さすがに乱れていた下着は直しているが、ナース服の胸元ははだけたままである。相変わらずの無防備さだ。
被っていたナースキャップも少しズレて、彼女の獣耳が露わになっている。
「よかった、無事だったんですね、ハルくん!」
「アナ?」
勢いよく抱きついてきたアナの身体を、俺は咄嗟に受け止めた。
「んー、ハルくんの匂いです! えへへ……ハルくん……ハルくん!」
アナが俺の首筋に顔を埋めて、ぐりぐりと鼻先を擦りつけてくる。
まるで無邪気な子供のような彼女の仕草に、俺は激しく困惑する。
もともと距離感の近い相手ではあったが、さすがにここまで直接的な行動に出るほどではなかったはずだ。
「アナ、悪いが少し離れてもらえるか。まだやらなければならないことが残ってる」
「嫌です!」
「……い、嫌?」
想定外の返答に、俺は言葉を失った。まさか拒否されるとは思っていなかったのだ。
「だって、ハルくん、怪我してるじゃないですか!」
そう言って、アナは俺の頰に手を触れる。
たしかにそこには真新しい火傷があった。〝豹頭の悪魔〟の爆炎がまき散らした火の粉を浴びたのだ。
もっともたいした火傷ではない。放っておいても三日もあれば跡すら残さず完治するだろう。
「この程度なら問題ない」
「問題なくありません」
しかし俺の発言を、アナがきっぱりと否定する。
そして彼女はいきなり膨大な魔力をぶち込んだ聖属性魔法を行使した。
おそらく【大回復】、いや【再生】か。欠損した四肢すら復活させる上級魔法だ。もちろんそんなものが使える生徒は、〝学園〟中を探しても滅多にいるものではない。
「おい!?」
「綺麗になりましたね。うん、これなら大丈夫です」
俺の火傷が消滅したのを確認して、アナは安心したように口元を緩めた。
そして俺の頰の感触を確かめるように、自分の頰をすり寄せてくる。
そこで俺はようやく気づいた。今の彼女はまともな精神状態ではない。明らかになにかのタガが外れて、感情が暴走しているとしか思えない。
『ふむ、なるほど。こう来たか』
黒犬が、俺にしがみついたままのアナを見上げて興味深そうに呟いた。
「なんだ、これは? おまえのせいか、犬コロ?」
俺は横目で黒犬を睨んで訊いた。うむ、と黒犬は重々しくうなずいてみせる。
『悪魔の力を使うには代償が要る。それは貴様も理解していたな?』
「これがその代償だとでも言うつもりか?」
『我の魔力を引き出すためにアナセマが差し出したのは、己の自制心だ』
「……自制心?」
場違いに思える黒犬の言葉に、俺は怪訝な表情を浮かべた。
伝説の悪魔は、相手の魂と引き換えに人間の願いを叶えるという。
しかしアナの契約者である〝暴食の悪魔〟が要求したのは、魂ではなかった。彼の言葉を信じるならば、〝災厄〟の力を使うためにアナは自分の自制心を代償として捧げたということになる。
「すると、なにか? 今のアナは、自制心が完全に欠落している状態ということか?」
『そうなるな。まあ、特に問題はあるまい』
「馬鹿か。問題だらけだろうが!」
自制心をなくした人間がどうなるか──それは今のアナを見れば明らかだ。
彼女は幼い子供のように、自分の感情のままに行動している。彼女が本当の子供であれば、それでもよかった。しかし実際のアナはそうではない。
小柄だが均整の取れた体つき。豊かな胸。そして群を抜いて端整な顔立ち。そんな彼女が、俺に密着して甘えてくるのだ。そして彼女の頭には、もはや精神的な凶器にも等しいもふもふの獣耳がついている。彼女の自制心が欠落しているぶん、俺の自制心の負担が激しすぎる。
『今回は封印の解放時間が短かったからな。長くても二、三十分あれば元に戻るはずだ』
「三十分もこの状態が続くのか!?」
黒犬の無関心な説明に、俺は顔をしかめた。
これほどまでにアナに密着されていると、彼女を振り解くのは容易ではなかった。もちろん力尽くで無理やり引き剝がすのは可能だが、アナが完全に俺に体重を預けているせいで、無理に突き放すと彼女に怪我を負わせる危険がある。
「ハルくん。ダメです、動かないでください」
それでも俺が彼女の抱擁から抜け出そうとしている気配を察したのか、アナは不機嫌そうに両手で俺の顔を固定した。そしてそのまま俺の耳に嚙みついてくる。甘嚙みというやつだ。
