聖女と暴食

第四章 デスバイソンのラグーパスタ ⑰

 ティルティがぽかんと目を丸くした。

 同じ聖属性の適性持ちだけあって、聖水をあれだけ大量に生成することが、どれだけ非常識かよくわかるのだ。


「はい。かたこりやようつうろう回復にも効果がありますよ。あとはだにも」

「そりゃ効果はあるだろうけど……!」


 もはやつっこむ気力すら失って、ティルティは弱々しく首をった。


「ティルティさんが落ちこんでるのは、ハルくんにずかしい姿を見られたからですよね? ですが、おに入るのなら、そのかつこうでも問題はありません! ティルティさんがはだかでうろついていたのは、おに入る直前だったからなんです! 入浴前だからはだかでも仕方がなかったんです!」

「ごめん、話が見えないんだけど……てか、さすがにそのくつは無理があるでしょ……!?」

「とにかくおに入りましょう! さっきのせんとうすすつちぼこりかぶっちゃいましたし、あせもかきましたから! お入りたいですよね!? わたしは入りたいです! さあ入りましょう! いでください! ハルくんもいつしよに入りますか?」

「そうか……アナ。きみは、今、自制心をなくしてる状態なんだな……」


 めつれつなアナの言動を観察して、俺はようやくその原因をあくした。

 使いである俺に〝暴食の悪魔ベエルゼブブ〟の力を使わせるために、アナは自らの自制心をそのだいしようとして差し出していたのだ。


 つまり今のアナの言葉は、すべて彼女の本心だ。あせをかいておに入りたくなったから、に入ろうとしているだけなのだ。


「自制心……〝さいやく〟の力を使っただいしようってこと……?」


 ようやく事情を理解したティルティが、ためいきらす。


「ああ」

「もしかして、こないだの火災現場でアナさんがハルとっていたのも、同じだった?」

「そうだ。だから〝〟に取りかれていたときのティルティが、少しくらいおかしな言動をしても気にする必要はない。俺には事情がわかってるからな」

「でも……」


 いまだに割り切れないというふうに、ティルティはたよりなく目をせた。


 たとえあくしゆうしんうばわれていたとしても、ティルティはあやつられていたわけではない。あの発言はうそいつわりではなく、ちがいなく彼女が心に秘めていた欲望なのだ。


 だが、うそではないということが、すなわち真実とは限らない。


 人間は、だれもが心の奥底に身勝手でみにくい欲望を秘めている。

 それを知性と理性でおさえつけながら、だれもが正しくあろうと努力しているのだ。そうやって理想に近づこうとする姿こそが、真実だと俺は信じている。


 ゆえに俺は、さっきまでのティルティの発言を、彼女の本心だとは認めない。


「それから、ひとつだけ謝らせてくれ。〝〟と戦ってるときに、おまえが傷ついてもいいと言ったのは俺の本心じゃない。おまえを〝〟から守るために仕方なく言ったことだ。だから──」


 そう言って俺はティルティの正面にかがみこみ、彼女の額に軽くキスをした。

 ティルティの目がこぼれ落ちんばかりに大きく開かれて俺を映し、彼女のほおが見る間に赤く染まっていく。


「今はこれで許してくれ。ティルティの気持ちには応えられないが、おまえが俺の大事な友人なのはちがいないからな」

「ハル……」

「そういうわけで、悪いがアナの相手をたのむ」


 いまだにしようげきから立ち直れないでいるティルティを、俺は無理やり引っ張り起こした。

 ティルティはなにか言いたげにくちびるをもにょもにょと動かしていたが、やがてれたようにぶるぶると大きく首をった。


「し、仕方ないわね。まあいいわ。〝さいやく〟のこととかふういんのこととか、あの子にはきたいことがたくさんあるし……!」


 いつもの勝ち気な表情にもどったティルティが、アナのいる方向に目を向ける。

 そしてティルティはギョッとしたようにほおらせた。下着姿になったアナが、自分たちに手をっていることに気づいたからだ。


「なにをやってるんですか、二人とも。早くおに行きましょう!」


 いていたくつをぽいぽいとてながら、アナが元気よく呼びかけてくる。もしも彼女にしつがあったなら、勢いよく左右にまわしていたはずだ。


「──って、あなた、なにいでるのよ!? 制服は!?」

「服を着たままだとおに入れませんよ? ほら、ハルくんもいでください」

「俺は関係ないだろ」


 ってきたアナに手を引かれて、俺はまどいながら首をる。


「なに言ってるんですか。ハルくんががないとティルティさんだけずかしいままじゃないですか。それに私もハルくんとおに入りたいです。お入りましょう! お!」

「ちょっ……はなれて! ハルからはなれなさい!」


 しつこく俺の手を引こうとするアナを、ティルティがあわててがした。


「おやおや、モテモテだね、ハル・タカトー」


 いつの間にか近づいて来ていたリュシエラが、俺のわきばらひじでつついてくる。


「どう見てもそういうじようきようじゃないだろう。揶揄からかってないで助けてくれ、部長」


 彼女に言い返す気力もなくして、俺はつかれた声でそう答えた。


 ふと気づけば、アナはティルティが着ていたジャケットを無理やりがして、そのまま彼女を石焼きに引きずりこもうとしているところだ。


 やがての存在に気づいたマコットとミネオラも、いつしよに入りたいとさわぎ出す。ものの解体が終わってからにしろとるラフテオ。その間にリュシエラはちゃっかりとかって、水面にかべたかんきつるいをもぐもぐと食べ始めている。もう無茶苦茶だ。


「あれが〝さいやく〟の力を使っただいしよう……か」


 かたの上でくちげんを続けている黒犬としろねこを乱暴にはらい、俺はだるく天をあおいだ。

 かたむき始めた太陽が、空をうっすらとがねいろに染めていた。

 そして銀色の細い線が、その空をにじのように横切っている。


「最悪だ……」


 俺のつぶやきは、雲のない空にまれて消えていく。

 天環オービタルはそれに応えることもなく、今日も冷ややかに地上を見下ろしている。