聖女と暴食

第三章 オーガベアの火鍋 ⑬

 さすがに乱れていた下着は直しているが、ナース服のむなもとははだけたままである。相変わらずの無防備さだ。

 かぶっていたナースキャップも少しズレて、彼女のけもの耳があらわになっている。


「よかった、無事だったんですね、ハルくん!」

「アナ?」


 勢いよくきついてきたアナの身体からだを、俺はとつに受け止めた。


「んー、ハルくんのにおいです! えへへ……ハルくん……ハルくん!」


 アナが俺の首筋に顔をうずめて、ぐりぐりと鼻先をこすりつけてくる。

 まるでじやな子供のような彼女の仕草に、俺は激しくこんわくする。

 もともときよ感の近い相手ではあったが、さすがにここまで直接的な行動に出るほどではなかったはずだ。


「アナ、悪いが少しはなれてもらえるか。まだやらなければならないことが残ってる」

いやです!」

「……い、いや?」


 想定外の返答に、俺は言葉を失った。まさかきよされるとは思っていなかったのだ。


「だって、ハルくん、してるじゃないですか!」


 そう言って、アナは俺のほおに手をれる。

 たしかにそこには真新しい火傷やけどがあった。〝〟のばくえんがまき散らした火の粉を浴びたのだ。

 もっともたいした火傷やけどではない。放っておいても三日もあればあとすら残さず完治するだろう。


「この程度なら問題ない」

「問題なくありません」


 しかし俺の発言を、アナがきっぱりと否定する。

 そして彼女はいきなりぼうだいりよくをぶち込んだ聖属性ほうを行使した。

 おそらく【大回復】、いや【再生】か。欠損したすら復活させる上級ほうだ。もちろんそんなものが使える生徒は、〝学園〟中を探してもめつにいるものではない。


「おい!?」

れいになりましたね。うん、これならだいじようです」


 俺の火傷やけどしようめつしたのをかくにんして、アナは安心したように口元をゆるめた。

 そして俺のほおかんしよくを確かめるように、自分のほおをすり寄せてくる。


 そこで俺はようやく気づいた。今の彼女はまともな精神状態ではない。明らかになにかのタガが外れて、感情が暴走しているとしか思えない。


『ふむ、なるほど。こう来たか』


 黒犬が、俺にしがみついたままのアナを見上げて興味深そうにつぶやいた。


「なんだ、これは? おまえのせいか、犬コロ?」


 俺は横目で黒犬をにらんでいた。うむ、と黒犬は重々しくうなずいてみせる。


あくの力を使うにはだいしようる。それは貴様も理解していたな?』

「これがそのだいしようだとでも言うつもりか?」

『我のりよくを引き出すためにアナセマが差し出したのは、おのれの自制心だ』

「……自制心?」


 ちがいに思える黒犬の言葉に、俺はげんな表情をかべた。


 伝説のあくは、相手のたましいえに人間の願いをかなえるという。


 しかしアナのけいやく者である〝暴食の悪魔ベエルゼブブ〟が要求したのは、たましいではなかった。彼の言葉を信じるならば、〝さいやく〟の力を使うためにアナは自分の自制心をだいしようとしてささげたということになる。


「すると、なにか? 今のアナは、自制心が完全に欠落している状態ということか?」

『そうなるな。まあ、特に問題はあるまい』

「馬鹿か。問題だらけだろうが!」


 自制心をなくした人間がどうなるか──それは今のアナを見れば明らかだ。


 彼女は幼い子供のように、自分の感情のままに行動している。彼女が本当の子供であれば、それでもよかった。しかし実際のアナはそうではない。


 がらだが均整の取れた体つき。豊かな胸。そして群をいてたんせいな顔立ち。そんな彼女が、俺に密着して甘えてくるのだ。そして彼女の頭には、もはや精神的なきようにも等しいもふもふのけもの耳がついている。彼女の自制心が欠落しているぶん、俺の自制心の負担が激しすぎる。


『今回はふういんの解放時間が短かったからな。長くても二、三十分あれば元にもどるはずだ』

「三十分もこの状態が続くのか!?」


 黒犬の無関心な説明に、俺は顔をしかめた。

 これほどまでにアナに密着されていると、彼女をほどくのは容易ではなかった。もちろんちからくで無理やりがすのは可能だが、アナが完全に俺に体重を預けているせいで、無理にはなすと彼女にを負わせる危険がある。


