桃色髪の少女はニヤリと笑って、腰につけていた二本の短剣を抜いた。
透き通った刃を持ち、機械式時計を思わせる無数の歯車を柄と鞘に埋めこんだ魔法の発動体だ。
「三分でよければ」
「充分だ」
俺はリュシエラの言葉にうなずき、アナのほうへと駆け出した。
それに気づいた〝豹頭の悪魔〟が、わかりやすい殺気をぶつけてくる。
「どこに行くつもりです、使い魔!」
ティルティの身体を借りた〝災厄〟が、俺の背中に攻撃魔法を放とうとした。
だがその魔法が発動する前に、リュシエラがティルティの身体を蹴り飛ばす。
「きみの相手は、私だよ」
「この私を相手に、ただの人間がなにを──」
吹き飛ばされて地面に転がった〝豹頭の悪魔〟が、目を血走らせてリュシエラを睨んだ。〝豹頭の悪魔〟が彼女に気を取られている間に、俺はアナとの合流に成功する。
「ハルくん!」
「無事だったようだな、アナ」
「はい。部長さんが助けてくれたので。ハルくんも無事でよかったです」
獣耳を揺らしながら駆け寄ってきたアナを、俺は安堵の息を吐きつつ見下ろした。
「ティルティを〝豹頭の悪魔〟から無傷で解放したい。できるか?」
「無傷で解放……無傷で解放……」
リュシエラと戦っているティルティを見つめて、アナは少し考えこむような仕草をした。
「そうですね。ゼブくんが協力してくれるなら、たぶん大丈夫だと思います」
「こいつが?」
アナの返事に、俺は戸惑う。〝災厄〟の悪魔の一員であるこの黒犬が、ティルティを救うために手を貸してくれるとは思えなかったからだ。
しかしアナは俺の肩にしがみついている黒犬に、いつになく真剣な口調で告げる。
「はい。ゼブくんが食べ過ぎにだけ気をつけてくれれば」
『くく……なるほど、そういうことか。面白い』
命令とも言えないようなアナの命令を聞いて、黒犬は心底愉快そうに笑い出した。アナが考えた策略は、なぜか黒犬のツボにはまったらしい。
『いいだろう。たまには、こういう料理の趣向も悪くない。小童、今回だけは特別に我が力を貸してやろう。もちろん相応の代価はいただくが、感謝するのだな』
「そういう台詞は役に立ってから言え、犬コロ」
俺は不機嫌な声で吐き捨てる。
実に腹立たしい話だが、〝豹頭の悪魔〟に対抗するために、この黒犬の力が必要なのも事実なのだ。
そして封印された〝暴食の悪魔〟の力を引き出すためには、例のふざけた儀式が待っている。だが、今さらそれを躊躇っている暇はない。
「力を貸してもらうぞ、アナ」
俺は、魔女と呼ばれた天人の少女を見つめて言う。
「はい!」
アナは俺を見て微笑むと、制服のケープを乱暴に脱ぎ去った。
続いて制服の胸元のボタンを外し、胸の谷間を露わにする。
そして頰を赤らめながら俺を見上げて、俺の右手を自分の胸元へと押しつけた。
「はい。召し上がれ──」
次の瞬間、俺の意識は凄まじい餓えと攻撃性に支配された。
それと同時に、破壊的な魔力を秘めた黒い野太刀が、俺の手の中に出現したのだった。
8
ティルティの肉体を奪った〝豹頭の悪魔〟と、リュシエラの戦闘は続いていた。
といっても、まともな戦いにはなっていない。
そもそもリュシエラは本気で〝豹頭の悪魔〟と戦おうとはしていなかった。
ただのらりくらりと相手の攻撃をかわして、一方的に挑発しているだけだ。
「時間を操る権能ですか──」
リュシエラの固有能力に気づいた〝豹頭の悪魔〟が、軽く息を弾ませながら立ち止まる。
時間操作系の固有能力はどれも強力だが、リュシエラが使っていたのは、シンプルな〝加速〟と〝減速〟だけだった。自分の移動速度を加速し、相手の攻撃を減速する。それによって彼女は、豹頭の悪魔〟を翻弄していたのだ。
