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「暴食の……悪魔?」
ようやく冷静さを取り戻し、俺はぎこちなく訊き返す。
「悪魔というのは二十九年前に地上を滅ぼした〝災厄〟のことか? おまえがあの〝災厄〟の中の一体だと?」
『そうなるな』
ゼブと呼ばれていた黒犬が、ニヤリと口の端を吊り上げて笑った。
この獣が人語を解しているというのは、やはり俺の気のせいではなかったらしい。
「旧世界の魔導兵器の正体が、おまえのような犬コロなはずがないだろうが」
『犬ではない。ケルベロスだ』
「頭は一個しかないようだが?」
自分が犬と会話しているという事実に戸惑いながらも、俺は冷静に指摘する。
冥界の番犬として知られるケルベロスは、三つの首を持つ獰猛な魔物として有名だ。
しかし目の前の自称ケルベロスの姿は、どう見てもただの小型犬。それも獰猛な印象からはほど遠い、間の抜けた顔立ちの愛玩犬だった。
『本体を封印されているからな。不完全な化身しか実体化できなかったのだ』
黒犬が渋々と口を開いた。尊大な口調のわりに情けない事情だ。
よく見ると彼の小さな身体は、ほんのわずかに宙に浮いている。どうやらその姿は実体ではなく、魔力によって生み出された分身のようなものらしい。
「ゼブくん、ハルくんの前に出てきていいの?」
『問題ない。其奴は、もうすでに汝の使い魔なのだからな』
驚くアナに、黒犬が答えた。黒犬の視線は、なぜか俺へと向けられたままだ。
「よくわからないが、おまえはアナの召喚獣という理解でいいのか?」
俺が淡々と質問を続ける。黒犬は、不服そうにフンと鼻を鳴らした。
『違うぞ、小童。この娘は、我に捧げられた生贄にして、我の契約者だ』
「生贄?」
『貴様らが天人と呼ぶ連中が、なぜこの娘を天環から放逐し、高価なミサイルを使ってまで念入りに焼き尽くそうとしたのだと思う?』
黒犬の問いに、俺は無言で目を細めた。
なぜか異様に警備が厳重だった廃棄モジュール。そして天人種族による軌道爆撃──
その原因は目の前の少女だと、この黒犬はさりげなくそう言ったのだ。
『それは此奴が、この我を──暴食の悪魔〝ベエルゼブブ〟を封じておるからよ』
黒犬が、ぐいっと後ろ足だけで立ち上がる。もしかしたらふんぞり返っているつもりなのかもしれないが、どう見ても覚えたての芸を披露している愛玩犬である。
「そんな戯言を、信じるやつがいると思ってるのか?」
冷ややかに言い放つ俺を見上げて、黒犬はくっくっと愉快そうに笑った。
『では、貴様がどうやって天人のミサイル爆撃から生き延びたのか、聞かせてもらおうか?』
「おまえがやったとでも言いたいのか?」
『我は手を貸しただけだ。〝災厄〟の力を使ったのは貴様自身よ』
「……俺が?」
俺は不意を衝かれて沈黙する。
普通に考えれば、黒犬の言葉を信じる理由はない。軌道爆撃ミサイルの直撃に耐えるのは、俺の能力では不可能だ。
だが、この黒犬が、もしも本当に〝暴食の悪魔〟なら、あの状況でも俺とアナを救うことができたのではないか──そんな考えが、ほんの一瞬、俺を惑わした。
それはアナがついさっき口にした、封印を解いた、という言葉が脳裏をよぎったからだ。
その刹那、俺の脳裏で弾けるように、記憶の断片がフラッシュバックする。
俺の手を自分の胸の谷間へと導くアナ。脱ぎ去られた制服のケープ。白い肌。そして漆黒の剣。俺の身の丈をも超える巨大な剣だ。
誰かの高らかな笑い声が、耳の奥に残っている。
この世のすべてを嘲り笑うような悪魔的な笑い声だった。
「待て。〝災厄〟の力というのは、アナが俺に渡してきたあの黒い剣のことか?」
強烈な目眩に襲われながら、俺は黒犬に訊き返す。
『アナが貴様に渡した、か……そういうふうに説明できなくもないな』
黒犬は、俺を見上げてニヤニヤと笑う。その訳知り顔がむかつくが、それを気にしている余裕は俺にはない。
たしかに俺は彼女から剣を受け取った。俺の不鮮明な記憶が事実なら、その剣は、廃棄モジュールの外壁を裂き、魔導弾頭の熱衝撃波すら斬ったのだ。
もちろん俺に──ただの人間にそんなことができるはずがない。もしそれができるとすれば、それは間違いなく本物の悪魔の力だろう。そう。〝災厄〟ならばそれができるのだ。
「ハルくんは、わたしが何者なのかを気にしていましたね?」
