一  南の海に雪は降らない ⑦

「乗っかるのは許してやるから、胴元に賭けてこい」


 ふところから取り出した幾らかの金を、キースに渡す。キースは笑顔でそれを承って、一番大きな黒山へと向かって行った。

 やがて食事が運ばれてくる。酒場らしい乱雑さにあふれた、パンとチーズとソーセージの盛り合わせだ。それが、二人分。

 ぐうと鳴った腹を押さえてから、ラザルスは首をひねって後ろを見た。

 そこには当然のような顔をして、リーラが立っている。彼女がラザルスの所有している奴隷であることを考えれば『当然のような』というか『当然』なのかも知れないが、ラザルスは面倒そうに口を開いた。


「お前は、何でそこに立ってるんだよ。立って飯を食う趣味なのか?」

「…………?」

「二人分の飯が、お前には一体何に見えてるんだ?」


 リーラの視線は、今まさに人混みにまれてよく分からない方向へと流されているキースを見た。


「あれと飯を一緒に食うとか勘弁しろよ。面倒しか見えねぇ」


 キースは別段悪人ではないし、嫌っている訳でもないが、彼のその性質上、一緒に食事をするには不適切だ。


「あれ見ろ、あれ」


 とラザルスは流されて行ったキースを指差す。

 人混みに押されたキースはうっかり近くにいた女性のスカートの裾を踏んでしまい、その相手に対して柔らかな謝罪をしているところだった。人が多いのをいいことに、彼女にかすかに触れ、その距離を詰めている。

 こうして見ていても全くそうは思えなかったが、しかしあのスカートを踏んだのがわざとであることをラザルスは知っている。


「あいつと前に飯食った時は、その場に四人のあいつの『運命の相手』が現れて、経過は省略するが最終的にキースの頰骨にひびが入った」


 顔の輪郭がゆがんだキースは『僕って格好良過ぎて相手が引いちゃうことあるんで、こっちの方がいいかもしれませんね』などといっていたのをラザルスは思い出す。


「そういう訳でそこはお前の席だ」

「…………」


 リーラの感情は複雑過ぎて、ラザルスでも読み取るのは無理だった。


『座れ』といえば彼女は座るだろうし、『食え』といえば彼女は何も感じずに淡々と食事をするだろう。

 ただラザルスはそこまで彼女の面倒を見るつもりはないし、かといっていつまでも辛気臭いのもごめんだった。


「食いたきゃ座って食え。帰っても飯はねぇぞ」


 ラザルスがかけた言葉は、そういうものだった。

 それだけいって、ラザルスは自分の食事をさっさと始める。ナイフでぶっつりとソーセージを切って、まともにみもせずに飲み込んだ。この店で作っているソーセージなのだろう。酒場らしい濃く大味なソーセージは、見た目以上にずっしりとしている。


「…………」


 リーラはラザルスを見て、テーブルを見て、そしてまたラザルスを見た。

 朝食の席では結局『もう食べてきたから』というような意思表示をして食事に手をつけなかったので、リーラと食事をするのはこれが初めてになる。

 どういった考えが浮かんでは消えたのか分からないが、ラザルスが二本目のソーセージに取りかかる頃に、そろそろとリーラは対面の席へと座った。


「…………っ」


 彼女がその決断にかけた重さは、震えている彼女の喉からよく分かった。

 彼女はこうしゆだいに並んでいる海賊だってもう少し堂々としているだろうというような手つきで、そっとフォークとナイフをつまみ上げ、かちかちと食器にぶつけながらパンを口に運んだ。

 何もそんなにおびえなくともいいだろうにとラザルスは思うが、そんなにもおびえなければ生きていけない場所で彼女は生きてきたのだろう。

 ふと、昔知り合いだった南海出身の船乗りをラザルスは思い出した。

 よほど暑い地方からやってきたらしい船乗りだったその男と、ラザルスは一つだけ賭けをしたことがある。

 賭けの内容は、『今年雪が降るかどうか』だった。

 帝都は秋から冬にかけて雪が降るし、テムズ川は凍り付いて歩けるようになる。誰だって知っていることだ。ただしその誰だっての範囲に、その南海の船乗りは含まれていなかった。

