聖女と暴食

第一章 ラプトルのパチャマンカ ③

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「暴食の……あく?」


 ようやく冷静さをもどし、俺はぎこちなくき返す。


あくというのは二十九年前に地上をほろぼした〝さいやく〟のことか? おまえがあの〝さいやく〟の中の一体だと?」

『そうなるな』


 ゼブと呼ばれていた黒犬が、ニヤリとくちはしげて笑った。

 このけものが人語を解しているというのは、やはり俺の気のせいではなかったらしい。


「旧世界のどう兵器の正体が、おまえのような犬コロなはずがないだろうが」

『犬ではない。ケルベロスだ』

「頭は一個しかないようだが?」


 自分が犬と会話しているという事実にまどいながらも、俺は冷静にてきする。


 めいかいの番犬として知られるケルベロスは、三つの首を持つどうもうものとして有名だ。

 しかし目の前のしようケルベロスの姿は、どう見てもただの小型犬。それもどうもうな印象からはほど遠い、間のけた顔立ちのあいがん犬だった。


『本体をふういんされているからな。不完全なアバターしか実体化できなかったのだ』


 黒犬がしぶしぶと口を開いた。尊大な口調のわりに情けない事情だ。


 よく見ると彼の小さな身体からだは、ほんのわずかに宙にいている。どうやらその姿は実体ではなく、りよくによって生み出された分身のようなものらしい。


「ゼブくん、ハルくんの前に出てきていいの?」

『問題ない。やつは、もうすでになんじの使いなのだからな』


 おどろくアナに、黒犬が答えた。黒犬の視線は、なぜか俺へと向けられたままだ。


「よくわからないが、おまえはアナのしようかんじゆうという理解でいいのか?」


 俺がたんたんと質問を続ける。黒犬は、不服そうにフンと鼻を鳴らした。


ちがうぞ、わつぱ。このむすめは、我にささげられたいけにえにして、我のけいやく者だ』

いけにえ?」

『貴様らがてんじんと呼ぶ連中が、なぜこのむすめ天環オービタルからほうちくし、高価なミサイルを使ってまで念入りにくそうとしたのだと思う?』


 黒犬の問いに、俺は無言で目を細めた。


 なぜか異様に警備が厳重だったはいモジュール。そしててんじん種族によるどうばくげき──

 その原因は目の前の少女だと、この黒犬はさりげなくそう言ったのだ。


『それはやつが、この我を──暴食の悪魔〝ベエルゼブブ〟をふうじておるからよ』


 黒犬が、ぐいっと後ろ足だけで立ち上がる。もしかしたらふんぞり返っているつもりなのかもしれないが、どう見ても覚えたての芸をろうしているあいがん犬である。


「そんなたわごとを、信じるやつがいると思ってるのか?」


 冷ややかに言い放つ俺を見上げて、黒犬はくっくっとかいそうに笑った。


『では、貴様がどうやっててんじんのミサイルばくげきから生き延びたのか、聞かせてもらおうか?』

「おまえがやったとでも言いたいのか?」

『我は手を貸しただけだ。〝さいやく〟の力を使ったのは貴様自身よ』

「……俺が?」


 俺は不意をかれてちんもくする。


 つうに考えれば、黒犬の言葉を信じる理由はない。どうばくげきミサイルのちよくげきえるのは、俺の能力では不可能だ。


 だが、この黒犬が、もしも本当に〝暴食の悪魔〟なら、あのじようきようでも俺とアナを救うことができたのではないか──そんな考えが、ほんのいつしゆん、俺をまどわした。

 それはアナがついさっき口にした、ふういんを解いた、という言葉がのうをよぎったからだ。


 そのせつ、俺ののうはじけるように、おくだんぺんがフラッシュバックする。


 俺の手を自分の胸の谷間へと導くアナ。ぎ去られた制服のケープ。白いはだ。そしてしつこくけん。俺のたけをもえるきよだいけんだ。

 だれかの高らかな笑い声が、耳の奥に残っている。

 この世のすべてをあざけり笑うようなあく的な笑い声だった。


「待て。〝さいやく〟の力というのは、アナが俺にわたしてきたあの黒いけんのことか?」


 きようれつまいおそわれながら、俺は黒犬にき返す。


『アナが貴様にわたした、か……そういうふうに説明できなくもないな』


 黒犬は、俺を見上げてニヤニヤと笑う。その訳知り顔がむかつくが、それを気にしているゆうは俺にはない。


 たしかに俺は彼女からけんを受け取った。俺のせんめいおくが事実なら、そのけんは、はいモジュールのがいへきき、どうだんとうの熱しようげきすらったのだ。


 もちろん俺に──ただの人間にそんなことができるはずがない。もしそれができるとすれば、それはちがいなく本物のあくの力だろう。そう。〝さいやく〟ならばそれができるのだ。


