破壊衝動によく似た攻撃的な感情。だが、そこにあるのは敵意や憎悪ではなかった。
むしろ愛情や執着に近い甘美な感情。喰いちぎり、咀嚼し、吞みこみ、消化吸収し、相手のすべてを自らの中に取り入れたいという欲望──食欲だ。
アナの裸の胸の谷間に埋めていた右手を、俺はゆっくりと引き抜いていく。
その手が握っていたのは刀だった。反りのある漆黒の片刃刀だ。
刃の幅が非常に広く、分厚い。刃渡りは優に一メートルを超えている。
どう考えてもアナの胸の谷間に収まるような武器ではないが、これは文字どおり、アナの体内から引き抜いたものだ。この刀の正体こそが、彼女が封印している〝災厄〟──〝暴食の悪魔〟なのだから。
「ヒ……ヒヒッ!」
俺たちを追ってきた痩身の男子生徒が、立ち上がる俺に向かって爆炎を放った。
火属性の魔法とは異なる、得体の知れない超高温の炎。だが今の俺にとってそれはまるで、肉汁の滴る美味そうな極上のステーキのように感じられる。
その爆炎に向けて、俺は黒刀を振った。
長く分厚い黒刀が、俺の動きに合わせて形を変える。
その全長はすでに五メートルを超えていた。
普通なら片手で持ち上げられるような代物ではないが、俺はその刀の重さを感じない。むしろ自分の肉体の一部のように自由自在に軽々と操れる。
大きく波打つ漆黒の刃は、顎を開いた巨大な肉食獣のように見える。
そして〝死体〟の放った爆炎に触れた瞬間、黒刀はごっそりとその炎を削った。
〝災厄〟の炎を喰ったのだ。
刀を握る手から伝わってくる、脳を貫くような快感に俺は痺れる。これまで味わったことのない圧倒的な美味だった。
その瞬間、俺は理解する。〝暴食の悪魔〟にとって最高の美食の材料とは、自分の同類であるはずの〝災厄〟そのものなのだと。
〝災厄〟が放った魔力の一部を喰っただけで、この美味さだ。
もし〝災厄〟の本体を喰らおうものなら、どれだけの快楽が味わえるのか想像もつかない。
『この炎……そうか、貴様、〝豹頭の悪魔〟か』
黒刀が、黒犬ゼブの声でそう呟いた。
痩身の男子生徒が、その言葉を聞いて青白い顔を醜く歪める。
「〝暴食〟……まさか、その力……あなたはすでに使い魔を手に入れていたのですか!?」
男子生徒が放つ爆炎を、俺の握った黒刀は容赦なく喰い散らした。そのたびに男子生徒が纏っていた炎が勢いを弱め、彼の肉体がボロボロと崩壊していく。
相手が炎を生成する速度よりも、黒刀が炎を捕食する速度のほうが上回っている。そのせいで男子生徒の持つ魔力が凄まじい勢いで目減りして、肉体を維持できなくなったのだ。
『地上に堕とされたばかりの我なら喰えるとでも思ったか? 目の付け所は悪くなかったが、貴様の契約者がその有様ではな!』
黒刀が、嘲るように笑って刀身を震わせる。そのことが男子生徒を激昂させた。
「ベエルゼブブゥゥゥゥ!」
自分自身の〝死体〟をまるで燃料のように燃やして、痩身の男子生徒が突っこんでくる。
それに対する俺たちの反応は冷ややかだった。
相手がすでに死人である以上、手加減する必要はないし、その意味もない。
『〝餌〟が、喋るな──』
黒刀が冷静に言い放ち、俺はその黒刀を横薙ぎに一閃する。
その瞬間、男子生徒が纏っていた炎がすべて消失し、枯れ木が折れるような音を立てながら、両断された彼の肉体は地面に転がったのだった。
11
「これで終わりか?」
完全に動きを止めた男子生徒の死体を見下ろして、俺は黒刀に問いかけた。
〝豹頭の悪魔〟が撒き散らした爆炎は、いまだに第七学区のあちこちで燃え続けている。だが、その火災に不自然さはもう感じない。
