亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第四章 神なき地で交わす約束 ⑱

 エンシュロッスが、興奮を押し殺した声で言いながら、サピンの肩をつかんだ。アルトスタ陣営の熱気が背中に伝わってくる。バタイユが、自分のうそを認めたのだ。これで、絶体絶命の状況から、交渉は振り出しに戻った。

 サピンは小さく息を吐く。

 帝国に、【ちようばつ】のような必勝の武器はない。そのことは確定した。ならば、帝国に与えられた選択肢は二つ。短期決戦で勝利することに賭けて、一か八かアルトスタとの戦争に挑むのか。それともリスクを避け、大人しくルジュエル地方を諦めるのか。どちらかだ。

 状況は、バタイユも理解しているはずだった。本当にアルトスタが結論を変えないなら、バタイユは、ルジュエルを諦める前提で最善の手を探すしかない。

 となると、もう少し待てばやつは、ある譲歩を要求してくるはずだ。

 帝国が、ルジュエル地方を諦めるのに必要な、ある譲歩。

 それは、不可侵条約の締結である。アルトスタは、帝国に対して侵略行為をしないことを約束し、第三国が帝国に攻撃を加えた場合も、それに参加しない。これで、帝国は後顧の憂いを断つことができ、帝位継承戦に集中することができるのだ。ルジュエル地方は諦めるにしても、それに代わる土産を渡してやるのである。

 もちろん、アルトスタにも利益はある。帝国と関係を強化し、侵略される不安をふつしよくできるのだ。攻められる側だったアルトスタが、逆に帝国のピンチにつけ込んで利益を勝ち取る、まさに攻守の逆転であった。

 サピンはエンシュロッスと目を合わせる。【ちようばつ】を見せられて動揺はしたが、持ち直した。もう少しだ。

 サピンの視界に、バタイユの姿が入った。バタイユは手を顎に当て、難しい顔で悩んでいた。帝国が追い詰められている現状を考えれば当然だが、だからこそ、サピンは違和感を覚える。バタイユは、こんなにも簡単に、感情をあらわにする人間だっただろうか? これまで、彼の本心を読み取るのは極めて難しかった。バタイユの好戦的な姿にすっかりだまされていたからこそ、戦わずしてルジュエルを奪われるところまで追い込まれていたのだ。

 その瞬間、サピンは、己の体温が一気に下がるような感覚を覚えた。

 この違和感から導かれる、一つの結論。

 やつの苦悩は、芝居なのではないか?

 めいせきだった頭の中が再び秩序を失い、思考がぐちゃぐちゃになっていく。攻守の逆転? アルトスタの勝利? 本当にそうか? 自分は、何か勘違いをしているのではないか? だが、わからない。なぜバタイユは余裕なのだ? 不可侵条約にければ、今回のルジュエル問題はアルトスタ有利に終結する。これ以上の策があるとは思えない。


「……あ」


 その瞬間、サピンは小さく声を漏らした。

 ダメだ。このまま進んだら、俺たちは負ける。

 もしこのまま不可侵条約を締結したら、確かに短期的には、アルトスタはルジュエル地方を死守し、帝国との関係強化によって安定を手に入れることになる。

 だが、その先は? 不可侵条約を盾に、帝位継承を成し遂げた、体制を整えた帝国が、次に狙うのはどこだ? アルトスタだ。内政を盤石にし、軍備を整えた帝国が、今度こそ、時間をかけてアルトスタ攻略を開始するのではないか?

