一  南の海に雪は降らない ③

 訪問者はよほど驚いたのかどたんばたんと足音が居間にまで届く。この家に住んでいるのはラザルスだけであるし、メイドも雇わないラザルスの偏屈さは皆が知るところなので、出てくるのがラザルスだと想像したところに小さな少女が出てきたから驚かされたのだろう。

 少女が戻ってくるまでしきりに驚いている声がずっと聞こえていた。居間の扉が開いて、少女とその後ろに続く大男が姿を現す。


「よう、ジョン」

「ああ、良かった! お前がラザルスだよな! お前がこんな可愛かわいらしい姿になっちまったら、もうどうしようかと!」


 入ってきたその男の名を、ジョン・ブロートンという。ラザルスの少ない友人のうちの一人だ。

 ラザルスが座っていることとは関係なく、見上げなければいけないほどの身長をした男である。隣の少女の倍近く身長があり、鍛え上げた筋肉によって肥大したジョンの上腕二頭筋は少女の腰よりも太い。

 昔は船乗りであった彼の肌は、一年中どんよりとした雲がまり続けるようなこの帝都だというのに、触れれば熱そうなほどの赤褐色をしている。潮風で傷んだ髪の毛は薄い金色で、度重なるによってゆがんだ顔はいかめしいが瞳は存外子供のように純粋だ。

 もつとも、今はその瞳の片方は膨れ上がったあおあざによって押し隠されてしまっていたが。昨日の仕事でしたたかに打撃を受けたのだろう。

 彼は、拳闘士ボクサーである。

 この時代の拳闘とはすなわち、スポーツに発展する以前のルール無用の路上試合だ。そしてこの時代の全てのものがそうであるように賭けの対象であり、それが縁でラザルスと知り合った。

 数日前にも会ったばかりだというのに、ジョンは数年ぶりの再会だといわんばかりに両腕を広げて笑みを浮かべる。


「しかし、心配したぞ! 〝ペニー〟カインドが珍しく大勝ちしてトラブル起こしたって! つーか、あの可愛かわいらしい子はどうした、一体誰だ! そうかフランセスと別れたと思ったらお前はそっちの方が趣味だったのか! 朝飯持ってきたから食っていって良いか! 昨日の試合に勝ってな!」

「せめて話は絞ってくれよ。後、フランセスには振られたんだよ」

「そうだったか? あっはっは! それはすまんかったな! だがフランセスはお前に振られたといっていたぞ!」

「お前のそのデリカシーのDもないところ、一周回ってすごいと思うわ」


 肺の底からいきこぼしてから、一片の反応も見せないまま立ち尽くしている少女へと視線をやる。興味もなさそうだが、一応紹介をしておく程度の気遣いはラザルスにもあった。


「この無駄に部屋の空間を圧迫するやつが、ジョン・ブロートン。それなりに売れてる拳闘士で、自宅を道場に改築したら住むところがなくなったとかいう底抜けの馬鹿だ」


 路上試合で名を挙げたジョンはこのままでは拳闘の文化が衰退してしまうと一念発起して、史上初めてとなる拳闘の道場を立ち上げた。

 それはいいのだが、自宅をそのまま道場に改築した上に居住空間を考えていなかったなどというボケをやらかし、現在は住む場所にも苦労しているありさまである。

 普段は道場で起居しているのだが家具もないため、食事は基本的に外で食べ、たまにこうしてラザルスの家で食べることもある。拳闘の興行であちこちを巡っているためにラザルスが直接目にする機会は少ないが、試合も道場も好調ではあるようだ。


のうまで筋肉に回したお陰でそこそこ強いから、拳闘の試合に賭ける時にこいつがいたらおすすめだぞ」

「はっはっは! プロの賭博師にそういってもらえるとはありがたいな!」


 ラザルスの皮肉交じりの言葉に気付いていないのか、気付いていて無視しているのか。どちらにしろそれをさらりと受け流せるからこそ、ラザルスと友人関係が続いているのは間違いなかった。

 話しかけられたからとりあえず首を動かしたというようなあいづちを打った少女をジョンは見やって、


「それでこのお嬢さんはどちら様だ? そうか、お前の遠いしんせきだな!」

「なんでそう思ったんだよ。…………昨日俺がドジ踏んでおおもうけしちまったことは聞いてるんだよな?」

「うむ! らしいな!」

「相変わらず帝都はうわさの巡りが早いな。まぁ、そんでブルースのデブに利益を返還する必要があった。そのまま返すんじゃ面子メンツが立たねぇから何か買おうと思って、買ったのがそれだ」

