ティルティは白猫を見返して弱々しく呻いた。
欠けていたパズルのピースが嵌まったように、様々な疑問が解けていく。
アナセマ。忌まわしきものという名前を持つ少女。
彼女はいったいどこから来たのか。いつの間にハルと親しくなったのか。どうしてハルはあれほどまでに彼女のことを気にかけているのか。彼女の正体はなんなのか──
「もしかして、ハルは誑かされてるの? 魔女に?」
『その娘が本当にアナセマならば、ほぼ間違いなく』
白猫がきっぱりと言い切った。
魔女というのが、どういう存在なのかはわからない。しかしハルを騙して危害を加えようとしているのなら、彼女は敵だ。ティルティにとっても、第七学区にとっても。
「どうすればハルを救えるの?」
『簡単なことです。魔女を滅ぼせばいい』
「無理よ」
『なぜ?』
「アナさんのことは、ハルが守ってるもの。不意打ちでも、たぶん無理」
ティルティは、ぎり、と奥歯を鳴らした。
戦闘職の生徒としてのハルの強さは、ティルティが誰よりもよく知っている。まともに正面から戦えば当然勝ち目はないし、護衛としての彼の目を盗んでアナを暗殺できるとも思えない。
実際、ハルは学食部にいる間も、さりげなくアナの周囲を監視していた。まるで王女を護衛する忠実な騎士のように、彼はアナを見守り続けていたのだ。
『ならば、私が力を貸しましょう』
ティルティの迷いを見透かしたように、白猫が甘い言葉で誘惑する。
「力を貸す……って、私に? あなたが?」
『然様。我が名は、〝豹頭の悪魔〟──炎の力を操る〝災厄〟です』
「〝災厄〟? 旧文明を滅ぼした魔導兵器の? あなたも〝災厄〟だというの?」
不敵に笑う白猫を見つめて、ティルティは声を震わせた。
白猫のちっぽけな肉体から感じる魔力は微々たるもので、〝災厄〟の名に相応しい存在感も威圧感も感じない。だが、その雰囲気は、アナがいつも連れている黒犬のものによく似ていた。
あの黒犬の正体が〝暴食の悪魔〟だとしたら、この白猫があれと同等の存在だという理屈にも納得できる。
『アナセマと契約した〝暴食の悪魔〟も、私と同じ〝災厄〟の一体です。同じ〝災厄〟の力を使わなければ、魔女は倒せません』
説明を続ける白猫の言葉に、ティルティは小さくうなずいた。
「ハルは、本当にアナさんに誑かされているの?」
『それはあなたのほうがよくご存じなのでは?』
揶揄うような口調で白猫に聞かれて、ティルティはぎゅっと唇を嚙む。
「あなたの力があれば、アナさんに勝てる?」
『それがあなたの望みならば、叶えましょう。美しい人よ、私と契約しますか?』
白猫が、人間臭く目を細めて笑う。
その問いかけに、ティルティは迷わなかった。
魔女に奪われたハルを取り戻すためなら、魂と引き換えにしても構わない──
「いいわ、〝豹頭の悪魔〟──私に力を貸しなさい」
『契約は成立です』
白猫が満足そうにうなずいた。そして次の瞬間、その姿は細かな粒子となって虚空に溶けこみ、跡形もなく消え去ったのだった。
2
「ハル様を取り調べですって!?」
第七学区の大通りで大火災が発生したその翌日、学食部の店舗である食堂〝躑躅亭〟では、ちょっとした騒ぎが起きていた。
店を訪れた生徒会の執行部員を、女子生徒たちの集団が取り囲んでつるし上げていたのだ。
「ふざけないでくださいませ! ハル様は私たちの命の恩人なのです! あの猛火の中、自分の安全を顧みず、私たちを助けに来てくださったんですのよ!」
「そうですわ! 元はといえば、あなた方、治安委員会が無能だからハル様の手を煩わすことになったのでしょう!?」
その時間、店にいた女子の客は十四、五人ほど。そのほとんどが、執行部隊時代からの俺のファン──いわゆる追っかけと呼ばれている連中だった。
働いている俺を見るために、わざわざ学食の如何物料理を食べに来たという奇特な女子生徒たちだ。
そして問題の生徒会執行部員は愚かにも、そんな彼女たちの前で、俺を取り調べに来たなどとうっかり口走ってしまった。そのことが彼女たちの怒りを買ったのだ。
「そ、それはわかってます。だから我々は、その件についてタカトーくんに事情聴取を……」
「は!?」
