一  南の海に雪は降らない ⑤

 リーラは丸い金色の中に収まったエリザベス女王をぼんやりと眺めていた。

 その瞳の中に浮かぶ感情は変化していたが、しかし好意的な感情は相変わらず見えなかった。恐怖を浮かべるだけだった目に、さいしんと困惑が入り交じって色が濃くなっただけのことだ。

 一般的な奴隷の持ち主の人格をラザルスは知らないが、しかし彼女が想像していたよりはよほどマシな対応をしたという自信がある。

 ただその事実を単純に喜ぶには、彼女は絶望し過ぎたということなのだろう。

 雇われたという結果だけに反応したのか一礼をしたリーラの表情は最後まで欠片かけらも動くことがなく、ラザルスは思ったよりも面倒臭いやつかも知れないといきこぼした。


 賭場に行った翌日は大抵そうするように、その日の日中をラザルスは寝て過ごした。

 目をましたのは太陽が傾いて、帝都を血のように赤く染め上げていた頃合いだ。欠伸あくびをすると寝ている間に渇き切ってしまった喉が、外気に触れてばきりとひびれるような感覚があった。

 ソファから身体を起こしたラザルスは、自分の近くにのっそりと立っている影に気付いてぎょっとする。


「…………」

「うわ、びっくりした。何だよ、立ってたのかよ」


 ジョンは今日もまた拳闘の試合のためにすぐに帰って行ったので、そこにいるのはリーラである。

 まさか起きるまでずっとそこに立っていたのだろうか、と思ったが『まさか』と思ったことが間違いだろう。立っていたに違いない、というような雰囲気がその立ち姿には漂っていた。


「ワイン……」


 とラザルスがつぶやいたのは、単に寝起きで口が緩んでいるせいだ。彼は一人暮らしだったのだから、当然自分で取りにいこうとして、しかしその言葉にぱっとリーラが反応する。

 ラザルスが腰を半分ほどソファから持ち上げるよりも早く、彼女はキッチンに行って金属のカップにワインを一杯注いできた。差し出されたそれをラザルスは受け取って、


「ありがとう」

「…………」


 その言葉を、まるで聞き慣れない異国の言葉のようにリーラは首をかしげて聞いていた。

 いや、実際彼女は肌の色からして異国の人間であることは紛れもない事実なのだが、そういう次元ではなく、生まれて初めて感謝された幼子のような言葉の受け取り方だった。

 リーラの表情を見て何となく気まずくなったラザルスは、視線をらしてどっかりとソファに座る。


「立ってんのが面倒だったら、座って良いんだぞ」

「…………」

「なるほど、座れ」

「…………」


 ラザルスが一つの椅子を指差すと、リーラは椅子に座った。座面が今にも尻にみ付いてくるというような、とても楽そうではない浅い座り方だったが。

 一杯のワインを飲み干して、その酸味の強い後味が舌の上から消えるまでゆっくりと天井を見上げてから、ラザルスはいきこぼした。


「飯食いに行こうと思ったが、手持ちがおぼつかないな……」


 昨日の賭場でのもうけは、今は少女の姿をしてラザルスの前に座っている。仕事が上手うまくいかなかったのだから財布が薄くなるのは世の摂理だ。


(棚とか家中あされば当分食っていけるくらいの金は手に入るだろうが……)


 ラザルスが実際にそれをすることはないだろう。

 これまでも捨て置いてきた金品を、ただ生きていくためだけに拾い集めるような行為は、賭博師としてひどきようが足りない。一度そうして楽をすることを覚えたら、賭博の腕がび付いてしまうような気がした。

 それに拾い集めることにかかる手間と精神的な苦痛を思えば、賭場に行く方がラザルスにとってはよほど前向きで健全である。


「仕方ない、好きじゃないが、もうけながら飯を食うとしようか」


 ラザルスはソファから立ち上がり、上着を羽織った。眠る前に読んでいた本をそのポケットへと無造作に押し込む。


「ついてこい」

「…………?」


 リーラの表情は欠片かけらも動いていなかったが、一緒について行くという発想が彼女の中になかったことは、その瞳の感情からよく分かった。


「そんな不思議そうな顔をするなよ。この家にまともな飯なんてねぇぞ」


 ラザルスは全く料理が出来ないし、この家ではメイドなんて雇っていなかった。すなわちこの家のキッチンとは物置の別名でしかない。


「あぁ、そうだ」


 と玄関まで行ったところで、思い出してラザルスはつぶやく。

 彼がポケットから取り出したのは寝る前に持たせていた懐中時計だ。それをリーラへと押し付け、持たせる。


「お前を雇うとはいったが、別にお前が出て行きたいなら止めはしない。外に出て逃げたくなったら逃げていいし、その時に金がこころもとなければそれでも売れば足しにはなるぞ」


