亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第四章 神なき地で交わす約束 ⑳

 サピンは素っ頓狂な声を出した。バタイユの顔には、今までのような、武人のような厳しさも、交渉人の冷徹さも感じられなかった。見えるのは、腰の低い、申し訳なさそうな感情だ。


「君の案は、確かに考えうる最善だ。しかも、強硬的外交をむねとする帝国からはけっして生まれないたぐいのものでもある。敬服しているよ」

「は、はあ」

「だが、だからこそ……帝国内には、受け入れられない者も多いだろう。さっきレナード君も言ったが、帝国には、アルトスタごときに譲歩することはない、という保守勢力の声も強いのだ。それは、大国のプライドであったり、敗戦国の劣等感であったりするのだろうが……私の力だけで説得するのは非常に難しい。だから、少しでも国内の反発を抑えるため、帝国から貴国に歩み寄ったような形にしたいのだが……いや、君のような若者に、こんなことを頼むのは恥ずべきことだと思うが……」


 バタイユはおもむろに立ち上がると、深く頭を下げた。


「頼む」


 その瞬間、会議室の時が止まった。誰もが、あの恐ろしいがいきようが若造に向かって頭を下げる光景を、目では見えていても、頭で認識できないのだ。

 が、一番驚いているのはサピンだった。


「え? いや、あ、ええと、まあ議事録も残らない非公式な会話なので、そういうことにするのも可能だと思いますが……大使?」

「あ、ああ、も、もちろん、そうだな!」


 サピンのすがるような視線に、エンシュロッスもぎこちなくうなずく。サピンの中で、少しずつ、バタイユの言葉がしやくされていく。


「あの、というか、まずその前に……帝国は、この経済特区案に賛同してくれる、ということでいいのでしょうか」


 バタイユは顔をあげると、朗らかに笑った。


「ああ。その方向で進めよう」


 その一言をきっかけに、会議室は爆発したような狂騒に包まれた。


「お、おい、どういうことだ?」「結局、ルジュエルはどうなるんだ? 帝国のもの?」「経済特区って言ったよな? 列強が入ってくるのか?」「あの偉そうにしやべってる若造は何なんだ?」


 もっとも、各陣営、話の展開が急すぎて、完全に理解できている者はあまりいなかった。だが、全員、一つだけ理解していることがある。バタイユがいきようが、議場の端に座っていた、敵国の若者の意見を受け入れたということだ。

 サピンは大きく息を吐き、机に手を突いた。終わった。帝国と合意に達した。アルトスタは、生き延びたのだ。

 バタイユは身を起こした。


「では、エンシュロッス大使。本件については、正式に、アルトスタ政府から計画の詳細をお送りいただく。それまで、返答は保留とするが、よろしいか」

「は、はい、もちろん! すぐに戻って準備を……うおっ!」


 そのとき、要塞全体が再び大きく揺れた。揺れは止まらず、気づくと、また傾きがかなり大きくなっている。

 会議室の入り口で、軍人が叫んだ。


「要塞下層で浸水が始まりました! 皆さん避難を開始してください! 要塞が沈没します!」


 一行は、軍人の先導で、『ノヴァ・テクタ・ルウェンティス』の狭い廊下を駆け抜けた。だが、元々すれ違うのがやっとの幅しかない上、傾いており、まともに進めない。時折、金属がひしゃげるような大きな音が鳴り響き、崩落が近いことを予感させた。

 サピンは、ここにきてももの傷が痛みだし、く走れなくなっていた。気づいたミアスが肩を貸してくれているが、先をゆく集団との差は徐々に開いていく。


「ミ、ミアス……俺はいいから、先に、行ってくれ……」


 サピンが荒い呼吸をしながら言うが、ミアスは取り合わなかった。


「そんなこと言われて、置いて行けると思いますか?」

「こんなときまで、人道派か?」

「まさか。今回の交渉、私はいいとこなしでしたから。勝ち逃げされたくないんです」


 ミアスは正面を見て不敵に笑う。サピンは、視線のすぐ先にある、ミアスの横顔を見つめた。汗で額に髪が張り付き、頰は上気している。今更ながら、その顔の造形を、美しいと思う。

