「あの……ハルくん? なにか困ってることがあるなら、相談に乗りますよ? 私、こう見えても聖職者なので」
沈黙を続ける俺を見上げて、アナが心配するように言った。
「そうか。気持ちだけ受け取っておく」
俺は曖昧にうなずいて首を振る。
悩みの元凶はほかならぬきみ自身なんだが、とはさすがの俺も言いづらい。
『この焼きラプトルはもう喰えるのか?』
俺の苦悩など気にも留めずに、焚き火の上の肉を見つめて黒犬が言った。
「いちおう火は通ってますけど、もう少し焼き色をつけたいですね。ついでに味付けもしちゃいましょう。塩とタレ、半分ずつでいいですか?」
『うむ、任せる』
偉そうな黒犬の許可を得て、アナは、白焼き状態の焼き鳥にまずは塩を塗っていく。
ただの塩胡椒だけではなく、みりんや油、ニンニクなどを混ぜこんだ塩ダレだ。
続けてアナは醬油ダレの準備に移った。
たっぷりと塗りこまれたタレが滴り落ちて火の粉が散り、香ばしい匂いが周囲に漂い出す。
食欲をそそる暴力的なまでの匂いだ。
「まずいな……」
焚き火の明かりに照らし出された肉を見て、俺は小さく呟いた。
せっせとタレを塗っていたアナは、ショックを受けたように動きを止めて、
「ええ……!? でも、さっき、味見をしたときにはハルくんも美味しいって……」
「違う。そうじゃない。これだけの匂いが漂っているのに、この近くにいる魔物が、それに気づかないってことがあり得ると思うか?」
『む……』
俺の指摘に、黒犬が鼻をヒクつかせた。
火を嫌うのは、野生の動物も魔物も同じだ。ただ肉が焼ける匂いだけなら、むしろ彼らを遠ざける効果があったかもしれない。
しかしアナが作ったタレの匂いはまずい。
なにも知らない魔物たちの興味を惹くのに充分な、強烈な誘引力がある。
「魔物に気づかれると、どうなるんでしょう?」
アナが困惑したように首を傾げる。
そんな彼女の獣耳が、なにかに反応したようにピクリと震えた。
一瞬遅れて俺も気づく。遠雷のようなかすかな地響きが聞こえる。巨大な魔物の足音だ。
「当然、こうなるだろうな」
薄闇に覆われた夕暮れの荒野に、小さな深紅の輝きが灯った。
それは全身に炎のような毛皮をまとった、巨大な魔物の姿だった。
6
新たに出現した魔物までの距離はおよそ二キロメートルといったところか。それでも肉眼ではっきりとその姿が見える。単純にラプトルなどよりも、遥かに大型の個体なのだ。
ずんぐりとした四足歩行の魔物だ。
体高は四メートル前後。全長は八メートルに近いかもしれない。陸生型の生物としては、かなり巨大な部類に入る。この付近では間違いなく最大級の魔物だろう。強敵だ。
「ど、どうしましょう!? せっかくお肉が焼き上がったのに……!」
近づいてくる魔物と目の前の焼き鳥を見比べて、アナがおろおろとうろたえる。
巨大な魔物は脇目も振らずに、俺たちのいる方角へと疾走していた。どう見ても、焼き鳥の匂いに惹きつけられてきたとしか思えない。
「落ち着け。相手が一体きりなら、ここで片付ければ済む話だ」
狼狽しているアナに向かって、俺は淡々と言い放つ。その足元で、黒犬も同意した。
『くくっ……そうだな。新しい食材が自分からやってきたと思えばいい』
「食材……なるほど……」
アナが落ち着きを取り戻してうなずいた。
まだ喰う気か、と俺はさすがに呆気にとられる。
「とはいえ、動きが速いな。ここは危険だ。退避するぞ」
近づいてくる魔物の速度を目算して、俺はアナに避難を促した。
鈍重そうな巨体にもかかわらず、深紅の魔物の動きは速い。このままの速度で走り続ければ、おそらく一分もかからずに俺たちのところまで辿り着くはずだ。
「え!? でも、焼き鳥は……」
いい具合に焼けた焼き鳥を見つめて、アナが情けない表情を浮かべた。
