壁一面に嵌めこまれた窓からは、都市の全景が一望できた。
〝学園〟の生徒の何割が、卒業までに一度でも、この風景を目にすることができるだろうか? 緊張を紛らわすためにそんなことを考えて、ティルティは少しだけ誇らしい気持ちになる。
地上八十八階建て、高さ四百二十メートルの超高層ビル──〝ケインズの杖〟の最上階。第七学区〝重商生徒会〟の本拠地たる生徒会長の執務室だ。
警戒厳重なこの場に入ることが許されているというだけで、間違いなくティルティは、〝学園〟の生徒でもほんの一握りのエリートということになる。
「ティルティ・カルナイム監視委員──」
巨大なデスクの向こうに座る〝第七学区生徒会長〟ユミリ・アトタイルが、そんなティルティに穏やかな口調で呼びかけた。静かだが、やけによく通る声だった。
その声で不意に現実を思い出し、ティルティは無意識に姿勢を正す。
生徒会下部組織の一員に過ぎないティルティが、こうして生徒会長室を訪れたのは、ほかならぬ会長本人に直々に呼び出されたからだった。
罪に問われるようなことをした覚えはないが、なにしろ相手は第七学区の最高権力者だ。まったく不安がないと言ってしまえば噓になる。
それはそれとして間近で目にした生徒会長は、想像していたよりも小柄な女性だった。
うっすらと透き通るような淡緑色の髪と、凪いだ湖面を思わせる水色の瞳。どこか現実感と実在感に乏しい、妖精めいた雰囲気の人物だ。ひと言で表せば超絶美少女というやつである。
しかし儚げな外見とは裏腹に、彼女からは言葉にできない圧力を感じた。
空気が重いというか張り詰めているというか、まるで高ランクの魔物と丸腰で対峙している気分になる。
これが生徒会長を務める人間のカリスマ性というやつなのだろうか。端的に言って恐ろしい。
戦場慣れした武装監視委員のティルティにすら、そう思わせるなにかが彼女にはあった。決して怒らせてはいけない種類の人間だ。
そんなふうに内心震え上がっているティルティを見つめて、ユミリは淡々と言葉を続けた。
「三週間に及ぶ第四学区への出張、お疲れさまでした。交渉結果についての報告書は受け取っています。学区境界線の確定だけでなく、上級回復薬の優先供給契約が締結できたのは僥倖でした。お手柄でしたね、ミス・カルナイム」
「ありがとうございます。執行部の皆様のサポートのおかげです」
謙遜の言葉を口にしつつも、ティルティは密かに安堵の息を吐く。どうやらこの緑髪の生徒会長は、ティルティを叱責するためにここに呼び出したわけではないらしい。
実際、第四学区〝医療生徒会〟と、第七学区の交渉をまとめるのは苦労した。
閉鎖環境都市〝学園〟は、それぞれが独立した自治権を持つ七十二の学区によって分割統治されている。異なる学区の生徒会との交渉は、場合によっては戦争の引き金にもなりかねない危険な任務なのだ。
その交渉を首尾良く乗り切ったのは、間違いなく交渉責任者であるティルティの手柄である。今期の獲得GPAは、それなりに期待してもいいだろう。
とはいえ、その程度の用件で、生徒会長が貴重な時間をティルティ一人に割くとも思えない。
つまりユミリの目的はほかにある。ティルティと彼女の面談は、おそらくここからが本番だ。
「ところで、ミス・カルナイム。あなたはタカトー隊長の友人だそうですね」
「タカトー隊長? 特殊執行部隊のハル・タカトーのことですか?」
「ええ。〝第七学区の稲妻〟、です」
うなずくユミリを見返して、ティルティは軽く困惑した。
ハル・タカトーは、ティルティたちと同じ第七学区所属の高等部二年生。
生徒会直属の特殊執行部隊〝インビジブル・ハンズ〟で部隊長を務めている戦闘職の男子で、〝学園〟全体でも最強と呼ばれる生徒の一人である。
固有能力である空間魔法だけでなく、風と水の二重属性を使いこなし、その特異な戦闘スタイルからつけられた二つ名は〝蒼の稲妻〟──
