ティルティがぽかんと目を丸くした。
同じ聖属性の適性持ちだけあって、聖水をあれだけ大量に生成することが、どれだけ非常識かよくわかるのだ。
「はい。肩こりや腰痛、疲労回復にも効果がありますよ。あと美肌にも」
「そりゃ効果はあるだろうけど……!」
もはやつっこむ気力すら失って、ティルティは弱々しく首を振った。
「ティルティさんが落ちこんでるのは、ハルくんに恥ずかしい姿を見られたからですよね? ですが、お風呂に入るのなら、その恰好でも問題はありません! ティルティさんが裸でうろついていたのは、お風呂に入る直前だったからなんです! 入浴前だから裸でも仕方がなかったんです!」
「ごめん、話が見えないんだけど……てか、さすがにその理屈は無理があるでしょ……!?」
「とにかくお風呂に入りましょう! さっきの戦闘で煤や土埃を被っちゃいましたし、汗もかきましたから! お風呂入りたいですよね!? わたしは入りたいです! さあ入りましょう! 脱いでください! ハルくんも一緒に入りますか?」
「そうか……アナ。きみは、今、自制心をなくしてる状態なんだな……」
支離滅裂なアナの言動を観察して、俺はようやくその原因を把握した。
使い魔である俺に〝暴食の悪魔〟の力を使わせるために、アナは自らの自制心をその代償として差し出していたのだ。
つまり今のアナの言葉は、すべて彼女の本心だ。汗をかいてお風呂に入りたくなったから、風呂に入ろうとしているだけなのだ。
「自制心……〝災厄〟の力を使った代償ってこと……?」
ようやく事情を理解したティルティが、溜息を洩らす。
「ああ」
「もしかして、こないだの火災現場でアナさんがハルと抱き合っていたのも、同じだった?」
「そうだ。だから〝豹頭の悪魔〟に取り憑かれていたときのティルティが、少しくらいおかしな言動をしても気にする必要はない。俺には事情がわかってるからな」
「でも……」
いまだに割り切れないというふうに、ティルティは頼りなく目を伏せた。
たとえ悪魔に羞恥心を奪われていたとしても、ティルティは操られていたわけではない。あの発言は噓や偽りではなく、間違いなく彼女が心に秘めていた欲望なのだ。
だが、噓ではないということが、すなわち真実とは限らない。
人間は、誰もが心の奥底に身勝手で醜い欲望を秘めている。
それを知性と理性で抑えつけながら、誰もが正しくあろうと努力しているのだ。そうやって理想に近づこうとする姿こそが、真実だと俺は信じている。
ゆえに俺は、さっきまでのティルティの発言を、彼女の本心だとは認めない。
「それから、ひとつだけ謝らせてくれ。〝豹頭の悪魔〟と戦ってるときに、おまえが傷ついてもいいと言ったのは俺の本心じゃない。おまえを〝豹頭の悪魔〟から守るために仕方なく言ったことだ。だから──」
そう言って俺はティルティの正面に屈みこみ、彼女の額に軽くキスをした。
ティルティの目がこぼれ落ちんばかりに大きく開かれて俺を映し、彼女の頰が見る間に赤く染まっていく。
「今はこれで許してくれ。ティルティの気持ちには応えられないが、おまえが俺の大事な友人なのは間違いないからな」
「ハル……」
「そういうわけで、悪いがアナの相手を頼む」
いまだに衝撃から立ち直れないでいるティルティを、俺は無理やり引っ張り起こした。
ティルティはなにか言いたげに唇をもにょもにょと動かしていたが、やがて吹っ切れたようにぶるぶると大きく首を振った。
「し、仕方ないわね。まあいいわ。〝災厄〟のこととか封印のこととか、あの子には訊きたいことがたくさんあるし……!」
いつもの勝ち気な表情に戻ったティルティが、アナのいる方向に目を向ける。
そしてティルティはギョッとしたように頰を引き攣らせた。下着姿になったアナが、自分たちに手を振っていることに気づいたからだ。
「なにをやってるんですか、二人とも。早くお風呂に行きましょう!」
履いていた靴をぽいぽいと脱ぎ捨てながら、アナが元気よく呼びかけてくる。もしも彼女に尻尾があったなら、勢いよく左右に振り回していたはずだ。
「──って、あなた、なに脱いでるのよ!? 制服は!?」
「服を着たままだとお風呂に入れませんよ? ほら、ハルくんも脱いでください」
「俺は関係ないだろ」
駆け寄ってきたアナに手を引かれて、俺は戸惑いながら首を振る。
「なに言ってるんですか。ハルくんが脱がないとティルティさんだけ恥ずかしいままじゃないですか。それに私もハルくんとお風呂に入りたいです。お風呂入りましょう! お風呂!」
「ちょっ……離れて! ハルから離れなさい!」
しつこく俺の手を引こうとするアナを、ティルティが慌てて引き剝がした。
「おやおや、モテモテだね、ハル・タカトー」
いつの間にか近づいて来ていたリュシエラが、俺の脇腹を肘でつついてくる。
「どう見てもそういう状況じゃないだろう。揶揄ってないで助けてくれ、部長」
彼女に言い返す気力もなくして、俺は疲れた声でそう答えた。
ふと気づけば、アナはティルティが着ていたジャケットを無理やり脱がして、そのまま彼女を石焼き風呂に引きずりこもうとしているところだ。
やがて風呂の存在に気づいたマコットとミネオラも、一緒に入りたいと騒ぎ出す。魔物の解体が終わってからにしろと怒鳴るラフテオ。その間にリュシエラはちゃっかりと風呂に浸かって、水面に浮かべた柑橘類をもぐもぐと食べ始めている。もう無茶苦茶だ。
「あれが〝災厄〟の力を使った代償……か」
肩の上で口喧嘩を続けている黒犬と白猫を乱暴に追い払い、俺は気怠く天を仰いだ。
傾き始めた太陽が、空をうっすらと黄金色に染めていた。
そして銀色の細い線が、その空を虹のように横切っている。
「最悪だ……」
俺の呟きは、雲のない空に吞まれて消えていく。
天環はそれに応えることもなく、今日も冷ややかに地上を見下ろしている。