「人間には過ぎた力ですが、タネが割れてしまえばどうということはありませんね」
リュシエラを傲然と睨みつけた〝豹頭の悪魔〟が、自分の頭上に無数の火球を生成する。
加速能力を持つリュシエラを追うのをやめて、無差別の範囲攻撃に切り替えたのだ。
「飽和攻撃かあ。それができるなら、そうするだろうねえ」
上空を埋め尽くす火球の群れを見上げて、リュシエラは苦笑気味に息を吐いた。
超加速による奇襲攻撃で、ティルティを殺すだけなら簡単だった。
しかし彼女を攻撃できないとなると、リュシエラには打てる手が限られる。
固有能力の中身がバレないように騙し騙し力を使っていたのだが、ついに誤魔化しきれなくなって〝豹頭の悪魔〟に気づかれた。
そこまでの所要時間は約三分──
リュシエラが俺と約束した、時間稼ぎのタイムリミットだ。
「やっぱり私じゃラチがあかないな。というわけで……あとは頼むよ、ハル・タカトー」
「──了解だ」
リュシエラの眼前に飛び出した俺が、肩に担いでいた巨大な黒刀を一閃する。その刀身は周囲の空間ごと、彼女をめがけて降りそそぐ無数の火球を喰らい尽くした。
黒刀を通じて俺の体内に、得られた魔力が流れこんでくる。
その一瞬だけ、俺を苛み続ける絶え間ない飢餓感から解放される。
脳を突き抜けるような凄まじい快楽。暴食の愉悦だ。
「〝暴食の悪魔〟……!」
俺が構える黒刀を見て、ティルティの顔をした〝豹頭の悪魔〟が目を瞠った。
しかしそこに浮かび上がった表情は、恐怖でも絶望でもなかった。嘲笑だ。
「ふ……ふふっ、ふはははははは!」
純白の宝杖を構えた〝豹頭の悪魔〟が、ティルティの声で爆笑する。
「刀……そんなちっぽけな刀が、今のあなたの権能のすべてなのですか! あの偉大だった〝災厄〟の王が見る影もない! 封印されたとは聞いていましたが、哀れなものですね、〝暴食の悪魔〟!」
全裸にジャケットだけを纏った女子生徒の周囲で、濃密な炎が球体となって渦を巻く。
直視できないほどの眩い輝きは、その炎が信じられないレベルの超高温であることを示していた。周囲の大気が陽炎となって歪み、叩きつけてくる放射熱で肌が焼ける。
魔力で防御していなければ俺の血液は、とっくに沸騰していたはずだ。人間の魔法では決して真似できない、まさに〝災厄〟の名にふさわしい凄まじい威力だった。
これまでは〝暴食の悪魔〟を警戒して、その力を隠していたのだろう。
しかし封印から解放された〝暴食〟が一振りの刀に過ぎないことを知り、手の内を見せても問題ないと判断した。つまり〝豹頭の悪魔〟が本気で決着をつけに来たということだ。
「これならば魔物をけしかけるような小細工をするまでもありませんでした! 正面から焼き尽くしてあげましょう、〝暴食〟──!」
『焼き尽くす?』
勝ち誇ったように笑う〝豹頭の悪魔〟に、意思を持つ黒刀が反応した。刀身に刻まれた口の端が吊り上がり、嘲るように失笑する。
『たかだか序列第六十四位の羽虫如きが、七罪源である我を焼き尽くすだと? 笑わせるな!』
「な……舐めるなああああああっ!」
ティルティの肉体の周囲に浮かぶ焰球が、青白く輝く閃光を放った。
確実に摂氏数万度を超える灼熱の槍だ。
「たしかに貴方の序列は私よりも格上でしょうが、今の貴方は封印された無力な存在に過ぎません! そしてこの娘の魔法能力は、貴方の使い魔をも上回っている! そのような状態で私に挑んだ、己の愚かさを呪って我が糧となりなさい!」
「ふん……」
多方向から次々に撃ち出される閃光の槍を、俺は踊るようにステップしながら躱していく。たしかに閃光の槍の攻撃は速いが、それだけだ。磁場障壁や黒刀で防ぐまでもない。