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「うう……ひっく……ぐすっ……」
今もうっすらと白煙が立ちこめる火災の焼け跡に、女子生徒の啜り泣く声が響いている。
半壊したビルの片隅にうずくまり、たった一人でグズグズと泣いているのはティルティだった。
「ハルのアホぉ……ボケナス……アンポンタン……」
俯いたままのティルティの口から恨み言が洩れる。
激しい戦いの直後、互いの無事を喜ぶように仲睦まじく抱き合うハルとアナの姿が、ティルティの脳裏から離れない。
二人の仲がいいことはわかっていた。それは、これまでどんな美人から言い寄られても迷惑そうに拒絶していたあのハルが、過保護なまでにアナの面倒を見ていたことからも明らかだ。
だからといって、ハルが彼女と本気でつき合っているとは思っていなかった。
本当はただ、そう思いたくなかっただけなのかもしれない。
アナはとても可愛らしい少女だ。
小柄で華奢で、壊れ物のように儚い雰囲気で、いかにも女の子らしい魅力に溢れている。
性格だって悪くない。やや天然気味な言動が目につくが、人懐こいし、誰にでも分け隔てなく優しく接している。
それによく働く。加えてあの聖属性魔法の圧倒的な才能だ。
顔はもちろん抜群に可愛い。
黙っていれば人形のように端整だが、微笑むと少し幼い雰囲気になる。あのギャップは凶悪だ。
おまけに胸もでかい。ティルティなど足元にも及ばない。
容姿にはそれなりに自信のあったティルティだが、アナに会ってそれが自惚れだったと思い知らされた。
アナなら、ハルと並んでもまったく見劣りしない。美男美女でお似合いのカップルだ。
その事実が、ティルティの心を打ちのめす。
どうしてこんなことになってしまったのか、その理由がティルティにはわかっていた。
ティルティはどこかで油断していたのだ。ハルが自分以外の誰のものにもならないと、心のどこかで勝手に決めつけていた。なぜなら、これまでずっとそうだったからだ。
ハルは幼いころから異様にモテた。顔がよく、成績も優秀で、圧倒的に強かったからだ。
しかしそのせいで、ハルは相当に嫌な思いをしたらしい。知らない女子につきまとわれたり、勝手な噂を流されたり。逆恨みで刺されそうになったこともある。
結果的に、ハルは女子に対して距離を置き、極めて事務的に接するようになった。あの男が女嫌いの朴念仁になったのは、そういう長年の積み重ねがあってのことだ。
そんな中でティルティとハルの距離が近いのは、ティルティの魔法技能をハルが認めているからだ。彼はティルティを頼りになる友人──対等に仕事ができる同僚として見ているのだ。
ティルティはそのことに不満を感じていなかった。むしろ優越感すら覚えていた。
自分はほかの第七学区の女子とは違うのだと。そう。ハルがアナと出会うまでは。
そんなティルティの慢心を、あの他学区からの転入生はあっさりと打ち砕いた。
ハルに顔をこすりつけて、甘えていた彼女のことを思い出す。ハルが今まであんなふうに誰かを自分に近寄らせたことはなかった。
親しい恋人同士というよりも飼い主とペットのような距離感に思えたが、それすらも二人の親密さの表れだったのかもしれない。
それを目にしたティルティは、なにも出来ないまま逃げたのだ。
そして誰もいない廃墟に隠れて、こんなふうに一人で泣き崩れている。あまりの情けなさに、笑えてくる。しかしティルティには、ほかにどうすればいいのかわからない。
「ハル……」
ティルティが羽織っているジャケットからは、ハルの匂いがした。その襟元に顔をうずめて、ティルティは強く唇を嚙み締める。
ジャケットの下の制服はボロボロに焼け落ちて、下着までもほぼ原形を留めていない。だが、その下の肌は無傷だった。正確には、瀕死の重傷を負ったティルティを、アナが聖属性魔法で再生してくれたらしい。
好きな男子を奪われただけでなく、その相手に命を救われた。これほどまでに惨めな状況があるだろうか──