「…………」


 少女が無言で一礼をした。


「ほう! なるほど! お前の臆病も筋金入りだな!」


 というのがジョンの真っ先に出た感想だった。賭博師の三つの決まり、という形ではないが何度か一緒に賭場に行ったことのあるジョンは、ラザルスの『勝ちすぎない』という生き方を知っている。


「そんなにしゆくせずとも勝って良いだろうに! むしろ本気を出して勝つことこそが礼儀だ!」

「お前ら殴り合いの世界と一緒にすんなよ」

「そしてこちらのお嬢さんは奴隷であったか! つらい生い立ちであるな!」


 ジョンはなべつかみのように分厚いてのひらで、無造作に少女の頭をでる。抵抗するための力すら入れていないのか、少女の細い首が取れそうにぐらぐらと揺れた。


「それで、この子はなんという名前なのだ?」

「…………名前?」

「そうとも! 奴隷といえど名前はあるだろう! 挨拶をしたいのだが名前が分からぬのではいささか失礼だ!」


 ラザルスは視線を随分と下げて、フードに隠された少女の旋毛つむじの辺りを見た。視線は感じているだろうに、相変わらず少女はぴくりとも反応を見せない。


「そういえば、名前は何だったか。あの変な黒いやつも教えてくれなかったな」


 教える間もなく面倒くさがって扉を閉めたという事実を棚に上げながら、ラザルスはうそぶく。


「おい、お前、名前は……ってしやべれないんだったな」


 ラザルスの言葉に少女は最低限、目が合うくらいだけあごを持ち上げると、次に自分の服の襟の辺りを引っ張った。

 少女が着ている服といえば飾り気のないワンピースとその上からかぶっているフードばかりだったが、その襟には小さな文字が縫い付けられていた。

 恐らくは言語の違う文字を、音だけで英語に置き換えたものなのだろう。づらには違和感があるが、しかし音を拾い上げることは出来た。


「リーラ?」


 名前を呼ばれた少女──リーラは一瞬だけ痛みを覚えたように眉をゆがめてから、うなずく。


「リーラね。リーラっていうんだとさ」

「なんと! この子はしやべれないのか!」

「よく分からん。それなりの金を払って買ったはずなんだが、来たのはこれだった。見た目で値段がり上がるのは分かるが、しやべれないってのに高いのかね。しかも、妙におびえられてる」


 今こうしている間も、少女の瞳の中のどろどろとしたおびえはぬぐわれていない。

 奴隷として売られて来たのだから当然とも思えるが、それにしても相当根深いおびえ方のようにラザルスには思えた。


「そうか? 表情がないから分からんぞ!」

「お前はもう少し人の顔色を見た方がいい」


 ラザルスは肩をすくめる。殴り合いが仕事の拳闘士に、その技術が役に立つかは別として。

 単なる愚痴と自分への説明を併せたような言葉だったが、しかしジョンは一つうなると身をかがめた。あざによってつぶれている目を無理矢理開くようにしてリーラをのぞき込み、次に無造作に指で口を開けさせた。

 喉の奥まで眺めてから、


「ふむ!」

「そうしてると、悪霊ボダツハが子供をさらいに来たようだな。警察に捕まっても知らんぞ」

「あれだな! むしろしやべれないから高いたぐいの奴隷だな、この子は! どうやら喉は後から焼かれたらしい!」


 結論づけるようなジョンの言い方にラザルスは眉をひそめた。


「どういうことだ?」

可愛かわいらしい子供を、反抗しようという気持ちが湧かないほどに痛めつけてしつける! ついでに喉を薬で焼くし、文字は教えない! そうすれば何をしようがどんな扱いをしようが、決して逆らわないし、万一逃げても何の問題にもならない奴隷が出来るという訳だ!」

「…………随分詳しいな」

「結局のところ俺の売り物は暴力だからな! 幾らかのつながりが出来てしまうのは仕方がないのだ!」

刊行シリーズ

賭博師は祈らない(5)の書影
賭博師は祈らない(4)の書影
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