2:コミックス用書き下ろしSS
花火の夢
「――どうぶつえん」
「うん」
「行きたかった。どうぶつえん」
レイの弟のシンは十歳年下で、現在四歳と数か月。ただいま非常にわかりやすく、拗ねている。
自室のクローゼットの奥の薄暗がりに膝を抱えて座りこんで、頑なに床から目をあげないで。全身で不服をアピールしている小さな弟に、クローゼットの前にしゃがみこんだレイは苦笑してうなずいてやる。
「そうだな。行きたかったよな」
「お父さん、つれていってくれるって言ったのに。お父さんのうそつき」
今日は祝祭で近所の広場に移動動物園が来ていて、仕事も休みのことだしと、両親はシンを連れて遊びに行くことを前々から約束していたのだった。
が。体の完成していない小さな子供というものは、突然体調を崩したりするものである。
どうやら夏風邪をどこかでもらってきたらしく、今日の朝からシンは熱を出してしまって、せっかくのお出かけはあえなく中止。残念だけど今日はお家で寝てようね、と告げられたシンが納得いかずにむくれてクローゼットに立てこもり……現在に至る。
まあ。
具合の悪い子供を家で休ませる両親の判断は当然のものであるし、その結果お父さんの嘘つき、お母さん嫌い、とか言われてしまうのは気の毒なのだが。一方で前から楽しみにしていたイベントに当日突然いけなくなって、小さなシンが感情の整理をつけられないのもわかってしまうレイである。
出かけられないのが他の誰でもなくシン自身が熱を出したせいで、実際今だって出かけられないと自分でわかってしまう程度には、具合が悪いのだろうからなおさらに。
じわ、とシンの大きな紅い双眸に、涙が滲む。
「どうぶつさん、さわれるって書いてあったのに」
「そうだな。お馬さん撫でたり、ウサギさんだっこしたりしたかったよな」
「うん。ヘビさんさわりたかった」
「そっちかー……」
心惹かれたのは、移動動物園のポスターにひときわ大きな写真で紹介されていたポニーでもふわふわ可愛いウサギでもなかったらしい。本人が興味を抱いたならなんでもいいのだが。
ところでシンは朝から熱を出していて今も具合が悪いわけで。
レイとしてはそろそろクローゼットの奥で頑張っていないで、ベッドに戻って大人しく寝てもらいたいところである。うっかり悪化でもしたらどうするのだ。
けれど宥めるつもりで、また今度な、と言いかけて。レイは危うく言葉を呑みこんだ。
小さな子供にとっての時間の流れは、今年十四歳のレイが感じているそれよりも遅い。
少なくとも小さい時のレイには、一年後や半年後なんて待ちきれないくらいに遥か先の日のことだった。
レイにとっては気軽い「また今度」という言葉も、だから、シンにとってはきっとこの世の終わりくらいに、遠い遠い先延ばしだと思えてしまうだろう。それではただでさえ意地を張っている小さな弟が、余計に意固地になってしまう。
それなら。
「シン。代わりに花火、見にいきたくないか?」
果たしてシンはぴくっと顔を上げた。
「はなび」
「二週間後の、革命祭。リューヌ宮殿で花火が上がるんだ。打ち上げ花火っていって、空にこう、ばーんって火の花が咲くんだ。綺麗だぞ」
代わりも何も元々革命祭の打ち上げ花火は、家族で見にいく予定だったということはこの際棚に上げておく。
想像したのか、ぱっとシンは顔を輝かせた。
「いく!」
「じゃあ、早く風邪、治さないとな。……ちゃんと寝てないと治らないぞ?」
「……うん」
ごまかされたと気づいたが、一方で、意地を張るのをやめるタイミングをそろそろシンも求めていたらしい。まだちょっと不服げな顔はしつつも、小さく頷いた。
のそのそ這い出してきた弟が、抱っこ、とさっそく甘えて手を伸ばしてくるのでよいしょと抱き上げる。
熱は下がっていないようで、幼児特有の高い体温が今日は熱いくらいだ。お気にいりのぬいぐるみが、一人寂しく番をしているベッドまでそのまま連れていくと、ぬいぐるみには今日は目もくれずにせがんできた。
「ねるまえにいつもの、絵本よんで」
「はいはい」
何故かシンが気に入っている、首のない骸骨の騎士の絵本。レイにとってはちょっと不気味なその絵本を本棚から取り出してベッドに腰かけて、レイはすっかり覚えてしまった冒頭を口にしながら一ページ目を開いた。
「――――」
けほ、と自分の咳の音で目が醒めて。
八六区東部戦線第二八戦区第一防衛戦隊 “クレイモア”戦隊長、シンエイ・ノウゼンは安っぽいプレハブの隊舎の、粗末なパイプベッドに起き上がる。……朝からの熱は、一日休んで多少は下がったようだがまだ本調子ではない。
先日来た輸送の共和国軍人から、どうやら風邪を移されたらしい。生活環境が悪い上に、まだ十代で身体が完成しきらないエイティシックスの少年兵にはよくある話だ。
兄の夢を、見ていた気がした。
夢の内容は、目が醒めた瞬間に忘れてしまった。……夢の中ではたしかに目にしていたはずの兄の顔も聞いた声も、話していた言葉も。
……今も耳に届く、自分を呼ぶ兄の怨嗟とは異なるはずの言葉も。
「…………」
小さく首を振り、灯火管制とそもそもの人の少なさで暗い戦野の夜の中、再びベッドに身を預けた。
冴えてしまった目を日焼けた天井に向けて、昼間来た通達を思い出す。この戦隊の
その内容。
自分とライデン、ダイヤ、セオ、アンジュ、クレナは。――この戦隊にいる戦歴四年目以上のプロセッサーの全員が。
『〈アンダーテイカー〉。〈ヴェアヴォルフ〉。〈ブラックドッグ〉。〈ラフィングフォックス〉。〈スノウウィッチ〉。〈ガンスリンガー〉。――以上の六名は、東部戦線第一防衛戦区第一防衛戦隊“スピアヘッド”に配属となる』
東部戦線第一防衛戦区第一防衛戦隊“スピアヘッド”。――東部戦線で最も苛烈な激戦場の、最も多く人が死ぬ部隊。
その戦場に――ついに。
夢の内容も、兄の顔も声も、思い出せなくてももう今更構わないのだと、薄く笑みが口元を彩る。
顔も覚えていなくても、目的は果たせる。思い出も何も失ってしまっても、――諦めるつもりは自分にはない。
そのために。その待ち構える戦場へと。ようやく。
「――兄さん」
夜闇の中、いつか見た花火の色彩が、何故かかすかに脳裏を掠めた。



