俺は目についた建物の陰に、気絶したままのティルティを横たえた。
ついでに俺が着ていたタクティカルジャケットを脱いで、彼女の裸の胸にかけてやる。
あの男子生徒の目的がアナならば、ティルティは本来は無関係だ。俺たちと一緒にいるよりも、ここに隠しておいたほうが彼女にとっては安全なはずである。
『〝災厄〟の力というのは、少し違うな。やつは死んだ宿主の肉体を、宿主自身の魔法を使って動かしているのだ。聖属性の魔法でな』
「死体を動かす聖属性魔法だと……? 反魂法か!」
反魂法。死者の魂を呼び戻し、甦らせるという聖属性魔法だ。
ただしその魔法は理論上存在するといわれているだけで、実際に成功したという報告はない。死者の蘇生は天人の知識と技術をもってしても、いまだに及ばない領域なのだ。
しかし死体になった自分を、生き返らせるのではなく死体のまま動かし続けたという事例は存在する。いわゆるリッチ──すなわち高位アンデッドだ。
「〝災厄〟というのは、死体を宿主にできるのか?」
『できるかどうかと問われれば、可能だろうな。反魂法が使えるのは強力な聖属性魔法の適性者だけだ。〝災厄〟を封印する器に使うには充分だ。もっとも我はやらんがな』
「なぜだ?」
『死体は飯を喰わんからな』
説得力のある黒犬の言葉に、なるほど、と俺は納得した。
『それに肉体に聖属性魔法の適性があっても、死体はしょせん死体に過ぎぬ。力の源泉となる欲望を持たぬ宿主には〝災厄〟の本来の力は発揮できん。着火装置の真似事がせいぜいだ』
蔑むような口調で、黒犬が続けた。
〝暴食の悪魔〟の言葉が事実なら、どうやらあの〝災厄〟の能力は大幅に弱体化しているらしい。
だが、どんなに弱っていても〝災厄〟は〝災厄〟だ。
その魔力は実質的に無尽蔵であり、このままやつを放置していれば、第七学区が丸ごと焼き尽くされるのも時間の問題だろう。そしてすでに死体となっている宿主を殺す方法も存在しない。
「どうすればやつを止められる?」
『我に聞かずとも、貴様はそれを知っているのではないか?』
俺の質問に、黒犬は素っ気なく答えた。なにを今さらといわんばかりの口調だった。
そう。訊くまでもなく答えはわかっていた。実に単純な話だ。
〝災厄〟を斃すのが目的なら、同じ〝災厄〟の力を使えばいい──
俺は苦虫を嚙み潰したような表情で黒犬を睨み、次にその視線をアナへと向けた。
獣耳を隠した銀髪の少女は、小首を傾げて不思議そうに俺を見返してくる。
「アナ、きみの力を貸して欲しい」
俺は、内心の葛藤を抑え込みながら、彼女に告げた。
「わ、わかりました」
アナはぎこちなくうなずいて、なぜか上気したように頰を赤く染めたのだった。
10
壊れかけた建物の壁越しに、爆発の振動が響いてくる。
水蒸気爆発によって俺たちを見失った〝死体〟が、腹いせに爆炎をまき散らしているらしい。
そんな中、俺に力を貸せと言われたアナは、思いがけない行動に出た。
ナース服の襟元のくるみボタンを、唐突に外し始めたのだ。
「おい、待て! なぜこんなところで服を脱ぐ!?」
胸元をはだけようとするアナを、俺は慌てて制止した。
しかしアナは怪訝な顔で、戸惑う俺を見上げてくる。
「だって、脱がないとハルくんが触れませんよね?」
「触る? 誰が?」
「ハルくんが、わたしの心臓に」
「心臓……だと?」
俺は驚いてアナを見返した。アナは大真面目な顔で俺を見上げたまま、
「はい。〝災厄〟の力の触媒になるのは、わたしの心臓です。生贄の心臓を供物として捧げるのは、悪魔召喚における一般的な手順だと聞きました」
「それはそうなのかもしれないが──」
「はい。ですから、〝災厄〟の力を引き出すためには、わたしの心臓とハルくんの間に魔法的な経路をつなげる必要があるんです」
「そういうことか……」
