2:コミックス用書き下ろしSS
ある初夏の日
おそらく元は、製氷工場の冷凍庫、だったのだろう。
外はそろそろ初夏の陽気だというのに氷で満たされた、そのだだっ広い地下室をカイエは半ば呆然と見回す。
戦争で放棄されて電力供給がなくなっても、氷で満たされて断熱性も高い地下のこの冷凍庫は氷室として機能した。どこかの時点で天井部分に亀裂が入って、降る雪がそこから吹き込んで、夏にある程度溶けてしまう氷も毎年補充されてきた。その結果。
とはいえ、いつ降った雪かもわからない氷だ。さすがに口にはできないが――……。
あ、と背後、一緒にこの廃墟を探索していたシンが言った。
「……もしかして、」
「つかぬことを聞くんだが、シン」
「ん」
がっこん。ごろごろごろ。
重々しい、けれどなんとも気の抜ける音を立てて転がってきた、廃棄の毛布にくるまれたでっかい寸胴鍋を、〈ジャガーノート〉を操作してカイエは脚先で蹴り返す。基地の格納庫裏の、罅の入ったコンクリートの地面の上。
「仮に、仮にだ。夜中に女性が夜這いをかけてきたとして。それが戦友だったとしたら、お前どうする?」
転がってきた謎の大鍋をこちらも〈ジャガーノート〉で蹴って転がしてから、シンが応じる。怪訝そうに眉をひそめて。
背部の砲身を跳ね上げてキャノピも解放して、互いに生身をさらしたままの操縦である。貧弱とはいえ機甲兵器が二機、やかましい足音を立てつつ鍋を蹴り合う間抜け極まりないサッカーを、苦虫を噛み潰しつつも仕方ねえなという顔でアルドレヒトが見守っている。
「夜這いって何」
「え」
思いもかけない返答にカイエは固まる。
その拍子に蹴り脚が空振って、ごろごろ転がっていく大鍋を少し慌てて追いかけてもう一度蹴飛ばす。……地面を転がるように蹴らなくてはいけないから、動揺しているとこれがどうにも難しい。
怪訝そうなままシンは続ける。
「寝首を掻きに来た、ということか?」
「不意打ちという意味ではそうだいや違う。そうじゃなくて、その、」
「何だかわからないと、答えようもないんだけど」
「その……だな……」
自分で尋ねたことではあるが、説明するのは恥ずかしい。
顔を赤らめてなるべくダメージの少ない言葉を探していたカイエだったが、途中で気づいて唇を尖らせた。
このらしからぬ物分かりの悪さは、もしかしなくても。
「……実はわかって聞いているだろう、シン。……その、そういう言葉を女性に言わせようとするのは、感心しないぞ」
半眼で睨みつけた先、ふん、とシンは鼻を鳴らす。
彼の〈ジャガーノート〉が蹴飛ばした大鍋が、少し乱暴な音を立てて転がってくる。
「答え辛いことを聞くからだ。……こっちだって、誰でもいいわけじゃない。人によるとしか言いようがない」
普段は感情表現の淡い少年が少しだけ、けれどあからさまに不機嫌に言うから、カイエはふっと苦笑する。
特に戦場での彼を見ているとつい忘れてしまうけれど、シンはそういえば、自分より二つも年下で。
彼が人間だったならまだ、子供と扱われていていい年齢で。
「……そうだな、すまん。……忘れてくれ」
もし、本当にやってみたらこの少年は果たしてどんな反応をするのかと。関心は少しだけ、あったのだけれど。
沈黙がしばし、〈ジャガーノート〉の足音と大鍋が転がる騒音の合間に落ちる。
さて、とその沈黙にカイエは思う。
この大鍋は一定の時間転がし続けなくてはならないのだが、その間黙りこんでただ蹴飛ばしあうのはいかにも退屈だ。そういうわけで振った雑談だったのだが、話が途切れてしまった。
最初はしりとりをしていたのだが、小さい子供ならともかく十六歳のシンと十八のカイエである。とりたてて言葉を探すでもなく淡々と応酬が続き、五分ほどで二人とも飽きてしまって、シンはシェイクスピアの戯曲のタイトル、カイエは花の名前で自分の答える単語を縛ったあたりで我に返って中止となった。
無口な性質であるシンは、おそらくはこの沈黙も気まずいとも退屈だとも思っていないのだろうが、カイエにとってはそうではないから、カイエが話題を探さないといけない。
ごろごろと二人と二機の間を往復し続ける大鍋を見やって、ふっと思いついたことをそのまま口にした。