黒犬を無造作に抱き上げたアナが、碧い瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。
俺は、少女が生やしている獣耳が、どことなく黒犬の耳に似ていることにふと気づく。
「わたしは魔女──〝暴食の悪魔〟と契約した〝災厄の魔女〟なんです。ゆえに我が名はアナセマ──〝忌まわしきもの〟です」
超然とした静かな微笑みを浮かべて、アナが告げる。
その美しい表情に魅入られて、俺は呆然と立ち尽くした。
忌まわしきもの。〝暴食の悪魔〟の契約者。天人種族が地上に放逐し、焼き尽くそうとした〝災厄の魔女〟。
戸惑う俺を見つめたまま、銀髪の少女は少し寂しげに微笑んでいる。そして──
ぐきゅるるる、と彼女のお腹が鳴った。
眠っていた俺を目覚めさせた、獣の唸り声に似たあの音だ。
「おい」
真面目な話をしていたんじゃないのか、と俺は半眼でアナを睨む。
「ちっ、違……違うんです。今のは……その……」
アナはおろおろと視線を彷徨わせて言い訳の言葉を探していたが、やがて誤魔化しきれないと悟ったのか、俺を見上げて怖ず怖ずと訊いた。
「き、聞こえましたか?」
「腹が減っているのか?」
「……はい」
耳まで顔を赤くして、少女が悄然と肩を落とす。
俺はやれやれと溜息をついて、彼女の前に右手を差しだした。
その手の中に、未開封のチョコレートバーが現れる。
なにもない虚空から、新品の軍用携行食が突然湧き出したのだ。
「さっきと同じ非常食しかないが、食べるか?」
「……どこから取り出したんですか?」
「空間魔法。俺の固有能力だ」
びっくりしたように目を瞠る少女に、俺は素っ気ない口調で説明する。
物体転移。および亜空間収納。それが俺の固有能力だ。
転移できるのは非生物限定で、重量やサイズにも制限はあるが、どことも知れない亜空間に収蔵した品物を、瞬時に手元に取り寄せることができる。
直接的な攻撃力を持たないサポート寄りの魔法であり、〝学園〟の基準における評価はあまり高くない。だが、こんなふうに遭難同然の状態で荒野に放り出されたときには、恐ろしく役に立つ能力だ。
「固有能力……もしかして、お菓子が無限に出てくる……とか?」
嬉しそうにチョコレートバーを受け取りながら、少女が期待に満ちた表情を浮かべた。
「あらかじめ収納しておいたものだけな」
「そ、そうですよね……」
素っ気ない俺の返答に、アナが頰を赤らめた。そして彼女は受け取ったチョコレートバーを、名残惜しそうに見つめながら突き返してくる。
「だったら、これは受け取れません」
「なぜだ?」
「聖職者であるわたしが、ほかの方の食べ物を奪って自分の欲望を満たすわけにはいきませんから。これはハルくんが食べるべきです」
「俺のことなら気にしなくていいぞ。チョコレートバーは嫌いなんだ」
不味いから、という言葉をかろうじて吞みこみながら、俺はチョコレートバーをもう一度アナに押しつけた。
そもそもアナが自分のことを聖職者と思っていたという事実のほうが驚きだ。悪魔と契約した魔女ではなかったのか。我が身を生贄にして悪魔を封印したのは、聖職者だったからという理屈なのかもしれないが。
「どのみち今夜は野営になりそうだからな。食事はべつに用意する」
そう言って俺は周囲の荒野を見回した。
廃棄モジュールの落下地点であるこのアストキク平原は、直線距離でも第七学区から二百キロ近く離れている。徒歩で帰還するのはなかなかきつい。
迎えを待つのが現実的だが、救助部隊の到着は早くても明日以降になるだろう。特殊執行部隊にも多くの負傷者が出ているし、彼らを収容して新たに救助部隊を編成するだけでもそれなりの時間がかかる。ましてや魔導弾頭の爆心地に取り残された俺は、とっくに死亡したと思われていて、救助を急ぐ理由もないからだ。
魔物たちのうろつく荒野での野営。腕に自信のある戦闘職の生徒でも、普通は嫌がる状況だ。
しかしアナたちの反応は、俺の予想とはだいぶ違っていた。
「食事!?」
『食事だと!?』
目を輝かせて詰め寄ってくる少女と黒犬を、俺は呆れ顔で見返した。
こいつら、食事という言葉に喰いつきすぎだろう。〝暴食の悪魔〟を名乗るゼブはともかく、アナは聖職者を自称していたんじゃなかったのか。
期待に満ちた表情を浮かべたままのアナの腹が、きゅるきゅると再び鳴き声を上げる。彼女は本当にお腹を空かしていたらしい。
我に返って赤面するアナを見つめて、俺はもう一度、深い溜息を洩らすのだった。