し、できる限り危険を避けて要塞に侵入できる計画を練った。さらに、どうしても戦いを避けられないときのため、防具や魔石まで調達してくれた。特に魔石は、本来民間人が入手できない戦闘用のものを、知り合いのようへいがいしやの人間に相場より高い代金をはらって購入したらしく、貯金がなくなったと笑っていた。

 脱出のルートも事前に決めており、バックパックの防水袋の中には、逃走に用いる着替え、現金、地図が入っている。

 全ては、ラジャを死なせず、共にアルトスタに行く、という約束を果たすためだ。

 自分一人だったら、生還を計算に入れずに強引な突破をして、【ちようばつ】を消去できたとしても、敵に囲まれて殺されていただろう。それが今は、ほとんど無傷だ。


(……また、生き残っちゃったな)


 ラジャの小さなつぶやきは、機関室の高い天井に吸い込まれて消えた。

 こんな日が来るとは、想像もしていなかった。ラジャは、はるか昔にその使命を終え、仲間たちと共に、穏やかな、悔いのない死を迎えるはずだったのだ。

 家族もなく、一人で餓死しかけていたところ、フォンスヴィーテの仲間に助けられ、自分も胸に魔石を埋め込む手術を受けた。それから、仲間と共に、人類再生のために奔走することになった。【ちようばつ】によって荒廃した世界で、人々の生活を助け、秩序を守った。

 つらいけれど、楽しい日々だった。彼らは、ラジャにとって、家族だった。でも今はもう、誰もいない。【ちようばつ】の魔石には、昔と同じように、ラジャの権限が残っていた。他の仲間たちの権限も、当時の閲覧記録も、全てあの頃のままだった。それだけが、現代に残された、仲間たちが生きたあかしだ。

 ふと頰に違和感を覚え、そっと手で触れてみる。すると、てのひらが温かくれていた。


(……え?)


 涙だった。ラジャは、いつの間にか、泣いていたのだ。

 手の甲で、ごしごしと涙を拭う。

 人類は、少しずつだけれど、変わっていっている。今も争いはあるが、力ではなく、積み重ねた言葉で解決し、共に生きるすべを身につけ始めている。だから、きっといつか、遠くない未来。人々は、かつて自分たちが夢見たような、平和で豊かな世界を作ることができるだろう。全てを台無しにしかねない、【ちようばつ】の技術は消し去った。今度こそ、自分の使命は終わりだ。

 ……もうすぐ、みんなのところに行くよ。

 そのとき、ラジャは足元に冷たい感覚を覚え、下を向いた。床に水がまり、足がれている。気づくと、さっきまで平衡だった要塞が、少しずつ傾いているようだ。

 ラジャはすぐに状況を理解した。

 不時着の衝撃で、要塞の下部が破損し、浸水が発生しているのだ。このまま浸水が続けば、ノヴァ・テクタ・ルウェンティスは横倒しになり、沈没する。平衡翼に穴を開けたときから、嫌な予感はしていた。例え設計図があっても、現代の技術では、不時着に耐えられるような強い要塞は造れなかったのだ。

 ラジャは反射的に上を見上げた。サピンは、まだ要塞内で交渉をしているはずだった。

 このままでは、サピンが危ない。



 会議室には、沈黙が満ちていた。皆が、バタイユの発言を見守っている。

 バタイユは小さく息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。


「陛下のご容態のことで脅しをかけてくるなど、どうも、今日のアルトスタはらしくないと思っていたが……裏で取り仕切っていたのは君なのかな? サピン・アエリス君」


 サピンは、どう反応すべきか迷ったが、強気は崩さないことに決める。


「まさか。私程度の人材なら、アルトスタには腐るほどいますから」

「いいだろう、認めよう。君の言う通りだ。【ちようばつ】は未完成だし、今の我々には戦争をする余裕はない。さて、どうしたものか」


 会議室全体がざわついた。帝国陣営の顔色が変わる。レナード参事官が慌てて詰め寄った。


がいきよう! いいのですか、そんなことを言って!」

「アルトスタを甘く見るな。彼らは……彼はもう、見抜いているよ」


 バタイユは笑みをたたえたまま言う。


「サピン君……!」