『小童、我とアナセマの契約の内容は覚えているだろうな』
いつもの余裕めかした態度が消し飛んだ黒犬が、低く唸りながら俺を睨んでくる。美味いものを喰わせなければ、封印を破って暴れてやると俺を脅しているのだ。
実体を持たない精神寄生体のくせに、相変わらずの意地汚さである。
「心配しなくても、第七学区の生徒会が動いてる。今稼働している輸送船には、特殊執行部隊が護衛につくそうだ」
俺はうんざりしながら黒犬に説明した。
特殊執行部隊は、第七学区生徒会が動かせる最大の戦力だ。各隊員は単独でもB級下位の魔物を撃破できるし、小隊単位ならA級の魔物とも互角にやり合える。第一小隊の隊長だった俺が抜けたのが不安材料だが、それでも百匹程度の魔物が相手ならどうにかなるだろう。
『だが、そうやって取り寄せた間に合わせの食材で、我を満足させる食事が作れるのか?』
黒犬が、疑り深い口調で俺に尋ねてくる。
べつにおまえを満足させるために食材を取り寄せたわけではないんだが、と俺が思わず本音を洩らしそうになったとき、リュシエラが我が意を得たりといわんばかりにポンと手を打った。
「使い魔ちゃんの言うとおりだね。どのみち生徒会が配給する食料だけじゃ、躑躅亭のお客さんの期待に応えられる料理は作れない──というわけで、食材が足りなきゃ、自力で調達するしかないね」
そう言って不敵に微笑みながら、彼女は、その場にいた部員たちの顔を見回す。
ミネオラが、仕方ないな、と肩をすくめ、
「……どうせ店も休みだし……」
「久々に狩りに行っちゃいますか」
マコットはやれやれと首を振りつつ立ち上がって、力強く拳を突き上げるのだった。
4
銀色に輝く月の光が、引き裂かれた壁の隙間から傾いた船室に射しこんでくる。
砂の大地に横たわるように埋もれた船の船室で、ティルティは、両脚を投げ出すようにして鋼鉄製の壁にもたれていた。
「はぁ……はぁ……」
唾液に濡れた唇の隙間から、息が洩れる。
ティルティが身に着けているのは、男物のタクティカルジャケットだけ。制服はもちろん、シャツや下着すら身に着けていない。
両脚の付け根に手を伸ばし、湿った谷間に指を這わせる。溢れ出した蜜が指先を濡らす。
やがてティルティの身体が小さく震え、反り返った背中からゆっくりと力が抜けた。
それからしばらくの間、船室に響いていたのは、ティルティ自身の荒い呼吸音だけだった。
「……ハル……切ないよ、ハル……」
ジャケットの襟元に顔を埋め、消え残る匂いを嗅ぎながらティルティは独りごちる。
だが、その呼びかけに応える者はいない。
ティルティがいるのは、第七学区から百キロ以上も離れた荒野のド真ん中。魔物の群れに襲われて座礁した、食料輸送船の中なのだ。
船といっても海上ではなく、魔導技術によって浮上して地上を航行する魔導船である。
荷室に満載されていた食料はもう残っていない。船を襲撃してきた魔物たちによって大半は喰われ、あるいは焼き尽くされたのだ。
それでも船員用の缶詰や非常食などは残っている。
魔力を流してやれば、シャワーだって使える。ティルティ一人が一週間ばかり生活するには、それなりに快適な環境だ。
そして船を襲撃した魔物たちが戻ってきて、ティルティを襲う心配もなかった。
なぜなら彼らはティルティが契約した〝豹頭の悪魔〟の支配下にあるからだ。魔物を欺き、支配すること──それが炎を操る〝豹頭の悪魔〟の、もうひとつの権能なのだ。彼はその権能を使って、アンデッド化した第二十六学区陸戦隊の生徒たちを操っていたらしい。
ただし、その支配力はあまり強力なものではない。〝豹頭の悪魔〟が言うには、詐術に近い性質の能力なのだそうだ。
攻撃対象を指示したり、大雑把な命令を与えることはできるが、思いどおりに操ったり、魔物の本能に逆らうような行動を強制することは不可能だという。
そのぶん効果範囲は広く、ほとんど魔力を消費することなく、一度に千体を超える魔物を操ることができる。
それに、複雑な命令はできなくても、生徒を殺すなという程度の指示に従わせることは可能だった。ティルティにとってはそれで充分だ。
魔物たちに食料輸送船を襲わせたのは、それが〝暴食の悪魔〟と魔女を誘き寄せるのにもっとも効果的だと〝豹頭の悪魔〟に言われたからだ。
第七学区に恨みがあるわけでも、第七学区の生徒を殺したかったわけでもない。ティルティが第七学区を離れて、座礁船の中で生活しているのも、無関係の生徒を巻きこまないためなのだった。
「っ……!」
長い一人遊びを終えてシャワーを浴びていたティルティは、ほかの誰かの視線を感じて、裸のまま振り返る。
月明かりの下、窓辺に立っていたのは純白の小さな猫だった。
闇の中で、大きな瞳だけが不自然に赤く輝いている。強い魔力の輝きだ。
「覗き見なんて趣味が悪いわよ、フラウロス」
『済まないね、マイ・レディ。急ぎの用だ』
白猫が、気取った口調でティルティに答える。
「また新しい輸送船でも見つけた?」
『そうだね。今度は同じ航路に時間差で二隻だよ。ご丁寧に第六学区の輸送船に偽装するという念の入れようだ』
「懲りないわね、購買部も」
ティルティが呆れたように小さく失笑した。
魔物の群れが第七学区の輸送船だけを狙うと知って、わざわざ船を塗り直したらしい。無意味だが、その努力だけは評価するべきなのだろう。
『おまけに船には護衛がついているらしい。おそらくきみが特殊執行部隊と呼んでいた連中だ』
「さすがね、生徒会長。対応が早い……」
今度はティルティも真顔になって呟いた。
特殊執行部隊は、第七学区の生徒会が保有する最強の手札だ。ユミリ・アトタイルは出し惜しみすることなく、いきなりそれを切ってきた。
脅威度がB級上位にも満たない魔物たちでは、たとえ百体いても彼らには歯が立たないだろう。
だがそれは、ティルティが望んだ展開ではない。アナと〝暴食の悪魔〟を誘き出すためにも、第七学区には餓えてもらわなければ困るのだ。
「いいわ、それならこちらも相応のお持てなしを用意しないとね」
ティルティは濡れたままの裸の胸に、自分の右手を押し当てた。
やや慎ましやかな胸の膨らみの狭間、心臓の上に描かれた魔法陣が浮き上がり、人間のものではあり得ない濃密な魔力が噴き上がる。
やがてその魔力の塊は、一振りの杖の形になった。ティルティの身長よりもやや長い、美しく装飾された純白の宝杖だ。
ティルティはその杖を掲げて目を閉じる。宝杖を通して放たれたのは、音に喩えるなら獣の遠吠えを思わせる奇怪な魔力の波動だった。〝災厄〟の力だ。
禍々しい圧力を持ったその波動を、ティルティは精緻に織り上げて全方位へと送り出す。
ティルティが発動したのは支配の魔法。魔獣を扇動し操作する、〝豹頭の悪魔〟の権能だ。
第七学区が輸送船の護衛戦力を増強したのなら、それを上回る戦力をぶつければいい。より多くの魔物たちを。そしてより強力な魔物たちを。
死人を契約者にしていたころに比べれば、今の〝豹頭の悪魔〟の力は飛躍的に増している。
なによりティルティの魔法制御能力は、〝豹頭の悪魔〟の目から見ても卓越したものだった。