「そんなものを気にしてる場合か!」
「は、はい!」
ちらちらと焚き火のほうを振り返るアナを急かして、俺は近くの岩場へと彼女を追い立てた。
人間でも這い上がるのに難儀するような急斜面の上だ。あの魔物の巨体では、簡単には登れないだろうし、とりあえずアナの安全が確保できるならそれでいい。
結局、高さ二十メートルほどの岩場をアナがどうにか登りきったのは、魔物が焚き火の前まで辿り着くのとほぼ同時だった。
「ああっ……! わたしたちの焼き鳥が……!」
巨大な魔物が焚き火を蹴散らし、その上で焼けていたラプトル肉を喰い荒らす。
それを見て、アナが悲鳴を上げた。
「フレイムボア……! しかも変異種か!」
炎に照らされた魔物の全容を確認して、俺は小さく舌打ちする。
フレイムボアは、〝学園〟付近の荒野に多く出現する魔物である。
特徴的な深紅の毛皮は火属性の魔法を帯びており、防御力が極めて高い。攻撃的で力も強く、その巨体から繰り出す突進は強力な武器だ。
しかも目の前の魔物の巨体には、本来のフレイムボアには存在しない、怪獣めいた三本の角が生えている。平均的なフレイムボアより二回り以上も巨大な身体といい、なんらかの理由で出現した一代限りの変異種に間違いないだろう。
「ボア……魔物化した猪、でしょうか? ぼたん鍋が出来ますね。あとは角煮とヒレカツも」
『でかいな。なかなか食い出がありそうだ。変異種の魔物は通常種よりも美味いと聞くしな』
変異種の戦闘能力を真剣に見極めようとしている俺の隣で、アナと黒犬が吞気な会話を交わしている。
脱力しそうになるのを必死でこらえて、俺は小さく首を振った。
「悪いが、非戦闘員を庇いながら戦うほどの余裕はなさそうだ。あいつは俺が一人で仕留めてくる。アナと犬コロはここにいろ」
「一人で大丈夫なんですか? あの、私の……魔女の力、使いますか?」
自分の胸元をぎゅっと押さえて、アナが俺を見つめてくる。
彼女が持つという魔女の力。つまりそれは封印した〝暴食の悪魔〟の力ということだろう。
たしかに魔導弾頭の直撃すら相殺するあの黒い魔剣の力なら、たかだか全長七、八メートル程度の魔物を葬るのは造作もないはずだ。だが、
「きみが支払う代償はなんだ?」
「え?」
俺の唐突な質問に、アナがきょとんと目を瞬いた。
「たとえきみが〝暴食の悪魔〟の契約者だとしても、〝災厄〟の力を使うには、相応の代償が必要なんじゃないか? 力を受け取る代償はなんだ? きみはそいつになにを差し出した?」
「それは……その、ハルくんには内緒です」
「あ!?」
俺は思わずイラッとして、アナのこめかみを拳で挟みこむ。
たしかに俺が気にしているのは〝災厄〟の力を使う危険性であって、彼女の身を気遣っているわけではない。だとしても、ここで情報を出し渋る意味がわからない。
「だって、せっかくハルくんが忘れてるのに……痛たたたた、それ本当に痛いから、やめてくださいぃぃ……!」
アナが情けない悲鳴を上げる。だが、それでも彼女は代償についての秘密を明かすつもりはないらしい。
そして苦悶するアナを見かねたように、黒犬がやれやれと息を吐き、
『心配せずとも、我がアナセマから召し上げる供物は一時的なものだ。寿命やら魂やらを奪うわけではないから安心せよ』
「そんなものをほいほい差し出されてたまるか!」
物騒なことを言い出した黒犬を怒鳴りつけ、俺はアナを解放した。
俺たちの眼下には、今も変異種の魔物がいる。
その巨大な深紅の瞳が、岩場の上にいる俺たちに向けられた。
魔物の多くは人間を喰う。彼らが好むのは魔力保有量の多い人間。特に聖属性の魔力持ちだ。ラプトルの肉を食べ尽くした変異種が、俺たちを襲ってくるのは時間の問題だろう。こんなところでくだらない言い争いをしている場合ではない。