◇◆◇
円筒形の金属容器は、淡い水色の液体に満たされていた。
容器の直径は二メートル前後。高さは一メートルほどだろうか。円形の蓋を撥ね上げた姿は、ちょうど馬鹿でかい缶詰のようだ。
容器を満たした液体の中には、シロップ漬けの果物の代わりに、白っぽい影が浮かんでいた。
ほっそりとした体型の小柄な少女──人間だ。
モジュールの天井に穿たれた亀裂から射しこんだ陽光が、少女の姿を柔らかく照らし出す。
彼女が着ているのは、セーラーカラーのケープが付いたノースリーブのワンピース。
俺の知らない学区の制服だ。
液体の中をたゆたう少女の姿は、まるで水の精霊のように美しかった。
白いスカートの裾がふわりと広がって、優美な熱帯魚の尾びれに見えた。
だが、その優美な振る舞いは、そう長くは続かなかった。
液体の中でハッと目を見開いた彼女は、驚愕したように周囲を見回すと、突然、手脚を振り回してジタバタと暴れ始めたのだ。冷静になれば溺れるような水深ではないはずだが、軽くパニックになっているらしい。
そして悪戦苦闘の末、少女はどうにか水面から顔を出すことに成功した。
容器の縁にぐったりともたれて、彼女は肺の中に詰まった水を吐く。
「けほっ……けほっ、ごほっ……」
涙目になって咳きこむ少女の姿を、俺はしばらく呆然と眺めていた。
金属容器を満たしていた水色の液体の正体は、大気圏突入時の熱や衝撃、急激な気圧の変化などから人体を保護する、液体呼吸溶液なのだろう。
つまりこの巨大な缶詰もどきは、天人種族の非常脱出用カプセルだったのだ。
それなら廃棄モジュールの中にいた少女が、生きて地上に辿り着いたことにも納得できる。だからといって、彼女がこんなところに閉じこめられていた理由の説明にはならないが。
「うう……溺れ死ぬかと思いました……ごほっ……」
ようやく呼吸を整えた少女が、前髪から垂れる水滴を拭って顔を上げた。
そんな少女の胸元へと、俺は無造作に銃口を向ける。
「動くな」
「はい?」
少女が、目を瞬かせながら俺を見た。
全身ずぶ濡れのせいで気づかなかったが、よく見れば綺麗な顔立ちの少女だった。
年齢は十五、六歳くらい。俺とほとんど変わらない。
髪の色は透き通るような銀髪。輝く宝石にも似た碧い瞳。
幼さを残した顔立ちは端整で、それでいて子猫のような愛嬌もある。
そして、耳。獣の耳。彼女の頭の上では、大きな獣耳が小刻みに動いていた。
それが天人種族の特徴なのかどうか、俺は知らない。
ただし彼女がめずらしい固有能力の持ち主であるのは、ほぼ間違いないだろう。
見た目以上の戦闘力の持ち主という可能性も大いにあり得ることだ。無害に見えても油断はできない。
「こちらの言葉は理解できるな? 立ち上がって、ゆっくりと両手を上げろ」
「は、はい!」
獣の耳の少女は、俺の命令に素直に従った。
しかし銃を恐れている様子はない。
背伸びするように両腕を垂直に伸ばしながら、不思議そうに小首を傾げている。自分が置かれている状況が、今ひとつ理解できていないらしい。
俺はうんざりと息を吐きながら、平坦な口調で少女に訊く。
「おまえ、天人か? なぜ天環の廃棄モジュールに乗っている?」
「廃棄モジュール?」
少女は怪訝そうに周囲をきょろきょろと見回した。
それに合わせて彼女の獣の耳がぴこぴこと動き、俺は無表情を装いつつも、目を奪われないように必死で誘惑に耐えた。なんだあれ。めちゃめちゃモフりたい。
「もしかしてここは地上ですか? わたしたち、捨てられちゃったんですか?」
「……わたしたち?」
驚く少女の言葉に、俺は眉を寄せた。
周囲の気配を探ったが、この区画に彼女以外の生存者はいない。
缶詰もどきのカプセルの中にも、ほかの誰かが隠れている様子はない。
「でも、わたし、まだ生きてますよね? それってとってもまずいと思うんです」
戸惑う俺に向かって、少女が告げた。
彼女の声に滲んでいるのは、隠しきれない焦燥感と、なぜか俺を気遣うような気配だった。
理由はわからないが、彼女は酷く焦っているのだ。
「逃げたほうがいいです。今すぐここから離れてください」
「なに?」
「爆弾が落ちてきます。たぶん、もうすぐ」
「……爆弾?」
「はい。このあたり一帯をまるごと吹き飛ばすようなすっごいやつです」
少女が両手をぶんぶんと上下させた。
妙に可愛らしい仕草だが、発言そのものは物騒この上ない内容だ。
しかし彼女の瞳は真剣で、本気で警告しているのが伝わってくる。少なくとも脅しやハッタリの類いを口にしているとは思えない。
「なぜ天人が爆弾を投下する? おまえを始末するためか?」
「ええと、たぶんそういうことになると思います」
少女がしゅんと肩を落として項垂れる。
「どうしてだ? おまえはいったいなにをした?」
「まあそれは、こうなるまでにいろいろありまして……あはは……」
曖昧に笑って誤魔化そうとする彼女を、俺は冷ややかに睨みつけた。
