薄闇の中に浮かび上がるその魔物の死体を見て、ティルティが、ぎゃあ、と悲鳴を上げた。
「……って、恐っ!? なによこれ!? 顔、恐っ!」
「オーガベアです。ハルくんと部長さんとわたしたちが狩りました」
黒犬を抱いているアナが、少し得意そうな表情で答える。
「は? オーガベア? 脅威度B級中位の魔物じゃない。なんでそんなものの死体がこんなところに?」
「なんでって、そりゃ喰うからに決まってるだろ」
「食べるの!? これを!?」
ティルティが信じられないといわんばかりに思いきり顔をしかめた。
大袈裟な彼女の反応に、やれやれとラフテオは首を振る。
「熊肉は昔から食用にされてきただろ」
「知らないわよ! そもそもオーガベアは熊じゃない!」
ティルティが拗ねたように唇を尖らせた。
オーガベアは体長四メートルほどの陸上型の魔物だ。熊の近縁種と考えられているが、頭部に生えた二本の角のせいで、その名のとおり鬼に見える。熊ではないというティルティの主張も、その意味では的外れではない。
「こいつを狩ってくるのはありがてえが、なんでおまえは毎回魔物の身体を吹っ飛ばすんだ?」
いまだに騒いでいるティルティを無視して、ラフテオが脱線しかけていた話を元に戻した。たしかにオーガベアの胴体には、直径六、七十センチにも達する巨大な穴が空いている。俺が雷魔法を応用した砲撃でぶち抜いたものだ。
「なにか問題があったか? 今回はロースやヒレもしっかり残してあったと思うが」
「そんなもの持って帰られても、うちじゃ使わないから意味ねえんだよ」
ラフテオが深々と溜息をついて、俺は自分の失策を悟った。
可食部を多く残すために、俺はあえて筋肉の少ないオーガベアの腹部を吹き飛ばした。だが、ラフテオが調理に使いたかった部位は、どうやらそのあたりにあったらしい。
「ロースやヒレを使わないって、どういうこと? ほかにどこを食べるの? バラ肉?」
ラフテオの言葉に興味を惹かれたのか、ティルティが小首を傾げながら訊いた。
「とりあえずはハツとタン、それにハラミか。献立によってはマメやヒモも使うな。オーガベアのような熊系の魔物なら掌もだ」
「……なんですか、それ?」
まるで暗号のようなラフテオの返事に、ティルティは面喰らったような顔をする。
「心臓と舌、あとは横隔膜周りの筋肉ですね。マメは腎臓、ヒモは小腸だったはずです」
ティルティの疑問に答えたのは、アナだった。先輩らしいところを後輩に見せられて、獣耳の少女は満足そうに小鼻を膨らませている。
「つまり内臓ってこと? それに掌って……手?」
「ああ。コラーゲンが豊富で美味いぞ」
「なんでそんな特殊な部位ばっかり使うんですか!? 普通にお肉を食べましょうよ!?」
「なに言ってんだ。ロースやヒレなんか、うちの店じゃなくても喰えるだろうが」
ある意味で当然とも思えるティルティの意見を、ラフテオはバッサリと切り捨てた。
ティルティとしては納得がいかないだろうが、今の俺には、ラフテオの主張の意味が理解できる。学食部の最終目標は、いまだに誰も辿り着いたことのない美食文化の最高峰ともいうべきフルコース〝四星全席〟の完成なのだ。
それを達成するためには、過去の料理人が避けていた特殊な食材にも目を向ける必要がある。その結果として生まれたのが、〝躑躅亭〟の如何物料理なのだろう。
「まあいい。それよりも魔臓だ。今回はどうにか無事だったが、ギリギリだったぞ。おまえの攻撃があと何センチかズレてたら危なかった。オーガベアの魔臓は珍味として有名だからな」
「魔臓!? あんなもの食べて大丈夫なんですか!?」
ティルティが今度こそ悲鳴を上げる。ラフテオは、呆れたような視線をティルティに向けて、
「そりゃ喰えるだろ。べつに毒ってわけじゃねえんだから」
「いや、毒でしょ!? 魔臓なんて、魔物のいちばんヤバい部分じゃないですか!」
「心配するな。ちょっとアクが強いだけだ。きっちり下処理すれば問題ねえ」