 廊下全体が、ガクンと縦に揺れた。サピンとミアスは息をんで立ち止まる。金属がきしむ悲鳴のような音が鳴り、床がゆっくりと傾いていく。

 再び、急激な縦揺れが襲った。同時に、廊下が急激な上りの角度に傾く。


「うわっ!」「きゃあ!」


 ミアスはそばのドアノブをつかんだが、サピンは踏ん張れず、坂になった廊下を滑り落ちる。


「サピンさん!」


 ミアスは手を伸ばすが、届くはずもなかった。サピンはすべなく廊下を滑り落ち、突き当たりの壁に体を強打して止まる。何とか立ち上がろうと床に手をつくと、何かに引っ張られたように視界が逆になり、ついで背中に激痛が走った。痛みにうめきながら、サピンは床が抜け階下に落ちたのだとわかった。

 床の下から、増水した川のような、低い水音が聞こえる。要塞に浸水が発生して、沈みつつあるのだ。会議室は第五階層にあり、今一段落下したから、現在位置は第六階層。水にまれるのは時間の問題だろう。

 立ち上がろうとしたが、体に力が入らない。落下したときに頭を打ったのか、意識がもうろうとしていた。それでもしばらくは身を起こそうといていたが、やがて眠りにつくように、サピンは意識を失った。



 目を覚ましたのは、冷たい感覚のせいだった。全身ずぶれで、同じようにれた泥の中に突っ伏している。足元に、波が寄せては返す感覚があった。みずぎわにいるらしい。現状を確認しようと思い、身を起こす。


「いっ……!」


 全身に痛みが走った。崩落する要塞の中を落ちていき、体を打ったらしい。


「ダイジョウブ?」


 聞き慣れた声に振り返る。そばに、ラジャが、心配そうな表情で座っていた。ラジャも全身ずぶれだ。


「ラ、ラジャ……ここは? 俺は一体?」


 ラジャは、無言でサピンの背後の方向に顔を向けた。サピンもその視線を追う。背後には、広大な湖が広がっていた。そして、自分たちと反対側の岸に、巨大な建造物が鎮座している。不時着した要塞、ノヴァ・テクタ・ルウェンティスだ。濁った水の上で、巨大な塔が今にも倒れそうに傾き、うっすらと、脱出や救助に励む人々のけんそうが聞こえる。

 サピンは今、要塞の発着に使われる人工湖の岸辺にいるのだった。あの後、ラジャがサピンを救出し、湖を泳いでここまで連れてきてくれたらしい。


「ラジャ……助けてくれたのか。ありがとう、助かったよ。こっちは、くいったぞ……交渉は、成功した」


 痛みにあえぎながら言うと、ラジャは無言でうなずいた。


「そっちは、どうだ? 【ちようばつ】は……」

(大丈夫です。【ちようばつ】の構文は消去しました)


 サピンはあんする。帝国は自力で【ちようばつ】を作り出すことはできない。これで、世界から【ちようばつ】の魔石技術は消えたのだ。

 周囲を見回すと、帝国の兵士はいなかった。対岸で、ノヴァ・テクタ・ルウェンティスの対応に追われていて、こちらには人員がいないのだろう。


「よし……全部終わったな。じゃあ、大使館に、帰ろう。この混乱の中なら、連中も、ラジャに構っている余裕はないだろうし、くいくよ」


 そう言って起き上がろうとすると、やはり全身に痛みが走る。


「いてて……ラジャ、ごめん、体を支えてもらえないか? 骨が折れてるみたいで」


 ラジャは、何も言わずにサピンを見ていた。動こうとしない。