心臓に触るというのは比喩ではなく、魔法的な意味でということだったらしい。
「だが、生物の体内に外から魔法をかけることはできないぞ」
人間を含めた生物は、自分の肉体を排他的な魔法領域として支配しており、外部から魔法で干渉することはできない。それは魔法の適性を持たない人間でも同様だ。
そうでなければたとえば水属性魔法によって、他人の血液すら自由に操作できることになってしまう。
外部から他人の肉体に干渉できる数少ない例外は聖属性の回復魔法や治癒魔法だが、それらは負傷によって支配領域が損なわれているからこそ有効なのだ。
たとえアナがそれを受け入れていたとしても、生物にとって重要な臓器である心臓に魔法回路をつなげるような、複雑な魔法儀式が可能とは思えない。
「わかってます。ですから、ハルくんには直接わたしの心臓に触れてもらわなきゃいけないんです。わたしの胸には、心臓に直接つながる魔法回路のコネクターがありますから」
そう言ってアナはブラを指で引っ張って、自分の胸元を俺に見せつけた。
胸の谷間に挟まれてほとんど見えないが、たしかに彼女の胸の中心部には魔法陣らしきものの気配がある。アナ自身がそこに魔力を流すと、その魔法陣はより鮮明に輝いた。
「なんでそんなところに魔法陣を刻んだ!?」
「だ……だって、心臓に直接つながっているので……!」
俺の当然の疑問に対して、アナが困った顔で答える。
「それに、ハルくんがコネクターに触るのは二度目ですよね?」
「なに……?」
フラッシュバックした記憶の断片に、俺は苦悩の表情を浮かべた。
軌道爆撃ミサイルが迫る廃棄モジュールの中、俺が意識を失う前の最後の記憶。それはまさしくアナの胸に触れようとする自分自身ではなかったか。いやあれは、むしろ触らせられたと言うべきか。俺の記憶の欠落は、まさかそれが原因ではないだろうな──
そんな俺のくだらない思考は、間近で響いた爆発音に中断させられる。
「〝暴食〟! そこですか! 見つけましたよ、〝暴食の悪魔〟!」
至近距離で燃え上がった炎に、隠れていた俺とアナの姿が照らし出される。
それを見つけた男子生徒の〝死体〟が、虚ろな眼を笑うように細めた。
「悩んでいる暇はなさそうだな。悪いが、その魔法陣を使わせてもらうぞ」
「ど、どうぞ」
決断した俺の目の前で、アナが自分のブラを外す。
俺は目を閉じて彼女の胸の魔法陣に手を伸ばした。しかし俺の掌が触れたのは、半球形の柔らかな膨らみだ。
「ひゃうっ!?」
「す、すまない」
予期せぬ刺激にアナが小動物めいた悲鳴を上げて、俺は反射的に手を引っ込めた。
そんなことをしている間にも、爆炎を纏った〝死体〟の気配が近づいてくる。そのことに俺は更に焦燥を覚える。
焦っているのはアナも同じだろう。彼女は明らかに困惑した様子で俺に顔を近づけて、
「あの……ハルくん。どうして目を閉じてるんですか?」
「閉じてないと見えるだろうが!」
「ここです」
俺の手首を握ったアナが、そのまま俺の掌を自分の胸へと押し当てた。
二つの柔らかな膨らみの狭間に、俺の掌が吸い込まれていく。
目を閉じてしまっているせいで、俺の触感はより鋭敏になっていた。ひんやりとしたアナの体温と、吸いつくようになめらかな肌。そして少し速い彼女の鼓動がはっきりと伝わってくる。
そしてその奥に、清浄な光に包まれた球体の存在を感じる。
その球体の中に囚われた、底知れぬ闇に似た黒い塊の存在を感じたとき、俺の中になにかが流れこんできた。それは制御しきれないほどの膨大な〝力〟と、凄まじく強烈な飢餓感だ。
「……腹が……減ったな……」
俺は、獣のように低く唸りながら目を開ける。
アナの瞳に映る俺の目は、まるで炎のように赤く輝いていた。
だが、そんなことは少しも気にならない。俺は、自分の中で荒れ狂う膨大な力と、身体の奥からこみ上げてくる嵐のような衝動に酔いしれていた。