一  南の海に雪は降らない ④

 そういえば、とラザルスは思い出す。

 リーラを連れてきた時、あの黒い格好をした男は部下も連れずに一人だった。売り物の奴隷に逃げられかねず不用心なことだとは思ったが、そもそもとして『逃げない』ようにリーラがしつけられているという自信があったからのことだったのだろう。

 それにラザルスが寝ている間にも彼女には逃げるチャンスがあったというのに、彼女は一歩も動かないままでそこにいた。


「そういう風に、しつけられている、ね」

「怖がられて当然だろう、ラザルス! そんな子供を買うなど、どんな変態性癖の持ち主だったのだ!」

「別に欲しくて買ったんじゃねぇよ」


 妙に動きに乏しいのも、自発的について来なかったりするのも、『そう命じられていないから』というだけのようだ。だけ、と語って良いことではないが。

 彼女の瞳の中にあるおびえの理由もよく分かった。


(単に普通の性欲満たすだけなら、そこらに幾らでもいるしようで事足りる話だからなぁ。ここまで徹底的に他人と対話が出来ないようにしているんだから、いわれたら不味まずいようなことをするための奴隷ってことだ)


 おとぎばなしならあおひげで、最近ならばマルキ・ド・サド。リーラから見たラザルスはそういった、暴力と性愛を混同した変態に見えているのだろう。

 彼女はしつけられる過程で、自分が売られた先でどういう目に遭うのかをたっぷりと説明されてきたし、ずっと想像してきたはずだ。その上で反抗も逃亡も出来ないよう、徹底的に心を折られてきた。

 彼女の奴隷としての過去と、彼女が想像している未来が、自分自身をさいなんでいるのが見えるようだった。


(そりゃ、こんな顔つきにもなるか)


 うろのように空っぽなリーラの表情は、明日の朝を迎えることすらないかも知れないという境遇に対する、彼女の適応であり覚悟だ。

 ではラザルスが今何をいえば良いかと考え、


「…………どうでもいい」


 ほこりの臭いの移ったリキュールの余りを一息に胃の底まで流し込んだ。ともかくこうして奴隷の少女と見つめ合っていても何にもならないことだけは確かだった。


「つーか、そういえば俺の自己紹介もしてないな。ラザルス・カインドだ。賭博師をやってる」

「〝ペニー〟カインド、もう少し人付き合いが上手うまくなっても良いんだぞ!」

「うるせぇなぁ。────あぁ、〝ペニー〟カインドは単なるあだ名だ」


 分かりづらいながらも疑問が浮かんだリーラの視線にラザルスは答える。


「いっつも小銭ペニーだけ稼いで帰るからな。それがそのままあだ名になった。まぁ、馬鹿にされてんだな、臆病者だっつって」

何故なぜだ! いあだ名ではないか、〝ペニー〟カインドとは!」

「お前は話ややこしくなるから黙ってろ」


 無論、1ペニーだけ稼いだところで生活は出来ないのでもう少し稼いではいるが、常に少額の安定した勝ちを狙い、大勝ちとリスクを避け続けるラザルスの態度は余り賭博師らしいものではない。


「そんで昨日はうっかり勝っちまってだな…………」


 淡々とした口調でラザルスは昨晩に自分が陥った状況について、そしてそれの解決方法について語った。


「要するに、別に俺は奴隷が欲しくて買った訳でもないし、別に性欲を持て余してもいない。極端な話、お前なんてどうでもいい。そこまでは分かるな?」


 理解したかどうかは怪しいものだが、少女は首を縦に動かす。としわかく帝都育ちでもない少女にどこまで事情が伝わったかは分からないけれど、丁寧に説明するのはおつくうだった。


「安心して良いぞ! こいつは基本的に引き籠もりで性格が悪く無愛想だが、しようのなさでしようにすら嫌われるほどの面倒くさがりだ!」

けん売ってんなら買うぞ、おい」


 今の言葉のどこに安心できる要素があるというのだ。


「まぁそれでも、別にお前みたいなちっこいのにどうこうするほど俺は倒錯しちゃいない。逆にいえばクェーカーの連中みたいに奴隷の権利についてどうこう主張するほど優しくもないが」