 確かに、不可侵条約は結んでいる。それは、お互いに攻め込まない約束だ。だがそれがなんの役に立つ? そんなもの、にすればいいのだ。

 サピンが犯していた、決定的なあやまち。それは、平和な世の中を基準に物事を考えていたことだ。約束が、契約が、守られる世界。だが、国同士は、そうではない。契約が履行されるかを監視し、破った者に罰を与える裁定者はいない。そんな者がいるとしたら、それは神だけだ。

 不可侵条約という結末は、ルジュエル地方領有権に関する交渉という短期的な尺度では、アルトスタの勝利である。だが、国家間の戦いはそれで終わりではない。これからも、帝国はアルトスタの隣に在り続ける。帝国は、時間をかけて力を蓄え、不可侵条約で余裕を得て、改めて侵略を開始すればいい。長期的には、帝国の勝ちなのだ。

 バタイユは、全てわかっていたのだ。脅しが失敗し、ルジュエル地方奪還に失敗したとしても、最悪、アルトスタから不可侵条約を引き出せばいい。最初から、そういう風に誘導するつもりだったのだ。アルトスタは、彼のてのひらの上で踊らされていた。

 外交も戦争と同じ線分上にある。エンシュロッスにそう言ったのは自分だったが、サピン自身、その事実を完全に理解してはいなかった。ルジュエル地方領有問題だけでなく、帝国との関係を、もっと、根本的に考えるべきだったのだ。

 サピンの顔はそうはくになり、手は震えていた。このままではまずい。バタイユが悩むポーズをめ、不可侵条約を切り出したら、終わりだ。エンシュロッスは、おそらく自分たちが帝国の術中にはまっていることに気付いていない。それどころか、計画通りにことが進んだと思っているはずだ。動き出したらもう止められない。ならどうすればいい? 圧倒的な力の差がある帝国に対して、アルトスタができることは少ない。あらゆる選択肢を検討し尽くした上で、ようやくけたのが今回の交渉なのだ。

 敗北。頭に、その二文字が浮かんだ。一見、理想的な形でこの交渉は決着がつく。しかしそれは、帝国の隣国としての戦いの始まりだ。敗北が約束された、無益な戦いの。

 全身の力が抜ける気がして、椅子にもたれかかる。頭の中には、ラジャの姿が浮かんでいた。

 夜、大使館の仮眠室で、ラジャは涙で汚れた顔を向ける。


「センソウ、ナル?」


 サピンは笑顔で答える。


「確かに、人はみんな勝手だし、それで争いになることもある。でも、それなりに、くやれるもんだ」


 頭に、小さな違和感が芽生えた。しかしその正体がわからない。重要なことを見落としている。目を見開き、顎に手を当てて考える。急なサピンの動きに、エンシュロッスがみじろぎしたようだが無視した。ラジャは、戦争になるかと、自分に聞いた。そして、今はまだ、戦争にはなっていない。戦いは始まっていないのだ。ならば、自分は、何に敗北したのだ?

 一筋の光明が差した。硬く閉じていた岩盤に、かすかな隙間が開く。


「貴国のご意見は承知しました」


 ついに、バタイユが口を開いた。皆の視線がバタイユに集中する。


「貴国は、あくまでルジュエル地方の返還を拒否する。だが、我々は戦争をする余裕はない……今回ばかりは、我々の負けのようですな」


 皆がきようがくの表情を浮かべ、会議室にざわめきが満ちた。「がいきよう、一体何を!」とレナード参事官が詰め寄るが、バタイユが手を上げて制すると、何か考えがあると察したのか黙る。

 そんな周囲の出来事は、水の中から外を見るようにどこか遠く感じられていた。頭の中では、ある一つの考えが急速に形をとり始めている。それは、世界のあらゆる要素を使ったパズルだった。アルトスタ、帝国、周囲の列強、経済、軍事。数千万の人間を乗せたパズルのピースが、地響きを立てながら集合離散を繰り返し、サピンの求める姿を形作ってゆく。

 バタイユは、皆を制するように鋭い視線で周囲を見回した。会議室は再び沈黙する。


「ですが、無条件に引き下がることはできません。こちらにも一つ条件がございます」


 もう時間がない。サピンの意識は限界まで研ぎ澄まされ、バタイユが一言しやべる間に千の思考が駆け巡る。やがて、一枚の絵画のような計画が、サピンの頭の中に出現した。


「帝位継承が済むまで、帝国とアルトスタの間で不可侵の約束を……」

「待ってください!」