 リーラの瞳の中で多くの感情がぐるぐると渦を巻いていくのが見える。何気なく時計を受け取った彼女は、続いたラザルスの言葉を聞いて、その時計がまるで同量の金塊よりも重いというような持ち方をした。

 逃げ出すという希望。ラザルスの思惑が分からないさい。逃げたところでどうにもならないというていねん。多くのものが混じり合っているが、結局のところ『何故なぜ』という疑問を彼女は瞳で提示していた。


「別に。どうでもいいからな、お前のことなんて」


 ラザルスはそうとだけ答えて、玄関の扉を押し開いた。

 次の瞬間に、外の刺激が押し寄せてくる。それはわいざつけんそうに限らず、五感の全てでここが帝都であることを主張するような、奔流のようなそれだ。

 通りを走り回る椅子駕籠かごにな達の、道をふさぐ群衆へのせい。歩き売り達の、明らかにうそと分かる大仰な売り文句。ひづめの音とともに流れ込む馬の獣臭。衆目を引こうと着飾った女達は熱帯の植物を思わせるごくさいしきで、中には男でもそんな派手な色使いをしているやつもいる。

 一説には、帝都に来た田舎者が真っ先に驚くのが住人のせかせかとした足取りであるらしい。

 なるほど、こうしてみればどの人物も狭い帝都を、何をそんなに急いでというほどの足の動かし方で進んで行く。うかうかとしていれば跳ね飛ばされ、道の側溝に埋まってしまうだろう。


「…………!」


 そして異国から来たらしく、これまでまともに外出もしたことがない様子のリーラが外を見て驚くのも当然のことだった。

 彼女は玄関から外をうかがって、まず目を見開いた。それから何の祭りの日なのかというように彼女の視線が通りを端から端まで眺め回して、そして特に祭りでもなんでもなく、これが単なる帝都の日常であると理解してかまたどうもくした。

 朝もこちらに来た際に外出はしたはずなのだが、あの時は馬車かなにかを使ったのだろう。

 ラザルスが平然と外に歩み出るものだから彼女もそれを追って階段を下りたが、しかし直後に椅子駕籠かごかれそうになって跳び上がった。

 慌てて避けただけの仕草なのだが、無表情で鈍い動きばかりの彼女にしては珍しい、子供らしさを感じさせるものだったので、ラザルスはおやと思う。

 そしてラザルスがそう思ったことにリーラの方も気付いたようで、すぐにまた無感動な殻が彼女を覆ってしまった。

 その際に小さくリーラが身を震わせたことにラザルスはざとく気付く。


「お前、服それしか持ってないのか?」


 リーラの着ている服は麻製で、飾り気も防寒性もあったものではない。商品として奴隷を売ったのだから、奴隷以外の価値のあるものは何一つ付属させないというブルースの商人根性が透けて見える。

 曇りがちで冷え込むことの多い帝都で、その格好は無防備が過ぎる。機械的な仕草でリーラがうなずいて、ラザルスは首を振った。


「まぁ、どうでもいいか。ついてこい」


 ラザルスはすぐに歩き出す。その後ろをおっかなびっくりと感じながら、それを押し隠してリーラがついてきた。

 もしリーラが駆け出せば、逃げてしまうのは簡単だっただろう。

 帝都は余りにも人が多く、一度人混みに紛れてしまった誰かを捜し出すのは限りなく困難だ。そしてラザルスは彼女に伝えたように、わざわざリーラを追うほど彼女に執着がない。

 だが実際には、リーラは淡々とラザルスの後を追って来た。彼女に施された教育という名の痛みが、かせとして縛り付けているのが目に見えるようだった。

刊行シリーズ

賭博師は祈らない(5)の書影
賭博師は祈らない(4)の書影
賭博師は祈らない(3)の書影
賭博師は祈らない(2)の書影
賭博師は祈らないの書影