 ラザルスは肩をすくめる。

 彼の奴隷に対するスタンスは、一般的な帝都の住人と変わらない。つまりそれほど興味がなくて、わざわざそんなことで悩むよりは目先の考え事が優先されるので、考えたこともないという程度だ。


「そこで質問なんだが、お前はこっちの方にしんせきはいるか? 血縁じゃなくて、頼る当てでもいいが。それか何か職を得るでもい」


 その三つの質問に等しくリーラは首を横に振った。

 予想していた事態ではあるが、残念ながらラザルスが街に彼女を放り出した場合、彼女は飢え死にするかもっと悪い状況になるかのどちらかしかないらしい。

 ラザルスは腕組みをしてソファの背に寄りかかり、天井を見上げてしばし悩んだ後で、顔に降って来たほこりのせいでくしゃみをした。


「…………そうだな。一応選択肢を用意してやろう」

「…………?」

「一つはこのまま俺の家で過ごす道。丁度、家事がまって誰か雇おうかと考えていた頃合いだ。メイド扱いで、給料も出そう。ただ俺はしよせんろくでなしだから、あんまり色んな保証がない。もう一つは俺のでどっか適当な場所に雇ってもらえるように頼む道だ。一応まともな場所は選ぶようにするが、その後に関しては知らん。つーか頼れるにまともなもんはねぇな。三つ目にこの両方を無視してこの家から出て行くというのもありだし、俺は止めないが、自殺と同じ意味だからめた方がいいぞ」


 三本立ててから一本を折り、残ったラザルスの二本の指を、リーラは昆虫のように無感動な視線で追った。


「意外だな! 『どうでもいい』といってばかりのお前だから、『どうでもいい』と外に投げ捨てて終わりだと思ったが!」

「ジョン。お前は、俺を血も涙もない賭け事のごんだと思ってないか?」


 ジョンは賢明にも返事をしなかったが、しかし彼の表情はラザルスの言葉が間違いではないとはっきり語っていた。

 ラザルスは舌打ちして、


「別に、どうでもいい。これが生きようが死のうが、俺には関係のない話だ。が、『どうでもいい』ってのは『死ね』って意味じゃない。幸福だろうが不幸だろうが俺にはなんら関わりがないが、俺にだって泣いている子供を見りゃ痛める良心くらいはある」


 賭けに負けた賭博師の末路は悲惨なものと決まっているが、今日までラザルスはそれほど負けずにやってこられた。そして勝ち続けている間の利益が大きいからこそ、賭博師をひようぼうする人間は後を絶たないのである。


「別に幸福だろうが不幸だろうがどうでもいい。どうでもいいから、目について手が余ってりゃ、助けることくらいある。どうでもいいから不幸になってくれなんていうやつは、どうでもいいって思ってないうそきだ」


 少なくとも自分のミスによって奴隷を買うことになったのだから、そのくらいの責任感はあるのだった。

 ジョンは心底意外そうにまばたきをしていたし、リーラは元からしやべることが出来ない。少しの間居間には沈黙だけが残って、ラザルスはもう一度舌打ちをした。

 ポケットから金貨を取り出す。


「決められないなら、こっちで決めちまうぞ。表が出たら俺が雇う。裏だったらどっかに行け」

「…………」


 リーラがうなずいたので、ラザルスは指で金貨をはじいた。

 ラザルスはどうでもよく、リーラは無表情で、その金貨の行方を一番はらはらとしながら追ったのは一番この場に関係のないジョンだっただろう。

 はらはらとしている、ということはジョンはこの家でリーラが雇われた方がいと考えているということだ。そのことが妙におかしくラザルスには感じられる。賭博師というのは青少年の教育にい職業でもないし、それ以前に明日には一文無しになっていてもおかしくない不安定なものなのだが。

 ともかく、澄んだ音を立てた金貨は落ちてきてラザルスの手の中へとすっぽり収まり、


「表か。良し、雇うとするか。お前の最初の仕事は自分の住むスペースを確保するために掃除だろうがな。あぁ、いやその前に飯を食うとしようか」

がつてん! 今日は羊肉のパイを買ってきたぞ! 三人になったら取り分が減るが、何、そこは歓談によって腹を膨らませようではないか!」

「…………」

刊行シリーズ

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