戦闘技術だけでなく学力面も優秀で、定期試験の成績では常に学年上位を維持。趣味の音楽や絵画でも芸術科の生徒から一目置かれているという実力者だ。
そんな文武両道の完璧超人であるがゆえに、当然モテる。
男子にとっては恐怖と羨望の対象で、女子にとっては憧れの的。それがハル・タカトーだ。
「友人といいますか、ハルは幼なじみです。たまたま地上に降りてきたときのクラスが同じで、それ以来の腐れ縁みたいなものです。それ以上でもそれ以下でもありません」
内心の動揺を気取られまいと、ティルティは息継ぎ無しの早口で説明する。
噓である。地上に降りる際の班が一緒だったのは事実だが、そこからは彼の近くにいられるように、ティルティはそれはもう必死に努力した。
寝る間を惜しんで勉強し、運良く適性があった魔法を鍛え上げるために、涙ぐましい訓練を続けた。その甲斐あって、ティルティは同じ学年の生徒の中では頭ひとつ抜けた好成績を叩き出し、ハルと対等に話ができる数少ない女子という地位を確保。今ではハルのパートナーに相応しい彼女候補として、真っ先に名前が挙がる程度には認められていたりする。
だからといってそんな無責任な噂の真偽を確かめるために、多忙な生徒会長がティルティを呼び出したわけではないだろう。ティルティとハルの関係が、生徒会で問題視されているとも思えない。
「──三週間前、あなたが第四学区に渡航した直後ですが、〝学園〟西方のアストキク高原に天環の廃棄モジュールが落下しました」
「はい」
その事件はティルティも知っている。
落下するモジュールの輝きで夜空が真昼のように明るくなったし、モジュールの残骸が地上に激突した衝撃は、遠く離れた第四学区にも伝わってきた。
「では、地上に落ちた廃棄モジュールを破壊するために、天人が軌道爆撃ミサイルを発射したことはご存じですか?」
「軌道爆撃ミサイル……? モジュールの残骸を焼き尽くそうとしたということですか?」
ティルティが思わず洩らした呟きを、ユミリは無言で肯定した。
「わたくしたち第七学区生徒会執行部は、廃棄モジュールの調査のために特殊執行部隊を派遣していました」
「執行部隊を? まさか、ハルは……」
「安心してください。少なからず負傷者は出ましたが、特殊執行部隊に人的な損失はありません。ハル隊長も無傷です。いえ、元隊長というべきですね」
ハルが無事だというユミリの説明に、ティルティは安堵した。同時に疑問が湧いてくる。
「あの……ハルが元隊長というのはどういうことなのでしょうか?」
「ハル・タカトーは、落下物調査任務からの帰還後すぐに、特殊執行部隊からの除隊を申請しました」
「は? 除隊?」
無傷だったにもかかわらず、ハルは執行部隊を辞めたというのだろうか?
部隊に損害を出したことで、責任を問われたわけでもないのに?
「執行部隊の総隊長は慰留したそうですが、すでに除隊の手続きは完了しています。現時点ですでにハル・タカトーは、生徒会執行部の管理下にはありません」
「執行部を辞めた……? ハルが……どうして?」
ユミリ会長の前であることも忘れて、ティルティは呆然と呟いた。
生徒会の執行部員というのは、誰もが選ばれるような立場ではない。それが特殊執行部隊の現場指揮官ともなれば尚更だ。なぜなら生徒会役員の肩書きは、〝学園〟の生徒にとって極めて大きな意味を持つからだ。
いずれ〝学園〟を卒業して天環に帰還したあとに、各学区の生徒会関係者は、優先的に上位の役職に就けるといわれている。生徒会執行部員とは、いわば天人支配階級への登竜門なのだ。
なのにハルは、その恵まれた立場をあっさり投げ捨てたのだという。
あの誰もが認める超エリートのハル・タカトーが。
「ハルは……ハルはどうなったんですか?」
ティルティは、ユミリに詰め寄るように身を乗り出した。