その日、ティルティ・カルナイムは、超高層ビル〝ケインズの杖〟の最上階で第七学区の生徒会長と対面していた。
淡緑色の髪の少女の手には、一通の書類が握られている。
ティルティが用意した手書きの書類だ。
「移籍願い──ですか」
「は、はい」
ユミリ・アトタイル生徒会長の静かな声に、ティルティはびくりと肩を震わせた。
三時間前に提出した学食部への移籍願いは、多忙な生徒会長に直ちに転送され、それからすぐにティルティは生徒会長室に呼び出されることになったのだ。
それだけでも、ユミリ会長の怒りが伝わってくる。
表面的には、穏やかな微笑みを浮かべたままなのが尚更恐い。
「あの、こちらが学食部の経営改善計画の計画書と、上納金滞納分の支払い明細のコピーです。先日の小規模な魔物暴走の際に高脅威度の魔物を大量に討伐する機会がありまして、そこで得られた素材を売却することで財務状況の劇的な改善に成功しました」
「なるほど、そうですか」
渡された資料をパラパラとめくって、ユミリは作り物めいた笑みをいっそう深くした。
「この短期間にこれだけの結果を出すとは、さすがに優秀ですね、ティルティ・カルナイム監査官──いえ、ティルティさんとお呼びしましょうか」
「は、はい。どうぞ、お好きに」
会長の薄水色の瞳に見つめられて、ティルティは冷たい手で心臓を握られたような恐怖を感じた。
まともに戦えば、戦闘職ではない文系の生徒会長よりも武官であるティルティのほうが強いはずだ。それなのになぜか目の前の少女に勝てる気がしない。
「学食部の経営状態が健全化したことで、生徒会が監査官を派遣する理由はなくなりました」
「は、はい」
「しかしそれではハル・タカトーを生徒会に連れ戻すという目的を果たせないまま、学食部から立ち去ることになる。そこで本来の目的を遂行するために、表向き学食部に移籍するということですね。形式的に、書類上では」
「えっと……そういうことになる……んですかね。あはは……」
ユミリに淡々と問いかけられて、ティルティは頰を引き攣らせた。
ティルティの本音としては、なるべくハルの近くにいたいというだけで、そんな策謀めいたことはまったく考えていなかったからだ。
「わかりました。それではこの移籍願いは、形式上は受理したものとして処理します」
「あの……それは、どういうことなんでしょう?」
意味ありげな会長の言い回しに、ティルティが不安になって訊き返す。
わかってますね、と言わんばかりにユミリはティルティに微笑んで、
「つまりあなたの本当の籍は生徒会に残したまま、極秘任務として学食部に移籍してもらう、ということです」
「それはもしかして、スパイというやつなのでは……?」
「なにか問題がありますか?」
感情がまったく読めない瞳で、ユミリは瞬きもせずにティルティを見つめた。
「べつに学食部を裏切って、彼らに不利益をもたらせと言っているわけではありません。そうですね……これからはわたくしのお友達として、たまに生徒会長室に遊びに来てください。美味しいお茶を飲みながら、楽しく世間話でもしましょう」
「私が会長のお友達……ですか……」
ティルティは胃の辺りに、ずん、と鉛を詰め込んだような重みを感じた。
一方のユミリは、ふわり、と花のように口元を緩めて、
「ふふっ、嬉しい。わたくし、なぜか今までお友達がいなかったんです。あなたが初めてのお友達ということになりますね、ティルティさん」
「光栄です……」
ティルティは、軽く放心しながらどうにか返事をした。
なにはともあれ、ティルティの学食部への移籍は、これで会長にも認められたことになる。
会長直々に呼び出されたときにはどうなることかと思ったが、冷静に考えればそこまで悪い結果ではなかった。そう。問題はないはずだ。そう思いたい。
「ああ、そうそう、ティルティさん」
「は、はい!」
部屋を出て行こうとしたティルティを、ユミリが唐突に呼び止める。
会長が視線を向けていたのは、制服姿のティルティの尻だった。
短いスカートの裾をほんの少し持ち上げるようにして、獣の尻尾がのぞいている。
アビシニアンやシンガプーラのような、尻尾が長いタイプの猫に似た尻尾だ。それも二本。根元はティルティの髪と同じ淡い蜂蜜色で、先端に近づくにつれて白くなっている。
もともとは〝豹頭の悪魔〟と契約したときに生えたものなのだが、どういう理屈か、〝豹頭の悪魔〟が封印された結果、実体化したまま消えなくなってしまったのだ。
