一  南の海に雪は降らない ②

 室内に入ったのにフードも取らないままぼんやりと立ち尽くすその少女の奴隷はまるで人形のようであり、一般的な奴隷はこういうものなのだろうかとラザルスは内心で首をかしげた。

 ともかく、玄関でいつまでも並んで立っているのも間抜けな話だ。

 ラザルスはさっさと居間に戻ろうと廊下を歩いて、それから振り返って眉をひそめた。


「おい」


 背後の奴隷はついてくるものだと思ったのだが、彼女はそのまま玄関先に立ち続けていたからである。



 ラザルスが不機嫌そうに声を投げかけるとかすかにフードが動いて、軽い足音とともに寄ってくる。別に足が不自由だとかそういう理由ではないらしい。

 いきこぼし、居間へと入ってソファにどっかりと腰を下ろす。長く使っているせいですっかりへこんでしまっているソファは、大して重くもないラザルスの体重ですら悲鳴を上げた。


「…………で」


 部屋の入り口の辺りでまた立っている奴隷を見て、ラザルスは面倒そうにほおづえをついた。

 座ったことで視線が下がり、フードの下が見えるようになる。人種が違うために正確な年齢を測ることが出来ないが、多分十は超えていて十五には届かないくらいだろうか。

 異国情緒を感じさせる浅黒い肌。他人に見せることを意識してれいに伸ばされた髪の毛は、結い上げずにフードの内側に垂らしている。女性で髪の毛をそのまま下ろしているのはしようか子供くらいだが、目の前の異国の少女はまだ幼いせいかしようのような印象にはつながらなかった。

 顔立ちは整っているが、表情が何も浮かんでいないためか死んだ美しさだ。大きな瞳にラザルスの顔が映り込んでいるのが小さく見えた。


「どうすっかな」


 別にラザルスは欲しくて奴隷を買った訳ではないので、奴隷にさせるべき何かがある訳でもない。


「おい」

「…………」


 ラザルスが呼びかけてみると、その少女の表情は変化しなかったが、その瞳にかすかにおびえが浮かんだ。職業柄、相手の隠された感情を読み取ることに慣れているラザルスでなければ分からない程度の、ほんの僅かな量だったが。

 しかし、返事はない。


「おーい」

「…………」

「んん。まさか言葉通じてないのか?」


 それにしたって返事くらいはあっても良いだろうにとラザルスが困惑していると、少女が一度口を開いて閉じた。

 ひゅる、と喉を風が通る音とともにぱくりと開閉し、それから少女が指を口に当てる。ジェスチャーは小さなものだったが、何を伝えたいのかは分かった。


「…………しやべれないのか」


 今度は一度だけうなずいた。返事をしないのではなく、出来ないらしい。意味は伝わっているようなので、英語は理解できるようだが。


「何でわざわざしやべれない奴隷なんて送ってきたんだ? カモられたかな」


 昨晩はもう面倒になって適当に商談を終えてしまったので、ラザルスは奴隷を自分で選んでいない。高い金を渡して何故なぜしやべれない奴隷を送られてきたのかがラザルスはよく分からなかった。足下を見られて不良品の処分に利用されたのだろうか、といきこぼす。

 買う時に確認しなかったラザルスが悪いのだろうし、それ以前にわざわざ確認するほどの興味を持てなかったのだが。

 当然ながら少女はしやべれないので、ラザルスの独りごちた言葉に返事をすることはなかった。

 ただ、ラザルスの一挙一動にひそかに注意が向けられ、彼が何かをするたびにひどおびえていることだけが分かる。

 ラザルスは首を緩やかに振って、


「なぁ、別にそんなにおびえなくても、取って食いやしねぇよ」


 といってはみたが、その言葉ですら少女をひどおびえさせるらしいと気付いた。

 何をいっても何をしても、どうにも少女を怖がらせてしまう。少女の目にはライオンか熊のようにラザルスが見えているのだろう。同じおりの中にいるライオンが友好的に話しかけてきたところで、それが牙や爪を備えた獣であるからには、怖いものは怖いに違いない。