少女の言葉が真実なら、天人たちは彼女を地上に投棄しただけでは飽き足らず、軌道上からの爆撃で彼女を吹き飛ばそうとしていることになる。
「…………」
いったいなにをしたら天人にそこまで嫌われるのかと、俺は胡乱な眼差しで彼女を見た。
そのとき不意に俺の通信機が震えた。管制係からの緊急通信だ。
『──ハンズ6! ハル先輩! 聞こえますか!? ヤバいです、非常事態です!』
「……落ち着け、リィカ。なにがあった?」
ライフルを獣耳の少女に向けたまま、俺はリィカ・タラヤの呼び出しに応答する。
『天環から、軌道爆撃ミサイルが発射されました!』
動揺を隠せずにいる後輩の声に、俺は無言で顔をしかめた。
通信の内容そのものよりも、獣耳の少女の予言が現実になったことに戸惑ったのだ。
「天人が地上に向けてミサイルを撃ったのか? 攻撃目標はどこだ?」
『アストキク地区、廃棄モジュール落下地点! 私たちがいるこのエリアです!』
思いつく中でも最悪の状況に、俺はたまらず舌打ちした。
軌道爆撃ミサイルは、文字どおり地球周回軌道上から地上に向かって放たれる対地攻撃兵器だ。記録によれば〝学園〟の反乱を鎮圧するために、過去に何度か使用されたことがある。
音速の二十倍を超える終末速度を持つため、地上からの迎撃はほぼ不可能。そして威力は、ほかの通常兵器とは比較にならない。
直撃すればこの巨大な廃棄モジュールですら、一瞬で焼き尽くされることになるだろう。
発射された軌道爆撃ミサイルが地上に到達するまでの所要時間は、長くてもせいぜい十数分。あれこれ迷っている時間はない。
「部隊の撤退を急がせろ。ミサイルに搭載されているのが熱爆魔導弾頭なら、破壊半径はそれほど広くない。今なら、まだ充分に逃げ切れるはずだ」
『ハル先輩はどうするんですか!?』
インカムの向こうから悲鳴のような声が聞こえてくる。
俺がいる場所は、廃棄モジュールの最深部。一度も迷わず最短経路を突っ切ったとしても、ミサイルの着弾までに脱出するのは不可能だ。
「こちらのことは気にするな。自力でなんとかする」
『なんとかするって、どうやって!? ちょっと、先輩!? ハル先輩!』
必死で叫んでいるリィカを無視して、俺は通信機の電源を切る。
その直後、少し困った表情を浮かべた獣耳の少女と目が合った。
無線の内容は聞こえていなくても、外でなにが起きているのか、彼女にもだいたいの予想はついているはずだ。
天人が保有する魔導弾頭は落下物の外壁をたやすく突き破り、摂氏三千度に達する高温高圧の爆風でモジュール内部を焼き尽くす。
もちろん中にいる人間など、ひとたまりもないだろう。
そのことを少女が理解しているのかどうかはわからない。
しかし彼女の瞳には、怯えの色は浮かんでいなかった。
むしろ自分の事情に俺を巻きこんでしまったことを、申し訳なくすら思っているようだ。
「やっぱり爆弾が落ちてくるんですね?」
少女が遠慮がちな口調で訊いてくる。
俺はうなずいて重々しく溜息を洩らした。
「どうやらそのようだ。悪いな。きみのことを助けてやれそうにない」
「…………」
少女が驚いたような顔で俺を見返した。
俺が当然のように少女を助けようと考えたのが、彼女には意外なことだったらしい。
自分の胸元にそっと手を当てて、少女は真剣に考えこむ。
「あの、もしあなたが手伝ってくれるなら、爆弾はどうにかするって言ってるんですけど……」
「どうにかする? 誰が?」
少女の奇妙な言い回しを、俺は怪訝な声で聞き咎めた。
気まずそうに視線を泳がせながら、少女はぼそぼそと返答する。
「ゼブくんが……ええと、私のお友達、なんですけど……」
「なるほど」
どこからどう見てもこの場には、俺と彼女の二人しかいない。
つまり彼女が言うゼブくんなる友人は、実在しない空想上の存在。イマジナリーフレンドというやつなのだろう。
あまり深く突っこんではいけない話題だ、と俺は素早く判断する。
おそらく爆弾が迫っているという恐怖で、彼女の精神状態もギリギリなのだ。追い詰められた人間があり得ない妄想にすがる──執行部隊の新人たちもたまに陥る症状だ。
「もちろん俺に手伝えることがあるならなんでもする。俺たちがそれで助かるのならな」
「本当ですか!? わかりました、感謝します!」
励ますように俺が優しく告げると、少女は表情を明るくした。
俺は今もライフルを構えたままだった。
しかし彼女は恐れることなく缶詰もどきから這い出ると、俺との距離を詰めてくる。
そして互いの息がかかるくらいまで密着したところで、少女は大きな瞳を揺らした。
「詳しく説明する時間がありませんので、先に謝っておきます。ごめんなさい」
ライフルに添えていた俺の手を、少女がそっと握りしめる。
そして柔らかな微笑みを浮かべた小柄な彼女は、その手を強引に引き寄せて、
「召し上がれ──」
自分の豊かな胸の谷間へと、無理やり押し当てたのだった。