「ハルくんは、わたしが何者なのかを気にしていましたね?」


 黒犬を無造作にげたアナが、あおひとみで俺をぐに見つめた。

 俺は、少女が生やしているけもの耳が、どことなく黒犬の耳に似ていることにふと気づく。


「わたしはじよ──〝暴食の悪魔〟とけいやくした〝さいやくじよ〟なんです。ゆえに我が名はアナセマ──〝忌まわしきものANATHEMA〟です」


 ちようぜんとした静かなほほみをかべて、アナが告げる。


 その美しい表情にられて、俺はぼうぜんくした。


 忌まわしきものアナセマ。〝暴食の悪魔〟のけいやく者。てんじん種族が地上にほうちくし、くそうとした〝さいやくじよ〟。

 まどう俺を見つめたまま、ぎんぱつの少女は少しさびしげにほほんでいる。そして──


 ぐきゅるるる、と彼女のおなかが鳴った。


 ねむっていた俺を目覚めさせた、けものうなり声に似たあの音だ。


「おい」


 真面目な話をしていたんじゃないのか、と俺は半眼でアナをにらむ。


「ちっ、ちが……ちがうんです。今のは……その……」


 アナはおろおろと視線を彷徨さまよわせて言い訳の言葉を探していたが、やがてしきれないとさとったのか、俺を見上げてずといた。


「き、聞こえましたか?」

「腹が減っているのか?」

「……はい」


 耳まで顔を赤くして、少女がしようぜんかたを落とす。

 俺はやれやれとためいきをついて、彼女の前に右手を差しだした。


 その手の中に、かいふうのチョコレートバーが現れる。

 なにもないくうから、新品の軍用けいこう食がとつぜんき出したのだ。


「さっきと同じ非常食しかないが、食べるか?」

「……どこから取り出したんですか?」

「空間ほう。俺の固有能力だ」


 びっくりしたように目をみはる少女に、俺は素っ気ない口調で説明する。


 。および。それが俺の固有能力だ。


 転移できるのは非生物限定で、重量やサイズにも制限はあるが、どことも知れない空間にストツクした品物を、しゆんに手元に取り寄せることができる。


 直接的なこうげき力を持たないサポート寄りのほうであり、〝学園〟の基準における評価はあまり高くない。だが、こんなふうにそうなん同然の状態でこうに放り出されたときには、おそろしく役に立つ能力だ。


「固有能力……もしかして、おが無限に出てくる……とか?」


 うれしそうにチョコレートバーを受け取りながら、少女が期待に満ちた表情をかべた。


「あらかじめ収納しておいたものだけな」

「そ、そうですよね……」


 素っ気ない俺の返答に、アナがほおを赤らめた。そして彼女は受け取ったチョコレートバーを、名残なごりしそうに見つめながらかえしてくる。


「だったら、これは受け取れません」

「なぜだ?」

「聖職者であるわたしが、ほかの方の食べ物をうばって自分の欲望を満たすわけにはいきませんから。これはハルくんが食べるべきです」

「俺のことなら気にしなくていいぞ。チョコレートバーはきらいなんだ」


 いから、という言葉をかろうじてみこみながら、俺はチョコレートバーをもう一度アナに押しつけた。


 そもそもアナが自分のことを聖職者と思っていたという事実のほうがおどろきだ。あくけいやくしたじよではなかったのか。我がいけにえにしてあくふういんしたのは、聖職者だったからというくつなのかもしれないが。


「どのみち今夜は野営になりそうだからな。食事はべつに用意する」


 そう言って俺は周囲のこうを見回した。


 はいモジュールの落下地点であるこのアストキク平原は、直線きよでも第七学区アザレアスから二百キロ近くはなれている。徒歩でかんするのはなかなかきつい。


 むかえを待つのが現実的だが、救助部隊のとうちやくは早くても明日以降になるだろう。特殊執行部隊インビジブル・ハンズにも多くの負傷者が出ているし、彼らを収容して新たに救助部隊を編成するだけでもそれなりの時間がかかる。ましてやどうだんとうばくしん地に取り残された俺は、とっくに死亡したと思われていて、救助を急ぐ理由もないからだ。


 ものたちのうろつくこうでの野営。うでに自信のあるせんとう職の生徒でも、つういやがるじようきようだ。

 しかしアナたちの反応は、俺の予想とはだいぶちがっていた。


「食事!?」

『食事だと!?』


 目をかがやかせてってくる少女と黒犬を、俺はあきがおで見返した。


 こいつら、食事という言葉にいつきすぎだろう。〝暴食の悪魔〟を名乗るゼブはともかく、アナは聖職者をしようしていたんじゃなかったのか。


 期待に満ちた表情をかべたままのアナの腹が、きゅるきゅると再び鳴き声を上げる。彼女は本当におなかを空かしていたらしい。

 我に返って赤面するアナを見つめて、俺はもう一度、深いためいきらすのだった。