 更に何かを言おうかとも思ったが、結局面倒になったし、それ以上に眠かった。まだ疲労が抜け切っていないようで、全身がだるい。


「どうでもいい」


 と切り替えるためにつぶやいてから、ラザルスは近くの戸棚へと手を伸ばす。ラザルスも、彼の養父も、整理整頓という言葉とは無縁の人間だった。賭場で稼いだ金や、得た物をそこら辺にほっぽり出して忘れ去ることも珍しくなく、月日がほこりを堆積させるように、戸棚には賭場で得た多くの脈絡のない物品が詰まっている。

 中から取り出したのは一つの懐中時計だ。物は古く少しばかり手入れをサボっているが、まだそれなりに値打ちがするだろう。

 それをひょいと少女に向かって軽く放った。少女が鈍い反応ながらも時計を落とすことなく受け止めた。


「気が向いたら、十一時頃に起こしてくれ。────時計の読み方は分かるな?」


 自身も時計のムーブメントの一部であるというような無機質な動きで少女がうなずくのを見てから、ラザルスはまたごろりとソファに横になった。

 知らない人間が同じ室内にいる状況では寝られないかとも思ったが、どうやらラザルスは自分で思う以上に図太い神経を持っているようだ。

 眠りはすぐに彼をからった。


 次に起きた時、ラザルスは一瞬奴隷の少女が自分を殺そうとしているのかと思った。

 起き抜けの耳にひどく暴力的な音がたたき付けられたからだ。突き刺さるようなその音がラザルスに、人間が人間を殴っている情景を想像させ、そしてそれは彼の頭の中で奴隷の少女が自分を殴っている姿に変化した。

 だが実際には音はただ玄関先から届いてくるだけで、彼の身体には誰も触れてはいなかった。夢と混じり合った幻想を彼は首を揺らして振り払い、のっそりとソファで身を起こす。


「…………」


 少女は変わらずに、ラザルスが寝た時と同じ位置に立っていた。『変わらずに』というのは立ち位置が変わっていないのみではなく、姿勢が何一つとして変化していないということだ。

 まさか指一本動かさないまま待機していたのだろうか、とラザルスがいぶかしむ。瞳の中でかすかに感情が揺れているのでノックの音には気付いているのだろうが、顔をそちらに向けることすらもしない少女は精巧なろう人形のようだった。


「あぁ、いや、ノックの音か」


 自分を起こした音がノックであると、ラザルスは思考に遅れて気付く。まるで玄関の扉をそのまま吹き飛ばそうとするようなたたき方は、朝のものとは違い、聞き慣れたたたき方だ。

 時間を知ろうとラザルスは少女が受け取ったまま動かずに持っている懐中時計へと手を伸ばした。その手に少女がびくりと反応する。


「…………っ」


 少女の喉かられた息が漏れて、肩が跳ねる。死んだように眠っていたラザルスが突然に動いたのだから、意表をかれたのかも知れない。

 いきこらえて、懐中時計をなるべくそっと持つ。午前十時二十三分。起こしてくれといった時間よりは前だ。

 放っておくと扉を破壊するまでたたき続けそうな調子のノックに応じようと立ち上がってから、ラザルスはくちを意地悪く曲げた。


「なぁ、おい」


 少女がおびえながら、こくりとうなずく。


「ちょっと玄関開けてきてくれ。どうせ、こんな熊みたいな男が一人いるはずだから」


 こんな、といってラザルスがおどけたように自分よりも倍ほども大きい人間をジェスチャーで示す。それが伝わったかどうかは分からないが、少女はうなずいてからきびすを返した。

 ラザルスはソファに深く座り直して、近くにあった金属容器を拾い上げた。つるくびの瓶の中身は幾らか残っていて、甘くっぱいリキュールを軽くあおる。

 数秒後、扉が開く音が聞こえた。


「よお! 〝ペニー〟カインド! ブルースの賭場でしくじったって聞いた────」


 直後に沈黙。訪ねてきた知り合いと少女が見つめ合う時間をラザルスは想像して、


「ラザルスぅうううううううう! お前! 一体どうしたその姿は! なんだ、罰として変な薬でも飲まされたか! うわあ! ちっこくなりやがって! 人種まで変わってやがる! 性別も! 年齢すら! なんてことだ! ラザルス! ラぁぁザルぅううううス!」


 家中に響いた大声に腹を抱えて笑った。

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