「あなたの下処理した食材で、私、さっき死にかけたんですけど!?」
ティルティが金切り声で反論する。学食部の定食の毒にあたったことを、彼女は今も根に持っているらしい。
そしてそんな一触即発の雰囲気で睨み合う二人の間に、割りこんだのはアナだった。
「落ち着いてください、ティルティさん。重要なのはそこじゃありません」
「毒物を食べさせられるかどうかよりも重要なことってなに!?」
ティルティが納得いかないという風にアナに食ってかかる。
アナはそれに答える代わりに、ラフテオへの質問を口にした。
「オーガベアの魔臓は、美味しいんですか?」
「気にするところ、そこなの!?」
「……食材にとって、味の良し悪しは大事じゃないです?」
「魔臓は食材じゃないでしょう!?」
不思議そうに見つめ返してくるアナを睨んで、ティルティは頭を抱えている。いつも取り澄ましているティルティが、こんなにも感情を露わにしたところを見るのはずいぶん久々だ。
「魔臓は美味いぞ。癖はあるが、慣れればやみつきになるともっぱらの評判だ」
「どこの世界の評判ですか!?」
「如何物料理業界だが?」
ティルティの皮肉っぽい質問に、ラフテオは表情を変えずに平然と答えた。
なにを言ってもラフテオを論破できないと悟ったティルティは、助けを求めるような視線を俺に向けてくる。
「ねえ、ハル。学食部が万年赤字経営な理由は、こうやってイカモノ料理にこだわってるせいじゃないの? もっとまともな料理を出せば、お客さんも増えるのに……!」
「それはどうだろうな。今の学食部にも、それなりに常連客がいるみたいだからな」
急な方針転換をすれば、かえって客離れを招く可能性がある。
俺がやんわりとそう指摘すると、ティルティは真面目に考えこんだ。
「たしかにランチタイムの店内はそこそこ混んでたけど……どうしてあんなものを食べたがるのか、まったく理解できないわ」
「そうだな」
あっさりとうなずく俺を見て、ティルティは驚いたように目を瞬いた。
「……どうした?」
「いえ、やっぱりハルはイカモノ料理に惚れこんで学食部に移籍したわけじゃなかったのね」
「当然だ」
わかりきったティルティの質問に、俺は素っ気ない答えを返す。
正直なところ、俺は食事にこだわりがない。もちろん美味いに越したことはないが、必要な栄養素が取れれば、それで充分だと思っている。仮に学食部の如何物料理が美味かったとしても、どうしてそれで俺が移籍しなければならないのかわからない。
そんな当然の返事を聞いて、ティルティはなぜか満足したらしい。
「わかった。そういうことなら文句はないわ。この私が監査官として来たからには、学食部の食堂をまともな料理が食べられて利益が出る真っ当な店に変えてみせるから!」
「そうか。頑張れ」
俺は投げやりな言葉でティルティを激励した。
如何物料理に思い入れのない俺としては、彼女の目論見が成功でも失敗でも気にならない。
しかし美食にこだわるアナたちにとってはどうなのか──ふと気になって、俺はアナに抱えられたままの黒犬を見た。
「おまえはそれでいいのか、犬コロ」
『美味いものが喰えるなら、我はなんでも構わんぞ。人間のいうまともな料理もイカモノも、我から見れば、たいした違いはないからな』
「そういうことか」
「ゼブくんは好き嫌いのない、いい子なので」
黒犬の言葉に俺は納得し、アナは黒犬の頭をよしよしと撫でる。
好き嫌いの有無の問題ではなく単に悪食なだけだと思ったが、俺はあえてそれを口にしようとはしなかった。だがその直後、ティルティが呆然と立ち尽くしていることに俺は気づく。
彼女が警戒心を剝き出しに見つめているのは、アナの腕の中にいる黒犬だ。
「なんなの、それ?」
「あ……」
普通の犬は人間の言葉を喋らない。そのことを忘れていた俺とアナは思わず顔を見合わせて、そして気まずい顔で途方に暮れるのだった。