「ハル様を呼び出して事情聴取なんて、何様のつもりですの!?」
「生徒会に抗議しますわ! あなた、無事に卒業できると思わないでくださいませ!」
「で、ですが……」
真面目そうな男子の執行部員が、女子生徒たちに詰め寄られて泣きそうな顔になっている。
放火犯と思われる容疑者を倒した俺が事情を聴かれるのは、ある意味当然のことなのだが、そこに至るまでの手続きのやり方が気に入らない、というのが女子生徒たちの主張らしい。
俺としては、執行部員の立場もわかるし、べつになにかが不満というわけではない。
しかし昨夜の火災に〝災厄〟が絡んでいる以上、できれば生徒会とは話をしたくない。
なので執行部が女子生徒たちの圧力に負けて、取り調べがうやむやになってくれればいいという仄かな期待があった。それがこの騒ぎを俺が放置している理由だ。
もちろんあの騒々しい女子生徒たちに関わりたくないという気持ちもある。
とはいえ、さすがにこのまま騒ぎが大きくなるのは、それはそれで問題だろう。そろそろ止めるか──と、介入するタイミングを俺が見計らっていると、不意に声をかけられた。
「やれやれ。きみの周りは相変わらず賑やかだね、ハル」
「ヒオウ……」
振り返った俺のすぐ傍で、長身の男子生徒がにこやかに笑っていた。
特殊執行部隊第二小隊隊長のヒオウ・レイセイン。
やや軽薄そうな印象はあるが、おとぎ話の王子様を連想させる美形である。もっとも優しげな見た目とは裏腹に、この男がえげつない戦闘能力の持ち主であることを俺はよく知っている。
「ヒ、ヒオウ様?」
「ヒオウ様がハル様と一緒に……」
「なんて尊い……」
執行部員を追い詰めていた女子生徒たちも、ヒオウの存在に気づいたらしい。躑躅亭の店内に、静かなざわめきが広がっていく。
そしてヒオウは、動揺する女子生徒たちの隙間をすり抜けるようにして執行部員の男子に近づくと、彼の肩に優しく手を置いた。
「きみ、代わろう。ハルの事情聴取は僕がやっておく。特殊執行部隊としても、ハルに聞きたいことがいろいろあるからね」
「レイセインくん……」
ヒオウの申し出を聞いた男子生徒は、地獄で仏に会ったとばかりに一も二もなくそれを受け入れた。そして逃げるようにその場から立ち去っていく。
執行部員を責めていた女子生徒たちも、ヒオウが俺の取り調べをするぶんには文句はないらしい。彼女たちは大人しく自分の席に戻って、俺とヒオウの様子を遠巻きに眺めている。
俺はうんざりと息を吐きながら、ヒオウを目立たない奥の席へと案内した。
「これが学食部の店か。雰囲気のあるいい店だね。おすすめのメニューはなんだい?」
躑躅亭の店内を物めずらしそうに見回しながら、ヒオウが俺に訊いてくる。
「営業時間外だ。食事がしたければよそに行け」
「つれないな。面倒な事情聴取の手間を省いてやったのに」
俺の冷淡な対応にも表情を変えずに、ヒオウは恩着せがましくそう言った。
その言葉は事実だったので、俺は反論できずに肩をすくめる。
「あー……それについては感謝する」
「構わないよ。きみの気まぐれの尻拭いには慣れてるからね」
ヒオウはさらりと皮肉を口にするが、俺は黙ってうなずいた。
俺が唐突に特殊執行部隊第一小隊の隊長を辞めたことで、誰よりも迷惑を被ったのは間違いなく第二小隊隊長のこの男だ。これくらいの嫌味を言われても仕方がない。むしろ殴られても文句が言えないところだ。
「飲み物をお持ちしました。コーヒーですけど、よかったですか?」
気まずい沈黙を続ける俺の代わりに、ヒオウに呼びかけたのはアナだった。
エプロンドレス姿の彼女は、気を利かせてヒオウと俺にコーヒーを運んできたらしい。
「やあ、ありがとう。また会ったね、アナさん」
ヒオウはアナを見上げて、朗らかに笑った。
アナが第七学区にやってくる直前、たった一度会っただけの彼女の顔と名前を、ヒオウはしっかりと覚えていたらしい。
「どう? 第七学区にはもう慣れた?」
「はい。ここはご飯がとても美味しいです」
ヒオウの前にコーヒーカップを置きながら、アナは嬉しそうにそう答えた。
期待していた返事とは違っていたはずだが、ヒオウはそれをおくびにも出さずに愛想良くうなずく。