ふふ、とティルティは自嘲するような虚ろな笑い声を洩らした。
その背後で、なにかが動く気配があった。
「誰……!?」
攻撃的な魔法の構成をいくつか思い浮かべながら、ティルティは振り返る。
積み重なった瓦礫がパラパラと崩れ、その下でなにかが動いていた。
半壊した壁の隙間から、小さな四足獣が這いずるようにして現れる。
「……猫?」
ティルティの視線に気づいた猫が、弱々しく震えた。
薄汚れた白い猫だった。第七学区に棲み着いていた野良猫だろうか。火災に巻きこまれて傷ついたのか、純白の毛並みは血塗れだ。
「あなた……怪我をしてるの? ひどい傷……ちょっと待ってて」
ティルティは、その薄汚れた子猫に近づいて抱き上げた。
ボロボロに傷ついた猫の姿が、今の自分と重なってなんとなく見捨てておけなかった。
「動かないでね」
震える子猫を抱きしめたまま、ティルティは魔法を発動する。聖属性の回復魔法だ。
全属性の魔法に適性を持つティルティは、当然、聖属性の魔法も使える。
使う機会はあまり多くはないが、ティルティが最初に覚えたのも回復魔法だった。まだ幼いころ、怪我をしたハルを治したくて必死に発動させたのだ。
「よしよし。もう大丈夫よ」
聖属性魔法の光に包まれた猫の傷が消え、ぐったりとしていた身体に力が戻ってくる。
ティルティはついでに聖水も生成して、薄汚れた身体も洗ってあげた。
濡れた身体を風属性魔法で乾かすティルティを、猫はジッと見つめている。泣き腫らしたティルティを、心配しているような表情だ。
「もしかして、気遣ってくれてるの? 大丈夫よ、私は怪我をしてるわけじゃないから」
ティルティはそう言って弱々しく微笑んだ。
自分が素直な性格ではないことを自覚しているティルティだが、相手が猫なら強がる理由も、本心を取り繕う必要もない。
「ずっと好きだった男の子を、ほかの子に奪られそうになって落ちこんでるだけ。うちの学区の生徒会長にも、彼を連れ戻せって言われてたのにね……」
こみ上げてくる悲しみを圧し殺して、ティルティは淡々と呟いた。
汚れが落ちて白くなった猫が、なにかを訴えるように小さく鳴いた。不思議なことにティルティは、その猫の言葉が理解できるような気がした。
「──え? 奪られたのなら、奪り返せばいい? それはそうなんだけど、それは難しいかな。本人の気持ちもあるからね」
なぜ自分は猫を相手に真面目に説明しているのか。そんな疑問を覚えつつも、ティルティは言葉を続ける。そうしなければいけないような気がしたからだ。
「それに相手はすごく可愛い子なのよね。美少女で胸が大きくて性格もよくて、あざとい獣の耳もあって……」
『獣の耳……ですか……』
ティルティの話を聞いていた猫が、不意に口を開いてそう言った。
そのことをティルティは疑問に思わなかった。誰かの使い魔でもないただの猫が人の言葉を喋るという異常事態が、まるで当然のことのように感じられる。
『もしやその娘は、聖属性魔法の使い手ですか?』
「え? ええ、そうだけど……」
『犬を連れていませんでしたか?』
「へ? 犬?」
『ええ。闇のような黒い毛並みの犬です』
「連れてたけど……それより、あなた、なんで人間の言葉を喋って……?」
ぼんやりと霞がかかったような思考の中で、ティルティはようやく違和感を覚えて訊き返す。
しかし白猫は構わず質問を続けた。
『その娘の名前、もしやアナセマでは?』
「どうして知ってるの?」
ティルティは驚きに目を剝いた。白猫に対する警戒心が今ごろになってこみ上げてきたが、だからといって相手の言葉を無視することもできなかった。
なぜなら白猫は、憎悪に満ちた口調でこう続けたからだ。
『その娘は、魔女です。ただの人間ではありません』
「は? 魔女?」
『ええ、〝災厄〟の化身、〝暴食の悪魔〟と契約した魔女──あなたの想い人の心を奪ったのも、もしかしたら〝災厄〟の力を使ったのかもしれませんね』
「アナさんが、魔女……」