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夢を見た。名もなき漆黒の怪物の夢だ。
その怪物は餓えていた。数え切れないほどの都市を滅ぼし、どれだけ多くの命を喰らっても、彼の空腹が満たされることはなかった。
殺して、喰らう。喰らって、殺す。
そして喰らう。喰らい尽くして、また殺す。
果てしない飢餓感に衝き動かされるまま、彼は殺戮を繰り返し、やがて傷つき力尽きる。
そして怪物は囚われた。そんな救いのない夢だった。
だがその陰鬱な夢の結末を、俺が目にすることはなかった。
グルグルと唸り声が鳴り響き、それに揺り起こされるようにして俺は眠りから目覚めたからだ。
怪物の呻きにしては甲高い、妙に可愛らしい音だった。
「う……」
瞼の開ききらないぼやけた視界に、午後の陽光が射しこんでくる。
身体が重い。全身が怠い。
目覚めて最初に気づいたのは、全身を襲う強烈な倦怠感だ。
限界を超えて魔法を行使した直後の、魔力枯渇の症状に似ている。なにがあったのかすぐには思い出せないが、俺の意識が途絶えていたのは、その魔力枯渇が原因なのかもしれない。
つん、と灼けた大気の臭いが鼻を突いた。
大きな火災の直後のような、不快な刺激臭が風に乗って流れてくる。
熔けた樹脂や化学繊維の臭い。魔導弾頭がまき散らした熱衝撃波の痕跡だろう。
魔導弾頭──
その単語がきっかけになって、まだ半覚醒だった俺の意識は一気に鮮明さを取り戻した。
天人種族の放った軌道爆撃ミサイル。爆心地に取り残された俺たちは、摂氏三千度を超える炎に焼かれて、確実に命を落としているはずだった。
それなのに、なぜか今も俺は生きている。
いったいなにがあったのか。落下物はどうなったのか。廃棄モジュールの最深部で俺が出会った少女はどこに行ったのか──
それを確かめようと起き上がりかけて、俺は頭上にある障害物の存在に気がついた。
仰向けに横たわっている俺の視界を、不思議な物体が塞いでいる。
呼吸するように緩やかに上下する、果実のような半球状の膨らみ。
それが女性の胸部だと気づく前に、頭上から声が聞こえてきた。
「おはようございます。気がついたんですね、よかった」
転がる鈴の音のように美しく澄んだ、それでいて緊張感の乏しい柔らかな声音。
廃棄モジュールの中で俺が出会った、銀色の髪の少女の声だ。
どこか間の抜けたその挨拶に、俺はすぐには反応できずに固まった。
そんな俺の顔を少女がのぞきこんでくる。どうやら彼女は今までずっと、意識をなくした俺を膝枕してくれていたらしい。
「…………」
俺は内心の動揺を抑えて、自らの現状を確認した。
上着はない。俺のタクティカルジャケットは、なぜか目の前の少女が羽織っていたからだ。
だが、それ以外の装備を奪われたというわけではない。拳銃やナイフも装着したままだ。
視覚、聴覚ともに異常なし。手や脚も問題なく動く。拘束されている様子はないし、目立つ傷もない。意外なことに残存魔力の量も充分だ。気怠さはあるが最低限の戦闘に支障はない。
もっとも、目の前の少女と戦闘になる可能性は極めて低かった。
その意味では、運が良かった、と言っていいのだろう。彼女がその気なら、意識をなくしている俺にとどめを刺す機会はいくらでもあったのだから。
「どこだ、ここは? 落下物はどうなった?」
俺は、ゆっくりと起き上がりながら少女に訊いた。
さすがに膝枕されたままの無防備な姿で、彼女と会話をする気にはなれなかった。
なにしろ少女の胸が邪魔をして、俺たちはまともに目を合わせることもできないのだ。見た目、小柄で華奢な彼女だが、ずいぶんと立派なものをお持ちらしい。
「……落下物?」
俺の質問に、銀髪の少女が小首を傾げる。
その動きに合わせて、彼女の頭頂部の獣の耳がパタンと倒れた。