「こちらでは、夏と言えばこれ、だったが。……私の祖先の生まれた国では、夏の定番はラムネという飲み物で」
カイエ自身は行ったことも見たこともない、彼女と同じ民族が多く住む国。
大陸の東の果ての、大陸全土を〈レギオン〉が呑み込んだ今は生き残っているかもわからない見も知らぬ故郷。
去来するのは郷愁とも隔絶ともつかない複雑な感情で、それを押し殺してカイエは笑う。共和国に先祖が移住して、何代も経たカイエには本当に、ルーツだというだけの国だ。その国の言葉もカイエはほとんど話せない。いくつかの単語と、伝統や文化の断片を知っているだけの、知らない異国だ。
帰りたくても、もう二度と帰れない。
そもそもが彼女の帰るべき故郷は、見も知らぬその異国ではない。
カイエの内心など当然知らず、ただ突然の話題の転換にシンがまばたく。
あまり関心のある風でもなく、それでも相槌を打った。
「ふうん?」
「硝子の瓶に入っていて、炭酸で甘くて、独特の爽やかな香りがして。瓶の蓋は硝子玉が内側から嵌っていて、飲む時には上から押し込んで外して」
共和国には――その放棄した戦場の街では見たことのない、なんとも異国情緒あふれる封の仕方と開封方法だ。これには少し興味を覚えたようで、シンがわずかに身を乗り出した。
「それは面白いな。どういう仕組みなんだ?」
「いや、知らないが。見たこともないし」
「…………」
梯子を外されたような顔でシンが黙る。
見やってカイエはくすくすと笑う。お返しだ。先ほどの。
けれどシンは黙ったまま、血赤の目を伏せて考えている。
考えたまま、口を開いた。
「……知らないから、」
見たことがないから、だからこそ。
「飲んでみたかった――と?」
一瞬、カイエは沈黙した。
見も知らぬ、自分のルーツだというだけの知らない父祖の国。
それを想って去来した郷愁と隔絶を、見抜かれていたと知った。
そういえばシンもまた、生まれたのは共和国でもその血のルーツは別の国だ。〈レギオン〉を開発し、大陸全土を戦乱へと叩き込んだ隣国、ギアーデ帝国。その支配民族である
血を継いでいるというだけ。行ったことは一度も、八六区に閉じ込められてからは無論のこと、〈レギオン〉戦争以前にもないのだという。
生まれた国には棄てられて、己のルーツである国は知らず。
そして今や、どちらにも行けない。
その隔絶と孤独は――シンにも同じ、なのかもしれない。
「うん。それが、できたならな……。……ん」
セットしておいたアラーム(以前に廃墟の街で拾ってきたキッチンタイマー)が鳴り、丁度転がってきた鍋を〈ジャガーノート〉の脚先で止めて、パワーパックを止めてカイエは降りる。
同じく乗機を降りて歩み寄ってきたシンと共に、一抱えもあるそれを見下ろした。
「……こっちはそろそろ、出来た、か?」
「だと思う。少し前から、水っぽい音がしなくなった」
用意しておいた手袋をつけ、毛布を止めるダクトテープをべりべり剥がして包みを開く。出てくるのは表面をきんと凍てつかせた、これも廃棄予定の大鍋だ。蓋を本体に固定するダクトテープをやっぱりべりべり剥がして開けると、中には溶けかけた大量の氷、そして大小さまざまな密閉容器。
「しかしこんなもの、よく知っていたな。何かで読んだのか」
「多分。冬に食べたいものでもないし、機会がないから今日まで思い出さなかったけど」
その大きめの一つを取り出して何度か振って音をたしかめ、これも蓋のテープを剥がして覗き込んでシンがうなずく。
「固まってる」
「成功だな。じゃあさっそく」
頷き返して、カイエは
対象はスピアヘッド戦隊全員。それからその近くで待っている整備クルーたちの分も。
それだけの大人数の全員分だから氷を入れる鍋が重くなりすぎて、転がし続けるには〈ジャガーノート〉で蹴りあうしかなくて。
ちなみにファイドにくくりつけて三十分くらいスキップさせる、というシンの案は、その場にいたファイドはどうやら乗り気だったが、排熱の問題で残念ながら却下となった。
「各位。お待ちかねだ。……実際、八六区に来てからは初めてだろう」
材料は缶詰の
氷と塩を一定割合で混ぜると、温度が零度からマイナスまで下がるのだという。その現象を利用した。
「アイスができたぞ」



