亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

エピローグ たまには、わがままを ①

『ノヴァ・テクタ・ルウェンティス』での交渉から、一ヶ月後。

 アルトスタが、フェルザ帝国にルジュエル地方の領有権を返還することが、両政府の共同声明として発表された。一年後の返還に向けて、両国は準備を進めていくことになる。

 声明において、ルジュエル地方北部の魔石鉱床地帯は、経済特区となり、国籍にかかわらず魔石系企業の進出を広く募ること、特区地帯の周囲五キロには、帝国含めたあらゆる国家の軍備が禁止されることが明言された。豊かな魔石産地であるルジュエルは、元々人気の土地だ。現在、各国の大企業から、進出希望が殺到している。

 こうして、アルトスタはルジュエル地方を失ったものの、帝国との間に広大な非武装地帯と、列強が利権を分け合う、緩衝地帯を手にすることになった。無論、相手が帝国だけに油断はできないが、単独でたいするよりは、はるかに強いけんせいができる結果だ。

 そして、その発表の直後。フェルザ帝国皇帝、フォンドーシュ四世の崩御が報じられた。帝位は順当に第一皇子が継承し、宰相は現職ツフロが続投する。内閣のメンバーもほとんど変わらず、その顔ぶれの中には、ルー・バタイユがいきようの姿もあった。

 全てがサピンの描いた通りの結果だったが、簡単に進んだわけではなかった。あの交渉のあと、エンシュロッスは慌てて本国に連絡し、後付けで、『経済特区』案を提案し、承認させた。帝国も正式に申し出を受け入れ、計画が動き出したが、大変なのはむしろそこからだった。元々存在してもいなかった、サピンの思いつきのような壮大な計画を、現実のものとしなければならないのだ。両国の間に立つアルトスタ大使館には、関係省庁への連絡、膨大な量の調整の仕事──それも全て短納期──が待っていたのだった。特に大使のエンシュロッスは、あまりの多忙に、この数ヶ月で一気にけたという。

 ともかく、話はまとまり、実現に向けて動き出した。具体的な実現に向けて、今も、計画は急ピッチで進められている。



 アルトスタ王国首都、インタレッセ。質実を好むこの国では、首都の風景も、帝国に比べると地味だ。だが、都市機能を重視した街並みは、よく見ると、無駄のない、絞った肉体のような美しさにあふれている。

 そんなインタレッセに、アルトスタ外務省はあった。

 サピン・アエリスは、在帝国大使館の任を解かれ、本省勤務に戻っていた。

 ノヴァ・テクタ・ルウェンティスでの交渉でおおを負ったサピンは、そのまま本国に移送されて入院し、の完治と共に、本省のフェルザ帝国第一課に転属となったのだ。現在は、経済特区計画を手伝っている。


「お疲れ様でーす」


 サピンが陰気な挨拶をして執務室に入ると、数名がポロポロと小声で挨拶を返す。バタイユの希望通り、ルジュエル地方の経済特区計画は、表向きは帝国側の発案ということになっていた。サピンの交渉の現場での立ち回りも、上層部はともかく、現場には伝わっていない。よって、省内でのサピンの評価は、以前と同じく低いものだったが、サピンもそれに異を唱えることなく、重い仕事を振られないから幸運程度に思っていた。

 自席に着くと、日課の情報収集を行う。外務省帝国第一課には、帝国関連の情報が集められるので、サピンは、帝国の政府広報、経済誌、軍事誌などを中心に確認する。見たところ、【ちようばつ】の魔石技術に関連する発表は何も出ていないようだ。サピンはあんのため息をつく。

 帝国が【ちようばつ】の魔石技術を発掘して、試射を行い、そして失敗したことは、世界に知れ渡っていた。試射の際の事故で、運用のための魔石式空中要塞ノヴァ・テクタ・ルウェンティスが不時着し、【ちようばつ】の構文も消え去ったと、帝国は公式に発表したのだ。ルジュエル経済特区の成功のため、世界の不安を取り除くための発表だったが、反応は、半信半疑といったところである。本当はまだ持っていて隠していると主張する者もあれば、【ちようばつ】を発掘したこと自体がうそだと言う者、実は統一政府と帝国は【ちようばつ】を共同開発しているなどという陰謀論を語る者まで様々だが、いずれにせよ、【ちようばつ】発掘の興奮は徐々に冷めていっているようだった。

 雑誌を開いたまま、かといって読みもせず、サピンは誌面を見るともなく見つめる。

 それで、いいのだと思う。ラジャは、その命と引き換えに、この世界から【ちようばつ】を消し去った。皆が、彼女の思いも犠牲も知ることなく、【ちようばつ】が忘却される。それが、ラジャの願いだ。彼女の命は無駄でないと思いたかった。


「何、暗い顔してるんですか」


 突然、背後から声をかけられ、サピンの思考は中断した。振り返ると、すらりと背の高い女が立っていた。ミアス・レゲールであった。


「今、ちやちや忙しいですよ。ルジュエルの経済特区案実現のために、各所と調整の連続で。私も、たまたま国内に用事があるだけで、明後日あさつてには帝国に戻ります」


 ミアスは、庁舎の休憩スペースで、薄いコーヒーを飲みながら言った。確かに、ミアスの顔には、整った造形だけでは誤魔化せない疲れがにじんでいる。


「そういうときこそ、ミアスみたいな人間がいないと組織は回らないからな」


 サピンは本心から褒めたつもりだったが、ミアスは、ただの雑用ですよ、と渋い顔をする。


「サピンさんはいいですよね。経済特区なんてアイデアだけ出して、里帰りして有給休暇なんですから」

おおで入院してたんだよ……外交相手にそんなこと言ったら出禁になるぞ」

「利害関係者にこんなこと言うわけないでしょ。普段猫かぶってるんだから、たまにストレス発散しないと持ちませんよ」

「俺で発散するな。俺も、今は一応計画には関わってるぞ。少しだけど」


 ひとしきり近況報告が済み、会話が途切れる。ミアスは遠い目で空を見た。


「ラジャちゃん……どこ行っちゃったんでしょうね」

「……さあな」

「どこかで、幸せに生きてるといいですね」


 その言葉は、小さなトゲのようにサピンの胸を刺す。コーヒーカップを口に運んだが、もう中身はなかった。

 ラジャは、大使館から突如姿を消したことになっていた。本来なら大きな問題になるはずだが、帝国との領土交渉に一定の解決が見え、経済特区計画の準備で目の回るような忙しさだったため、自然と忘れられることとなった。


が治ったら、やっぱり外務省は辞めるんですか?」


 唐突にミアスが言い、サピンは即答できずにミアスを見返す。


「任は解かれているし、辞めるなら今がチャンスだとは思いますが……昇進したんでしょ?」

「それは、まあ」


 サピンは、ルジュエルに関する交渉の後、昇進していた。エンシュロッスの強い後押しもあり、ルジュエル関連の交渉で大きな役割を果たしたサピンを無視することはできなかったのだ。と言っても、元の階級が低いので、ようやく同期のクルンバンに追いついたというだけだが。


「悔しいですが、あなたの利害交渉能力は優秀です。頭一つ抜けてるなんてレベルじゃありません。平和なときならともかく、今のような世界には、必要な人だと思います」

「それはどうも」

「国外逃亡なんて、本気で考えてはいないんでしょ?」


 ミアスはサピンの目を見た。サピンは言葉に詰まる。

ちようばつ】があっても使い道がないくらい、平和な世の中にしてみせる。