2:コミックス用書き下ろしSS
無名戦士は墓も無きゆえ
「〈アンダーテイカー〉……!?」
ひきつった呻きをもらした共和国の紺青の軍服の兵士に、シンは怪訝な目を向ける。共和国八六区、東部戦線第一戦区第一戦隊“スピアヘッド”の前線基地。半年ごとの再編成で配属されて到着したばかりのその基地の、風雨と陽に色褪せたバラックの隊舎の前だ。
隊舎の壁にはこれも限界まで色落ちした、共和国の五色旗が上下逆さに落書きされている。
「何か?」
「いや……」
兵士は曖昧に口ごもって目を背ける。およそ軍人という風貌ではない、痩せて気弱げな、人事部所属だという兵士。……エイティシックスは人間でないにもかかわらず、彼らの情報の扱いはなぜか共和国軍の装備部ではなく人事部が行っている。
『無人機による先進的かつ人道的な国防』を標榜する共和国の軍に、戦闘要員はいない。そのためか、月ごとの物資の空輸や任地変更時の手続きで目にする共和国軍人は、明らかに軍人には向かぬ者ばかりだ。銃を撃てるか怪しいのはざら、立場において全く下のエイティシックスにさえ、無闇に怯える者もいるくらいだ。檻の中の獣を、それでも怖がる子供のように。
この兵士もそういう、臆病な一人であるのだろう。
無感動にシンはその醜態を見返す。共和国人にどう見られようと知ったことではない。動物扱いも今さらだ。野蛮な
感情のない視線から目を逸らすように、振り切るように兵士は目を閉じる。
ついで投げられた声は最前の驚愕と動揺をどうにか押しやった、至極事務的なものだった。
「――収容番号E022-23093。写真を撮り直す。こちらへ」
共和国八六区の各戦区での任期は、原則半年。半年ごとに部隊再編と配属替えが行われる。プロセッサーの結託と反乱を、防ぐための措置だ。
その再編の度に撮り直す、管理ファイル添付用の写真の撮影を終え、シンは兵士の前を辞す。身長の線を引いた壁の前で番号札を掲げる、囚人のような写真。人間でないエイティシックスは名前を含めたあらゆる個人情報が共和国の行政システムから抹消され、ただ収容時の番号でのみ管理される。
適当に書いたから見事に斜めになった、自らを示すその番号にふと、目が留まった。
四桁の収容所番号と、五桁の収容者番号。こうした部隊再編ごとの写真撮影や戦闘時の通信、哨戒や戦闘の報告書の作成などで細々と使うから、嫌でも覚えてしまうそれ。
自らの名前の綴りは、忘れた者も多いのに。
――シン。
不意に、呼ぶ声が聞こえた気がしてくっと目を眇めた。
忘れられない。……忘れさせてはくれない相手の。
名前なんて、所詮。この番号と同じ、個体識別用の単なる記号にすぎないのに――。
ところで写真の撮影も配属の手続きも、所詮は共和国軍内部でだけ必要な手続きで、つまりプロセッサーにとっては何一つの意味もない。
写真を撮り直すだけとはいえ、戦隊二四名を一人ずつ。十代半ばから後半の、エネルギーがあり余っている年頃なこともあり、シンの周囲で待たされている仲間たちはさっそく暇を持て余して騒ぎ始めた。
同じく写真を撮り終えて戻ってきたクレナが、まばらな草地に転がっていた小石の一つを何の気なしに蹴飛ばす。思いの外に飛んだそれに何やら対抗意識を煽られたか、キノという名の少年が散らばっていた螺子の一つを更に遠くへと蹴り飛ばす。手持ち無沙汰な待ち時間が、あっという間に蹴飛ばしたあれこれの飛距離の競い合いへと変貌する。
銃を手に見張っている輸送担当の共和国軍人たちは、家畜どもの馬鹿騒ぎに苦々しい顔をしつつも制止はしない。……この基地を含め、八六区の各施設は要塞壁群グラン・ミュールと百キロの距離、対人・対戦車地雷原で共和国本国からは完全に隔離されている。彼らが働かなくてもどうせ、エイティシックスは何処にも逃げられない。
セオが蹴った錆びたボルトが、壁の逆さまの五色旗に当たる。途端に飛距離を競っていたのが今度は的当てに変わり、ほどなくして何色に当たったら何点という得点を競うゲームに変わる。ついでにいつの間にか蹴飛ばすルールが撤廃されて、投擲ゲームに変わっていたりする。
いつもながら適当な上に目まぐるしいなとシンは思う。だいたいこのノリで最終的には逆立ちしながら足で物を投げるとかそういう不可解極まりない謎ルールになるので、シンはこの手の騒ぎからはなるべく距離を置いている。
が、そういう思惑をどうやら察したらしく、こちらを見やってダイヤがにやりと笑う。
「シンエイくん? 見てねえでたまにはお前もやろうぜー?」
「…………。ああ」
名指しされてしまっては逃げようがない。
足元に転がっていたスタッドボルトに目をつけ、一端を強く踏みつけて跳ね上げる。回転しながら跳ね上がったそれを空中で掴み取り、その勢いのまま投げつけた。
すこーん、と快音を立てて、長い棒状のスタッドボルトが五色旗の中央に突き刺さる。
しばし、仲間たちに、呆れ半分微笑ましさ半分に眺めていた基地付きの整備クルーたちに、見張りの共和国軍たちにさえ、沈黙が降りた。
「……すっげ」
「さすがは“東部戦線の首のない死神”っていうか……いや、さすがにこれは引くわ……」
「…………」
実は。
全く、完全に、偶然だったりする。
偶然だったりするのだが、何となくそれは言わずにシンは黙りこむ。黙っている理由を悟ったらしく、共に配属された中では最もつきあいの長いライデンが声を出さずに笑う気配。
気がつくと、全員の写真を撮り終えたらしい人事部の兵士が歩み寄ってきていた。
「仲がいいんだな。……それなりに長いつきあいなのか。彼らとは」
シンはちょっと片眉を上げた。共和国人が罵倒ではなく雑談を振ってくるのは極めて珍しい。
「……ええ。ここに配属されるくらいですから」
東部戦線第一戦区第一戦隊“スピアヘッド”。戦歴の長いプロセッサーを――この絶死の戦場で何年も生き残ったプロセッサーだけを集めた精鋭部隊。
一瞬兵士は沈黙する。……そうか、とややあって、独りごちるような声が落ちた。
それには応じず、シンは兵士の手の中のカメラに目をやる。今では珍しい、撮ったその場で現像されるポラロイドカメラ。
エイティシックスに、入る墓はない。今撮った写真も、戦死した時か戦隊の再編時に、まとめて破棄されて残らない。
それなら。――それでも。
「一つ。……頼んでもいいですか?」
ん、と向けられた月の銀色の双眸は見返さず……シンはそれを指して言葉を続けた。