 南海出身のその男は『雪』というものを見たことがなかった。空から氷が降ってくるだなんていうのは、その男にとってはあり得ないことだったのだ。

 雪を実際に知らない人間は、雪というものを現実に対して当てはめることが出来なかった。

 つまるところ、リーラは南海から帝都に連れて来られたのと同じだ。

 優しさのない環境にいた彼女は、周囲に敵意しか存在していない。無関心によって振るわれているラザルスの乏しい善意ですら、彼女は敵意で解釈することしか出来ない。


『目の前の男はこうして自分を連れ回して、きっとこの後ひどい目に遭わせるに違いない』。リーラはそう考えているのだろう。

 リーラの認識する世界に、優しさは存在していない。


(そういえば────)


 思考が過去にれていく。


(親に捨てられて、くそみたいな路地裏で生きていて、俺が最初に善意を教えられたのは一体いつのことだったか────)


 当たり前のように善意と敵意を識別して考えることが出来る自分を、ふいにラザルスは自覚した。変わらない日々の繰り返しの中で、それは成長したという自分に気付いた瞬間でもある。

 れた思考はすぐに現実に立ち戻ることになった。

 ひときわ大きな歓声が群衆から上がったからだ。リーラとラザルスの視線が同時にそちらを向いた。

 帝都で一番行われている賭け事が何であるか、というのを正確に調べるのは不可能だ。

 だがその候補の一つがこれから行われる、闘鶏であることだけは間違いない。

 動物同士を戦わせる、動物いじめと呼ばれる賭博は限りなく古く、そして有名なものだ。かのマクベスの中にすら『俺はくいつながれてしまった。もう逃げられない。熊のように、犬共と戦わねばならぬ』と敢然と宣言する幕がある。くいつながれた熊と、それに襲いかかる犬とはすなわち、熊いじめの賭博のことだ。

 そしてその分派である闘鶏もまた同様である。ヘンリー八世は自ら闘鶏場を一つ作らせ、ジェームズ一世は闘鶏官コツク・マスターと呼ばれる官位を制定してまでこの賭博に入れ込んだ。

 二羽の鶏を一つのステージで戦わせ優劣を決める競技は見た目に派手で分かりやすく、熊や雄牛のように高価ではないので開催が手軽で、ついでに血が見られる。暇を持て余した帝都の住人達が、どこの酒場でもこぞってこれを行うようになったのは当然の成り行きだろう。


「おーおー、頑張るなぁ」


 とラザルスがつぶやいたのは、白熱する二羽の鶏の争いと、そしてその近くで行われているのが見えるキースのナンパに対してだ。

 キースは賭博師を名乗っているが、その本質は情夫に近く、賭博そのものではなくそこで出会った女性達に食わせてもらうことを本業としている。こうして賭け事によって興奮する群衆の中では貞操も緩むのか、ナンパの成功率が上がるらしい。

 ああだこうだと口八丁で女性を丸め込んでいる手口は、はたから見ていると随分と面白い。


「これで赤の鶏が勝ってくれりゃ随分楽になるんだが────」


 賭けた分だけのリターンがあれば、少しの間は生きていくことができるだろう。ラザルスはぼやいて、それから視線を前に戻して動転した。


「…………」


 何もしやべらないのにはもう慣れたが、そのリーラの頰が一目で分かるほどに青ざめていたからだ。


「どうしたよ。飯が不味まずかったか?」


 と聞いてみるが、そういう様子ではない。

 リーラの視線は闘鶏の方を向いていて、そこにははっきりと恐怖が浮かんでいる。


「なんだかわからないが、怖いなら見なくていいぞ」

「…………」


 いってはみたが、それではリーラが視線をらさないことも理解していた。

 何をそんなに怖がっているのかとラザルスはしばらくの間いぶかしんで、それから視線の先のものを見直してようやく理解した。

 ラザルスは賭博師であるから──あるいは帝都に住んで長いからすっかり感覚もしていたが、しかし改めて見れば闘鶏というのは非常に野蛮な遊びといえるだろう。

 意図的に試合を早く進め、派手なをさせるために鶏のづめには金属が取り付けられている。興奮した鶏達がお互いにそれを突き刺し合うものだから、見る間に辺りはまみれになって、千切れた羽毛がばさばさと散っていた。

 動物同士がそうやって殺し合っているということが、単純に怖い。

刊行シリーズ

賭博師は祈らない(5)の書影
賭博師は祈らない(4)の書影
賭博師は祈らない(3)の書影
賭博師は祈らない(2)の書影
賭博師は祈らないの書影