序  賭博師が守らなければいけない三つのこと ②

「表が出たら、そうだな。この上がりでなんか高い物でも買って帰ろう。もちろん、この店で」


 ラザルスがそういった意味を一瞬ディーラーはとらえかねて、次に彼は顔を輝かせた。賭場で働くにはとても適しているとは思えない、表情がやすい気質らしい。

 要は、今の問題は賭場に大量の不利益を強いてしまうということなのだから、ラザルスが受ける利益を還元してやれば良いのだ。この手の賭場は裏社会の住人と通じているし、そこでは表立ってはいえない商品がやり取りされている。

 特に欲しい商品はないが、適当に高いものを買ってやればここの経営者も満足してくれることだろう。ディーラーへの説教も随分軽いものになるに違いない。逆にラザルスは今日の利益を丸ごと捨てることになる。


「裏が出たら普通にこのまま帰る。この大量の金で何か手堅い商売でも始めて、賭博師はやめるかな。貸本屋でもやってみるか」


 今度はディーラーの顔が露骨に沈んだ。こちらではラザルスは利益を確保できるが、賭場にはにらまれることになるし、このディーラーもさぞかしひどい目に遭うことだろう。

 金貨を指に挟んで、ラザルスはゆらゆらと揺らす。

 自分と、目の前のディーラーと、あるいはこの賭場の今後も決まってしまう可能性のある行動だが、大して気負いもなかった。

 なるようになるさ、というには少しばかり後ろ向きな感情をラザルスはいつも抱えている。ここで金貨を投げたところで、そのコインがどちら側を上にしたところで、ラザルスは変わらないだろう。

 ラザルスは抱えている感情をより正確につぶやいた。


「どうでもいい」


 親指で金貨をはじく。

 賭場の揺れる光の中で金貨は金色の蜂のように残光を引きながら伸び上がって、しかし結局どこに辿たどり着くこともなく重力に捕えられた。

 落ちて来た小さな金貨をラザルスは片手で受け止める。慣れた仕草は彼が度々こうして決断の際に金貨を投げてきたことを示していた。

 果たして、


「────さて、何か買って帰るか」


 開いた手の中では、エリザベス女王が微笑ほほえんでいた。金貨のまばゆさもかくやというくらいにディーラーが笑みを浮かべる。

 頭の中で手元の膨大な利益と、それを還元するためにブラック・チョコレート・ハウスで何を買えばいいかを計算する。

 この賭場で加工している訳ではない宝石は、案外利益の還元率が低いのでまず除外した。市販のものよりも強烈な麻薬や違法な物品は高価だが、しかし守るべきラザルスの平穏な暮らしに禍根を残しそうだ。

 となれば、取れる選択肢はそれほど多くなかった。


「人、か」


 高価で、違法ではなく、面倒の少ない買い物。

 奴隷をおいて他になかった。


 後に、この時代は賭博の世紀と呼ばれるだろう。

 ハムレットはかつてこのように悩みを吐露した。


生きるべきか死ぬべきかT o b e , o r n o t t o b e、それが問題だ」


 戯曲ハムレットを不朽の名作たらしめる、知らぬものはいない名句だ。だがハムレットが今の世にいればきっとこう叫んだだろう。


賭けるべきか降りるべきかT o b e t , o r n o t t o b e t、それが問題だ」


 前世紀に教会の主流派であった清教徒ピユーリタンが力を減じていくに連れて、彼らの作り上げた規律もまたその力を失っていった。謹厳と清貧、禁欲をモットーとする清教徒の時代は終わりを告げ、今の世紀は全く新しい様相をあらわにした。

 雪解けを待っていた草木のように一斉に芽吹いた賭博の文化は、またたに帝都と、そしてイギリス全土を覆っていった。

 今では軒を連ねて賭場が建ち並び、賭博の対象とならないものがない。政治も宗教も戦争も個人の人生でさえ、賭け金としてポツトへと放り込まれていく。

 一種、そうびようのような空気がこの時代にはあった。清教徒達による抑圧が、皮肉なことにかつてにも増した賭博の隆盛をもたらした。

 王族も、貴族も、富裕層も、労働者も、誰も彼もがこぞって賽子さいころの出目に一喜一憂していた。昨日はじきをしていた男が一晩にして富豪の仲間入りをし、そして貴族がたった一枚のトランプで破滅を迎える。一握りの勝者に憧れ、その数百倍とも数千倍ともつかない敗者が生まれた。

 後に、この時代は賭博の世紀と呼ばれるだろう。

 賭博師ラザルス・カインドもそんな時代に生きていた。

刊行シリーズ

賭博師は祈らない(5)の書影
賭博師は祈らない(4)の書影
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