王都デメララの中心街から少し離れたところにある王宮の周辺には、さまざまな役所の建物が集まる、いわゆる官庁街と呼ばれる場所があり、その官庁街の外れに工芸師の総元締めであるインダストリアン・ギルドの事務所がある。
その建物はこの王都デメララでは、王宮に次いで高くそびえたつ七階建ての建物だった。
千年前。人間が、まださまざまな技術を持っていた黄金時代に、基本の骨組みが作られたと言われるその建物は、今でこそ他の建物と変わらないレンガ積みの外壁になっているが、一歩内部に入ると、はるか昔に製法が失われた高分子化合体と呼ばれる物質で作られた内壁などが存在していると言われている。
そのインダストリアン・ギルドの建物の三階にある金属加工部、銃器製造課の受付窓口にいた女子事務員が、よく通る声で名前を呼んだ。
「ミント・ペパー・マージョラムさん!」
窓口の前にある廊下の壁際に置かれたベンチシートの上に、ちょこんと座って、ひざの上に置いた大きな革のバッグを抱え込み、不安げなまなざしを、受付窓口に注いでいた、どう見ても田舎から出てきた家出娘のような姿格好の女の子が、慌てて立ち上がった。
「はい!」
受付窓口の女性事務員は、ちょっと驚いたように目を見開くと、確認するように聞いた。
「ええと、銃器製造工房の見習い方クラスの、ミント・ペパー・マージョラムさんで間違いありませんね?」
家出娘のような女の子は、不安げに聞いた。
「そうですけど……何か書類に不備な点とか、あったのでしょうか?」
窓口の女性事務員は、女の子を安心させるために、微笑んで見せた。
「いいえ、違うのよ。銃器製造工房に所属している鉄砲鍛冶の人はいっぱいいるけど、女の人……それもあなたみたいな若い女の子は、珍しいから一応確認しておこうと思っただけ」
ミントと呼ばれた女の子が、ほっとしたように小さなため息をついたのを見た事務員は、もう一度安心させるように微笑みかけてから聞いた。
「親方の登録カードはお持ちですか?」
「あ、はい、父のカードですね。持って来ました。年金の受け取りと工房登録の延長には必要だと聞いてきましたので……」
ミントは、そう言うと、胸元の間から、手縫いらしい小さな布のポシェットを取り出して、その中から手のひらほどの大きさの金属の板を取り出して、窓口に差し出した。
その板を受け取った事務員が、小指の爪ほどの厚さを持つその板を、読み取り用の演算機のスリットに差し込んで、ロックを解除し読み取りレバーを押し下げると、読み取り機の中から無数の歯車が回りだすキリキリカチカチというやかましい音が聞こえてきた。
この登録カードの中には、何百枚もの細かな記録用歯車が組み込まれており、その歯車の歯の数と回転数によってさまざまな数値が記録されている。
その数値を機械式演算機に差し込んで読み取ることによって、インダストリアン・ギルドの中にある個人用記録データベースにアクセスすることができるのだ。
もし、どこかの歯車を入れ替えたりすれば、カードの中のすべての関連する歯車の数値が変わってしまうために、内容を書き換えたり偽造することは、まず不可能だ。
再度名前を呼ばれて、窓口に顔を出したミントに、歯車によって新しい数値が入力された登録カードを差し出しながら受付の事務員が言った。
「はい、これで手続きは完了しました。次の更新は三年後です。年金受領手続きは銃器製造課でやっておりますので、そちらへ行って、この新しいカードを提出して下さい。そっちは切り替えだけですからすぐに終わります」
カードを受け取ったミントは小さく頭を下げて言った。
「思ったより早かったので驚きました。半日かかるって言われて来たものですから」
受付の事務員は微笑んだ。
「新型演算機のおかげですよ。新型の絶縁体が発明されましてね。おかげでバンドール川の水力発電所から、デメララまでの送電に余裕ができたんだそうですよ……」
そう言ったあとで、事務員はミントの顔を覗き込んで聞いた。
「ミントさんは、このあとギルド会館にお泊まりですか?」
「はい、予約してありますけど……」
ミントの答えを聞いた事務員はにっこりと笑って答えた。
「そうですか、では、デメララの夜景を楽しみにしていて下さい。ランプやガスとは比べ物にならない、見事な電気照明を見ることができますよ。あれこそが文明と技術の灯りです」
その日の夕方。
ミントはインダストリアン・ギルドの本部ビルに併設して建てられているギルド会館の四階の一室の窓から、デメララの街並みを見下ろしていた。
赤紫色の夕暮れの空の下で、群青色に染まった街並みが、だんだんと闇の色に変わっていく中に、一つ、二つ、と有機交流照明の青白い灯りが灯ってゆく。
空気の流れに影響を受ける炎の光と違って、一切の揺らぎが存在しないその電気照明の灯りを見つめて、ミントは思わず小さなため息をついた。
……あの受付のお姉さんの言葉は本当だったわ。あれこそが文明と技術の輝きなのね……。
この世界にも電気についての基本的な知識を持つ人間は数多い。しかし、その知識を実際に生かして電気を作り出し、そして運用することのできる人間は少ない。
冶金と機械工作の技術により、発電機を作り、川の流れなどを利用した水車を使って電力を生み出すことはできても、電線を被覆し、放電のロスを少なくする効果的な絶縁体を作り出すことができないために、扱うことのできる電気エネルギーは、あくまでも小規模なものに限られているのだ。
バンドール川に作られた小さな堰と、そこに設けられた発電機によって生み出された電力は、照明と、そして小規模な工房に配分されるだけで終わってしまう。
かつて、鉄道を動かし、建物を輝かせ、冷気と熱気を自由に生み出したと言われている電気の力は、今は街の中にいくつかの灯りを灯すだけの力しか持っていない。
しかし、その灯りは、まさしく王都の灯りだった。
ミントは、視線を自分のいる部屋の中に移した。
その部屋は、地方に住んでいるギルドのメンバーが、さまざまな手続きのために王都デメララにやってきたときに宿泊する一人用の小部屋だった。
壁際には、皺一つなくピンと敷かれた清潔なシーツの上に羽毛布団が置かれたベッドが一つ。そして反対側の壁際にはサイドテーブルとシンプルな椅子が置かれている。
入り口脇のドアの向こうはシャワールームとトイレになっている。
……必要なものは全部揃っている合理的でシンプルな部屋。まさしくインダストリアン・ギルドのメンバーが使うために作られたような部屋だわ。
目の前にあるベッドに座ると、マットレスの中のスプリングが、ミントの体重を受け止めて、ゆっくりと沈み込んだ。
ベッドに座り込んだミントは、この部屋に来る前に出会った、インダストリアン・ギルドの幹部の一人、ダフ・ミルトンの顔を思い浮かべていた。
それは、カードの更新が終わり、年金受給の手続きのために銃器製造部門の事務所を訪れたときのことだった。
「ミント・マージョラムくん、君は……デメララに帰ってくる気はないかね?」
ギルドの幹部らしいその男は、手続きのために事務所を訪れたミントの顔を見るなり、いきなり話を切り出した。
驚くミントを見て、その太った中年男は笑った。