「……これはなにをやってるんだ?」
『匂いつけ行動というやつだな』
「猫か!」
解説を求めた俺に黒犬が答えて、俺は思わず天を仰いだ。
もともと人懐こい性格だとは思っていたが、これまでのアナは彼女なりに節度をもって行動していたのだとよくわかる。いくら悪魔との契約の代償とはいえ、自制心を失うというのがこれほど厄介とは想像できなかった。
そういえば初めて〝暴食〟の力を使って気絶した俺を、アナは勝手に膝枕していたのだった。
今にして思えばあのときの彼女も、自制心を喪失していたのかもしれない。そうでなければ、見知らぬ男を、下着をつけていない状態で膝枕することなどあり得ないだろう。
俺がそんなことを考えている間も、アナの匂いつけ行動は続いている。むしろ行動がエスカレートしているようにも感じられる。
こんなことなら俺もいっそのこと彼女の獣耳をモフってやろうか──
俺が一瞬、そんな気の迷いに囚われかけたとき、不意に俺たちの背後から声がした。
体温を感じさせない硬い声だった。
「あなたたち、なにをやってるの?」
アナにがっつりとしがみつかれたまま、俺は無理やり身体をねじって背後を見た。
そこに立っていたのは、ティルティだった。
彼女の身体は無傷だが、ボロボロに焼け落ちた服の上に、俺のタクティカルジャケットを羽織っただけのあられもない恰好だ。
しかし彼女はそのことを忘れたように、呆然と目を見開いて俺とアナを見つめている。
「ティルティ……よかった。無事だったみたいだな」
俺は本心から安堵の言葉を洩らした。
アナの回復魔法で全快したとはいえ、彼女は〝豹頭の悪魔〟の攻撃で即死してもおかしくないくらいのダメージを負ったのだ。最悪、あのまま意識が戻らない可能性もあったのだから、普通に覚醒しただけでもよかったというべきなのだろう。
まずかったのは意識が戻ったタイミングだけだ。
「大丈夫ですか、ティルティさん。もう一度回復魔法かけますか? 完全回復──」
「やめろ」
躊躇なく最上級の聖属性魔法を行使しようとしたアナを、俺は慌てて制止した。
自制心をなくしているアナが回復魔法を邪魔されて、むう、と不本意そうに頰を膨らませる。
そしてティルティは、アナにしがみつかれたままの俺を見つめて、ぎゅっと両手を強く握りしめた。強く嚙み締めた彼女の唇は、血の気をなくして真っ白になっている。
「わた……私は……ハルと一緒にいたくて……生徒会の執行部員になれば、ずっと一緒にいられるとおもって頑張って……そしたらいつか私のことも見てくれるんじゃないかって……」
「……ティルティ?」
涙声で途切れ途切れに語る幼なじみを、俺はぽかんと間の抜けた表情で見返した。どうして彼女がこのタイミングで、そんなことを言い始めたのかわからない。
「完全回復じゃ駄目でしたか!? だったら治癒魔法を……それとも解呪魔法のほうが?」
アナがなぜか焦りながら魔法を発動しようとする。
しかしティルティは障壁を展開して、アナの魔法に抵抗した。
「だけどやっぱりハルはその子のほうがいいんだ! 学食部に移籍したのも、やっぱりその子のためだったのね!」
「それは……」
ティルティの詰問に俺は言い淀む。
俺が学食部に移籍したのは、たしかにアナのためである。だがそれは彼女を放置しておくと第七学区が──それどころか〝学園〟すべてが滅ぶ可能性があるからだ。
だからといって、それを生徒会関係者であるティルティに説明するわけにはいかない。そんな俺の沈黙を、ティルティは明後日の方向に解釈したらしい。
「ハルのバカあああああああ──っ!」
ティルティはそう絶叫すると、魔法の形になる前の魔力の塊を衝撃波のように放出した。そして俺たちに背中を向けると、焦土と化した街へと走り去って行く。
俺はティルティの後ろ姿を、無言のまま呆然と見送った。彼女が怒っている理由がわからなかったせいで、反応することができなかったのだ。
「あ……あの……わたしはいったいなにを……」
そして沈黙する俺の隣では、アナが青ざめた顔で震えていた。どうやら〝暴食〟の生贄として奪われていた自制心が復活したらしい。
そんなアナを見下ろして、俺は深々と溜息をついたのだった。