それを見て、俺は内心の動揺を必死で嚙み殺す。わざとやっているわけではないのだろうが、あざとすぎる仕草だ。なんだそれ。めちゃめちゃモフりたい。
「そうか。落下物というのは地上から見た言い方だったな。きみが乗っていた天環の廃棄モジュールのことだ。天人のミサイルに狙われていたはずだが?」
溜息まじりに説明しながら、俺は周囲を見回した。
少女の答えを待つまでもなく、廃棄モジュールの在処はすぐにわかった。
夕暮れの荒野。砂に埋もれかけた岩の大地に、高層ビルを逆さまにしたような落下物の残骸が突き刺さっている。
筒状の巨大構造物の外殻は、高温の衝撃波に炙られてほとんど原形を留めていなかった。
周囲の地面も爆風で深く抉られて、魔導弾頭がまき散らした高濃度の魔素が、その中に霧のように滞留している。やはり天人の軌道爆撃ミサイルは、間違いなく地上に着弾していたのだ。
俺たちの今いる場所から落下物までの距離は、四、五百メートルといったところか。ギリギリで魔導弾頭の殺傷範囲の圏外だ。
しかしミサイルが飛来するまでのわずかな時間に、廃棄モジュールの最深部から移動できるような距離でもない。少なくとも俺一人の能力では絶対に不可能だ。
「なにがあったのか、説明してもらえるか?」
俺は、なるべく中立的な言葉遣いで彼女に訊く。
目の前の少女が敵とは思わないが、だからといって人畜無害という保証もない。本人の言葉を信じるなら、彼女は天人に命を狙われるような存在なのだ。
しかし、そんなふうに露骨に警戒する俺の目の前で、少女は深々と頭を下げた。その場で土下座せんばかりの勢いだった。
「ごめんなさい!」
「……なんの話だ?」
「あの、これ、全部食べちゃいました!」
少女は戸惑う俺に向かって、ちぎれたアルミ箔を差し出してくる。
カラフルなラミネート加工が施された、菓子のラッピングフィルムである。
「食べたって、チョコレートバー……? 俺のサバイバルキットに入っていたやつか?」
「はい。この服をお借りしたときに見つけてしまって、どうしても我慢できずに勝手に食べてしまいました……」
少女がそう言って、しゅん、と肩を落として項垂れた。
飼い主に叱られて反省している犬のような仕草だ。
とはいえ、彼女が食べたのは、しょせんチョコレートである。それも部隊の支給品の安物だ。
「そうか。いや、べつにそれは構わないが」
「本当ですか? でも、あんなに美味しいものを、わたし一人で食べてしまうなんて」
「美味いか、それ?」
「はい! こんなに美味しいお菓子は初めて食べました! ぐずっ……あなたに感謝を……」
「泣くほどか!?」
目の端に涙を浮かべた少女を見て、俺は思いがけず動揺した。
なにしろサバイバルキットのチョコレートといえば、保存性と摂取カロリーだけを追求して味のことなどまったく気にしておらず、甘い泥、食べる罰ゲーム、人体に無害なだけの猛毒、などと散々にいわれている代物だったからだ。
「まあ、非常食の話はどうでもいい。それよりも、きみはいったい何者だ?」
「え? わたしですか……?」
俺に訊かれて、少女が大きな目をパチパチと瞬いた。まさか自分に興味を持つ人間がいるとは思ってもみなかった、と言わんばかりの反応だ。
「わたしはアナセマです。アナセマ・シーセヴン」
少女はにこやかに微笑んで、あっさりと自分の名前を口にする。
その禍々しい言葉の響きに、俺は困惑して目を眇めた。
「アナセマ……? それは本名なのか? 人間につけていい名前じゃないと思うが?」
「ええっ!? でも、昔からずっとそう呼ばれていたんですけど……」
「そ、そうか」
すまない、と俺は素直に非礼を詫びた。
アナセマという単語の意味は〝呪いの言葉〟。あるいは〝忌み嫌われる人間〟だ。
控えめに言っても子供につけるような名前ではない。
だが、いかなる理由があれ、それが彼女の名前である以上、そのことを非難するべきではないだろう。そう考える程度の分別は、俺もいちおう身につけている。