「ハルくん。ダメです、動かないでください」


 それでも俺が彼女のほうようからそうとしている気配を察したのか、アナはげんそうに両手で俺の顔を固定した。そしてそのまま俺の耳にみついてくる。あまみというやつだ。


「……これはなにをやってるんだ?」

においつけ行動というやつだな』

ねこか!」


 解説を求めた俺に黒犬が答えて、俺は思わず天をあおいだ。


 もともとひとなつこい性格だとは思っていたが、これまでのアナは彼女なりに節度をもって行動していたのだとよくわかる。いくらあくとのけいやくだいしようとはいえ、自制心を失うというのがこれほどやつかいとは想像できなかった。


 そういえば初めて〝暴食〟の力を使って気絶した俺を、アナは勝手にひざまくらしていたのだった。

 今にして思えばあのときの彼女も、自制心をそうしつしていたのかもしれない。そうでなければ、見知らぬ男を、下着をつけていない状態でひざまくらすることなどあり得ないだろう。


 俺がそんなことを考えている間も、アナのにおいつけ行動は続いている。むしろ行動がエスカレートしているようにも感じられる。


 こんなことなら俺もいっそのこと彼女のけもの耳をモフってやろうか──

 俺がいつしゆん、そんな気の迷いにとらわれかけたとき、不意に俺たちの背後から声がした。

 体温を感じさせないかたい声だった。


「あなたたち、なにをやってるの?」


 アナにがっつりとしがみつかれたまま、俺は無理やり身体からだをねじって背後を見た。


 そこに立っていたのは、ティルティだった。

 彼女の身体からだは無傷だが、ボロボロに焼け落ちた服の上に、俺のタクティカルジャケットを羽織っただけのあられもないかつこうだ。


 しかし彼女はそのことを忘れたように、ぼうぜんと目を見開いて俺とアナを見つめている。


「ティルティ……よかった。無事だったみたいだな」


 俺は本心からあんの言葉をらした。


 アナの回復ほうで全快したとはいえ、彼女は〝〟のこうげきそくしてもおかしくないくらいのダメージを負ったのだ。最悪、あのまま意識がもどらない可能性もあったのだから、つうかくせいしただけでもよかったというべきなのだろう。


 まずかったのは意識がもどったタイミングだけだ。


だいじようですか、ティルティさん。もう一度回復ほうかけますか? 完全回復パーフエクトヒール──」

「やめろ」


 ちゆうちよなく最上級の聖属性ほうを行使しようとしたアナを、俺はあわてて制止した。

 自制心をなくしているアナが回復ほうじやされて、むう、と不本意そうにほおふくらませる。


 そしてティルティは、アナにしがみつかれたままの俺を見つめて、ぎゅっと両手を強くにぎりしめた。強くめた彼女のくちびるは、血の気をなくして真っ白になっている。


「わた……私は……ハルといつしよにいたくて……生徒会のしつこう部員になれば、ずっといつしよにいられるとおもってがんって……そしたらいつか私のことも見てくれるんじゃないかって……」

「……ティルティ?」


 なみだごえれに語る幼なじみを、俺はぽかんと間のけた表情で見返した。どうして彼女がこのタイミングで、そんなことを言い始めたのかわからない。


完全回復パーフエクトヒールじゃでしたか!? だったらほうを……それともかいじゆほうのほうが?」


 アナがなぜかあせりながらほうを発動しようとする。

 しかしティルティはしようへきを展開して、アナのほうレジストした。


「だけどやっぱりハルはその子のほうがいいんだ! 学食部にせきしたのも、やっぱりその子のためだったのね!」

「それは……」


 ティルティのきつもんに俺はよどむ。


 俺が学食部にせきしたのは、たしかにアナのためである。だがそれは彼女を放置しておくと第七学区アザレアスが──それどころか〝学園〟すべてがほろぶ可能性があるからだ。


 だからといって、それを生徒会関係者であるティルティに説明するわけにはいかない。そんな俺のちんもくを、ティルティは明後日あさつての方向にかいしやくしたらしい。


「ハルのバカあああああああ──っ!」


 ティルティはそうぜつきようすると、ほうの形になる前のりよくかたまりしようげきのように放出した。そして俺たちに背中を向けると、しようと化した街へと走り去って行く。


 俺はティルティの後ろ姿を、無言のままぼうぜんと見送った。彼女がおこっている理由がわからなかったせいで、反応することができなかったのだ。


「あ……あの……わたしはいったいなにを……」


 そしてちんもくする俺のとなりでは、アナが青ざめた顔でふるえていた。どうやら〝暴食〟のいけにえとしてうばわれていた自制心が復活したらしい。


 そんなアナを見下ろして、俺は深々とためいきをついたのだった。