亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第四章 神なき地で交わす約束 ⑲

 サピンの叫びに、会議室の皆が驚いて振り返った。サピンは、バタイユのげんそうな視線をまっすぐに見返した。


「私から、提案があります」

「……提案?」

「はい。前言を撤回し、ルジュエル地方は、帝国に差し上げます」


 一瞬の、静寂があった。そしてめた水が流れ出すように、会議室がけんそうに包まれる。ある者は若造の血迷った言動に怒り、サピンがただものではないことを知る者は驚きを口にする。エンシュロッスが、慌ててサピンに近づいてきた。


「サピン君、何を言ってるんだ? 計画を全てひっくり返す気か!?」

「不可侵条約を結べば、帝国に余裕を与えるだけです。我々は、帝国の隣国として、もっと根本的な解決が必要です」

「それができればとっくにやっている! だが、それこそ戦争に勝つくらいしかないだろう!」

「交渉の場で、仲間割れはめていただきたいな」


 バタイユが言った。その顔には、楽しげな笑みすら浮かべている。


「ルジュエルをいただけるということだが、それは実質的な降伏宣言……というわけではなさそうだな」


 バタイユは、リラックスした様子で背もたれに身を預け、肘置きにほおづえをつく。


「せっかくだ、話を聞こうか」

「バタイユ殿!?」


 驚くエンシュロッスを、バタイユは手で制する。笑顔ではあったが、目は笑っていなかった。その視線には、奇妙な若者への純粋な興味と、強敵を前にした警戒心が交ざっている。


「ありがとうございます」


 サピンはバタイユを見つめ返す。二人の視線がぶつかる。


「若気の至りですね。恥ずかしながら、私は帝国の弱点を発見したことで有頂天になって……もう勝った気でいました。しかし考えてみれば、帝国が自分たちの弱点に対して無策でいるはずがない。我々は、確かにあなた方の最善を打ち破ったが……あなたはそのまま、我々を次善の策に誘い込んでいたのではないですか?」

「なるほど。では仮に君の解釈が正しかったとして、どうする?」

「今のアルトスタは、帝国を打倒し得る武力を持ちません。だが、事態を話し合いだけで解決できる、魔法のような言葉もまた存在しない。しかし同時に、弱者が強者に対抗する手段もまた、古来より確かに存在するのです……それは、徒党を組むことだ」


 バタイユは鼻で笑った。


「それは、理屈としてはそうだが。ではこれから、列強と同盟でも組むつもりか? 長い時間をかけて作り上げた、統一政府のシステムすらかいを始める今の世界で、そんなことが可能というのかね? 今のアルトスタが、誰とどうやって徒党を組むというのだ」

「別に、同盟を組むつもりはありません。そのような手続きは必要ありません」

「なんだと?」

「ルジュエル地方は、帝国の領土として返還します。しかし、ルジュエル地方北部の、魔石鉱床地帯一帯を、経済特区として開放して欲しいのです。特別な減税措置を取り、各国の企業を招き入れてください」


 バタイユは一瞬沈黙し、そして、笑みが消えた。


「サピンくん、それは一体どういう……?」


 エンシュロッスが、おずおずと声をかけてくる。


「ルジュエル地方は豊かな魔石鉱床地帯で、その利権は、どの国家も喉から手が出るほど欲しがっています。だからこそ、歴史的にも常に争いの火種になってきた。ルジュエル地方全体としてみれば、帝国の領土として承認いたします。だが、北部の資源は、いっそみんなのものにしようではありませんか」


 サピンは立ち上がると、机に広げてある地図を指差して口をゆがめた。


「また、経済特区一帯と、その周囲五キロの地域は、非武装地帯といたしましょう。帝国はもちろん、アルトスタはじめ、他のどの国家も軍隊の駐留は禁止です」

「な、なるほど、そういうことか……!」


 バタイユは、無言でサピンをにらんでいる。サピンはとうとうと語り続ける。


「当然ながら、既にルジュエルで営業しているアルトスタ企業にも同様の減税措置は適用していただきますが、先行特権などは求めません。ただ、ルジュエルに居住するアルトスタ人が居住し続けることの許可と、本国に帰還する場合の引越し費用の保証は帝国にお願いしますね。あ、そうだ、ついでに、帝国内のルジュエル移住希望者の引越し費用も、帝国に負担いただきましょうか」


 サピンが帝国への要求を淡々と述べていると、血相を変えたレナードが割って入った。


「き、貴様、言わせておけば! そんな要求を我々がむと思うか! それでは、返還と言ってもまるで形だけではないか!」

「はい。その形こそ、帝国の、いや帝国のツフロ宰相派の求めることなのではないですか?」

「な……!」

「この取引によって、皆さんは、ルジュエル地方を最短で獲得できます。ツフロ宰相の五箇条の誓約は達成です。もちろん経済特区は作られますが、その恩恵は帝国自身も得られるのですから、全くの損ということにはならないはずです。対抗勢力の批判はトーンダウンし、中立派の寝返りも防げる」

「し、しかし、アルトスタごときがそこまで我々にずうずうしい要求をするなど……!」

「レナード君、少し静かにしてくれないか」


 バタイユが、レナードを制した。レナードは屈辱に顔をゆがめるが、結局黙った。

 サピンはバタイユを見た。バタイユは無表情で沈黙している。この策を受け入れた場合の、損得の計算をしているのだ。それは、先ほどの演技とは違う、本物の苦悩だった。

 これは、帝国の要求を満たしつつ、アルトスタの安全保障をも実現する、おそらく唯一の方法だった。アルトスタにとって重要なのは、ルジュエルの経済特区に、他の主要国が参入することである。ルジュエル地方は、帝国とアルトスタの間の非武装地帯となり、さらに、主要国たちが強力なボディーガードとして住み着くことになる。帝国にルジュエル地方を渡す最大のねん、将来のアルトスタ侵略の足掛かりとされることを防げるのだ。

 そして、列強の目は、この約束に強制力を与える。さすがの帝国も、アルトスタとの条約は簡単に破れても、大国全てを敵に回すわけにはいかない。

 帝国にとって、完璧な選択とは言えない。だが冷静に比較すれば、一か八かの戦争よりも、五箇条の誓約の未達成よりも、確実に利益が大きい選択なのだ。ルジュエル地方の奪還という功績、安定した帝位継承、特区による収益など、多くのものを手に入れられる。

 どちらかが勝者となり、どちらかが敗者となるのではない、第三の道であった。

 サピンは、表向きは笑顔を浮かべつつ、心臓は高鳴りシャツの内側には汗がにじんでいた。

 頼む、受け入れろ。帝国にも、これ以上の手段はないはずだ。

 確かに、若造が思いつきで言い出したアイデアかもしれない。

 だが、バタイユがいきよう

 あんたは、そんな表層にとらわれるような人間ではない。

 本当の利害を計算できる。だからこそ、その地位まで上りつめたんだろう?

 サピンのこめかみを汗が伝う。会議室は、息もできないような張り詰めた空気に満ちていた。

 そして永遠と思える沈黙の後、バタイユが、ついに、口を開いた。


「君の、経済特区案だが……正直言って、もし実現できるなら、素晴らしいアイデアだと思う。が、しかし……」


 バタイユは、明らかに沈んだ表情だった。サピンは動揺する。


「しかし?」

「本当に申し訳ないのだが……その案を採用し、実現に向けて進めていく場合……〝アルトスタからの提案〟ではなく、〝帝国の発案だった〟ということにできないかね?」

「……はい?」