「その尻尾、可愛いですね」
ユミリが、意味ありげな口調でそう言って目を細める。
「あはは……あの、ありがとう……ございます……」
ティルティはぎこちなく笑いながら一礼して、生徒会長室を後にした。
◇◆◇
「うう……裏切り者ぉ……ティルティ先輩の裏切り者ぉ……!」
青いタクティカルジャケットを着た女子生徒が、学生食堂〝躑躅亭〟のカウンターに突っ伏して傷ついた表情でくだを巻いている。
特殊執行部隊第一小隊の管制係、高等部一年生のリィカ・タラヤである。
彼女の右手に握られているのは、学食部特製の葡萄ジュースだ。
ドライアドの亜種から採取されたその葡萄には鎮静効果やストレス解消などの効果があり、上品な甘みと相まって特に女子生徒の人気が高い。
その一方で、体質によっては感情の起伏が激しくなったり酩酊したりという副作用がある。どうやらリィカは、その副作用が強く出る体質だったらしい。
「なんで自分だけちゃっかり学食部に移籍してるんですか。そんなにハル先輩の傍にいたかったんですか。ハル先輩を生徒会に連れ戻すって言ってたくせに、噓つきぃ……!」
「ち、違うわよ。私はハルを生徒会に復帰させるために、仕方なく移籍しただけだから……」
リィカに絡まれたティルティが、咄嗟にそう反論する。
しかしリィカがその言葉を信じていないことは、彼女の表情からも明らかだ。
「なんなんですか、その尻尾。アナさんの獣耳に対抗してるつもりですか。ちょっと可愛いのがムカつくんですけど……! これ、下着はどうしてるんですか……?」
「ちょっ……触らないで! やめっ……! やぁぁんっ……」
リィカに尻尾を引っ張られたティルティが、めくれ上がるスカートを必死で押さえながら悲鳴を上げる。その声が弱々しく震えているのは、尻尾を握られると力が抜けるせいらしい。
妙に艶っぽいティルティの悲鳴は、昼飯時の学生食堂で出していい声ではない。
「こらそこ! 売り子に手を触れないで!」
「セクシー……」
マコットとミネオラの双子姉妹が、なおもティルティの尻尾を引っ張るリィカに警告する。
もちろんその程度で大人しくなるようなリィカではなく、混乱はまだしばらく続きそうな雰囲気だった。
当然、それに関わりたくない俺は、離れた場所で男子相手の接客をしている。
もともとほとんど男子の客しかいなかった躑躅亭だが、最近の男女比は六対四くらいにまで変化していた。最初のころは俺の接客を目当てに店に来ていた女子生徒たちも、いつの間にか普通に如何物料理を楽しむようになっているようだ。
とはいえ、マコットやミネオラが目当ての常連客もいまだに多いし、アナやティルティを見に来る新規客もちらほらと増えている。学食部の経営状態がわずかに改善したのは、そのあたりの影響もあるに違いない。
「──ご活躍だったみたいだな?」
店内の奥まった席に座っていたヒオウ・レイセインに、俺は注文された料理を運んでいく。
一人で店を訪れていたヒオウは、執行部隊のタクティカルジャケットではなく、地味な灰色のフーディーを着ている。今日はお忍びで来店した、ということらしい。
この男は目立つ容姿をしているくせに、その気になれば完全に存在感を消して、気づかれることなく自由に街を出歩くことができるのだ。正直うらやましい特技である。
しかし今日のヒオウはめずらしく、少し疲れたような表情を浮かべていた。華やかな金髪にもどこか艶がない。
彼の疲労の理由はわかっていた。〝豹頭の悪魔〟が仕掛けた魔物暴走もどきの後始末だ。
「今回は苦労させられたよ。どこかの誰かがいきなり隊長を辞めてしまったからね。その穴埋めであちこち走り回らされてしまったんだ。おかげで過労死寸前だよ」
「そうか。すまない」
俺は素直に頭を下げた。
唐突な俺の執行部隊小隊長辞任でもっとも割を食ったのは、間違いなく同格の小隊長だったヒオウである。
手薄になった執行部隊の戦力を補うためにフル稼働したヒオウは、脅威度A級の魔物だけでも一人で二十体以上は斃したという。
おそらく輸送船襲撃事件が収束するまでの間、ろくに眠る時間もなかったはずだ。それでは俺に皮肉のひとつも言いたくなるだろう。
「そちらこそ、ずいぶん派手にやったみたいだね、ハル」
すぐにいつもの調子に戻ったヒオウが、俺の運んできた料理にフォークを突き刺しながらそう言った。