今も残っている炎は、ただの火だ。〝暴食の悪魔〟の権能によって、〝災厄〟の痕跡はすでに喰い尽くされてしまったらしい。
しかし俺に握られたままの黒刀は、不満げに刀身を震わせた。
『いや、逃げられた』
「逃げられた?」
『〝豹頭〟め。我が実体化した時点で、勝てぬと悟ったようだな。まさか契約者の肉体を囮にして、本体だけ逃げ延びようとするとはな』
俺の身長の三倍近くまで巨大化していた黒刀が、漆黒の靄を撒き散らしながら縮んで、普通の太刀のサイズへと戻っていった。
それでも俺が感じていた飢餓感は消えない。むしろ空腹を満たすことへの衝動は、こうしている今でも俺の中でジリジリと高まっている。
喰らうのは、もはや〝災厄〟の魔力でなくてもいい。魔物でも人の魔力でもいい。人間そのものですら構わない──心の奥底からわき上がるそんなドス黒い欲望を無理やり抑えつけ、俺は破壊された街並みを見回した。
「こいつは囮か……〝災厄〟の本体はどこに行った?」
『追いかけるつもりなら、無駄だ。放っておけ』
「なんだと?」
『我ら〝災厄〟の本質は精神寄生体だ。〝豹頭の悪魔〟が宿主の肉体を捨てた以上、捕らえるのはまず不可能だと思っていい』
黒刀のやる気のない返答に、俺は黙って顔をしかめた。
実体を持たない精神寄生体。ゆえに彼らは宿主たる契約者を必要とし、宿主の使い魔を介してその恐るべき力を発現する。事前に封印の魔道具なり結界なりを用意していればともかく、完全な精神体となった〝災厄〟を捕獲することはできない、というわけか。
『どのみち契約者を失った〝豹頭の悪魔〟にはもう力はない。我らに手を出すことはできまいよ』
「やつが新しい契約者を手に入れたらどうする?」
『それも無用な心配だ。ここが天環ならともかく、〝災厄〟の器に足る力量の聖属性魔法使いが、そうそう都合よく見つかるとは思えんな』
「それはそうだが……」
俺は黒刀の言葉を渋々と認めた。
ほぼ無尽蔵の聖水を瞬時に生み出し、最上級の回復魔法すら使いこなすアナはもちろん、反魂法という高度な魔法を操る第二十六学区陸戦隊の男子生徒も、生前は強力な聖属性魔法の使い手だったのだろう。
たしかにそのレベルの生徒は滅多にいない。いたとしても、各学区で厳重に保護されている。
その意味では黒刀のいうとおり、〝豹頭の悪魔〟の逆襲を警戒する必要はないのかもしれなかった。
『やつの本体を喰い損ねたのは、いささか残念だがな。ところで、それよりも貴様が心配することはほかにあるのではないか?』
「なに?」
困惑する俺の手の中で、黒刀の姿が不意にぼやけた。
重厚な刀身が黒い粒子となって霧散し、消滅していく。俺とアナの接続が解けて、〝暴食の悪魔〟が封印に戻ったのだ。
黒刀が完全に消えてあとに残ったのは、漆黒の毛並みの愛玩犬が一匹である。
同時に、俺の中で疼いていた飢餓感が噓のように消滅する。
だが、それだけで俺の状態が完全に元に戻ったわけではなかった。
限界を超えて魔力を放出した直後のように、強烈な脱力感が俺の全身を襲ってくる。人間の身でありながら、〝災厄〟の力を扱った代償なのだろう。
それでも魔導弾頭の直撃を防いだときのように、意識をなくさなかっただけでも上出来だといえる。〝災厄〟の力を使うのは二度目ということで、少しは慣れたのかもしれない。
そしてもうひとつ──意外な変化が起きていた。俺自身ではなく、思いがけない人物にだ。
「ハルくん!」
振り返ると俺のすぐ傍に、ナース服を着たアナが立っていた。