対決が決行されることが決まり、俺はホッとしていた。おそらく大丈夫だろうとは思っていたが、確信はなかったのだ。
先生に情報を伝えたのは俺だった。
早食い競争を禁止に仕向けたときと同様にこっそりと手紙を送っていたのである。内容は、ヤッチとダイキが早食い競争を行おうとしていること、クラス中が盛り上がっているので今回だけは認めてほしいということ、できれば先生に公平な立場で審判をしてほしいということだった。
あえて先生に情報を漏らしたのは、ダイキにズルされない状況を作り出したかったこともあったが、それ以上に、間違ったカタチで先生に情報が伝わるのを避けたかったのだ。何も知らされないまま他のクラスメイトから情報が伝わった場合、おそらく先生は良い気持ちはしない。禁止事項を守らない子どもには、心を鬼にして厳しく指導する気がした。だけど、事前に俺たちからお願いされていれば、きちんと尊重してくれる先生なのだ。
「ひとつだけ覚えておいてくれ。禁止されていることでもバレなければ良い、って考えは良くないからな。今回、例外的に勝負を認めるのは、先生のところに相談の手紙が届いたからだ。ダイキとヤッチは、そいつに感謝するんだぞ」
先生の言葉にクラスがざわついた。手紙の差出人が誰なのか、気になっているようだ。誰かが「ジャンヌ・ダルクだ」と言っているのが聞こえた。
「よし、堅い話はおしまい。俺が責任持って審判もやってやるからな」
先生が審判をすると聞いて、ダイキがかすかに動揺したように見えた。もしかしたら、ズルしようと考えていたのかもしれない。ただ、それが出来ないと分かっても、ホウレン草がある以上、負けることはないと思っているのだろう。まだ、余裕の表情だった。
五分後、最後に先生自らが公正を期すため二人の給食をよそって、準備が整った。
「ケーキを賭けた、男と男の真剣勝負だからな。二人とも恨みっこなしだぞ」
先生がダイキとヤッチに声をかける。二人は教室の中央で、向かい合わせに机をくっつけて座っていた。お互いの顔を見ながら勝負するなんて、初めてのことだろう。
クラス中が、バトル開始の合図を待っていた。今日は日直ではなく、審判である先生が《いただきます》の号令をかけることになった。そしてついに、その瞬間が来た。
「それでは、みんな一緒に、いただきます!」
バトル開始の合図を受けて、ダイキとヤッチが同時に給食に手をつけた。
今日の献立は、牛乳、ソフトフランスパン、クリームシチュー、ホウレン草のソテー。
ダイキはまず、ホウレン草のソテーの皿を持つと、スプーンで一気にかっこみ始めた。ホウレン草が嫌いなヤッチに、プレッシャーをかける意味があるのかもしれない。
クラスメイトから、「おおー!」という歓声が上がった。
一方、ヤッチはのんきにまだ牛乳にストローを刺しているところだった。そのマイペースさに、俺は思わず心の中でつっこんだ。
──そんなのは、モグモグしてる最中にしろよ。
スタートダッシュはダイキに軍配が上がったかに思えたが、意外にもダイキはホウレン草のソテーに苦戦していた。どうやら、一気にかっこんだのがいけなかったらしい。
ホウレン草のソテーは、汁気はあるものの、ホウレン草とベーコンが絡まって、なかなか飲み込めない強敵なのだ。ダイキは堪らず、牛乳へと手を伸ばす。
そんなダイキをよそに、ヤッチはちぎったパンをシチューにつけると、そのまま口に放り込んだ。一見のんきに味わっているように見えるが、これは上手い。パンにつけることで、アツアツのシチューを冷ます効果があるのだ。ヤッチは牛乳を織り交ぜながら、着実にパンとシチューを減らしていった。
ダイキは苦戦しながらも、一足先にホウレン草のソテーをたいらげた。そしてようやくパンとシチューに取りかかる。その頃、ヤッチはすでにパンとシチューをほとんど食べ終わっていた。残すは、ホウレン草のソテーのみ。俺はヤッチの勝利を確信した。
しかし、パンとシチューを完食したヤッチは、ホウレン草のソテーを一口、スプーンに載せたまま動きを止めてしまった。ダイキはここぞとばかりに、追い上げてくる。
俺は一瞬戸惑ったが、すぐにヤッチの演出だと気づいた。この土壇場で、ホウレン草が苦手だという演技をする余裕があったことに、俺は感心していた。意外だった。
クラスメイトから「ヤッチ、頑張れー」という声が上がった。ヤッチがホウレン草を苦手だと思い込んでいるのだ。誰も疑っている様子はない。
ダイキは先にホウレン草のソテーから片付けたことで、アツアツだったシチューが食べやすい温度になっていた。物凄いスピードで、ヤッチとの差を縮めていった。これまで、ズルをしていたとはいえ、ヤッチに何度も勝ってきただけのことはある。
俺は焦っていた。そろそろ、ヤッチも食べ始めないとマズイ。しかし、ヤッチは一向に動こうとしなかった。ダイキがホウレン草のソテーに手間取っていたのを、見ていなかったのだろうか。もう演技は充分だから。早く食べ始めないと手遅れになる。
「ヤッチ、もうリードはほとんどないぞ!」
俺は思わず叫んでいた。近くに座っていたサワコが、驚いたように見てくる。
俺の声が届いたのか、ヤッチは意を決したようにホウレン草を口へと運び始めた。
それを見て、クラス中から歓声が上がる。「そうだ、ヤッチ、頑張れー」
応援のボルテージは最高潮に達していた。みんな、給食の手は完全に止まっている。
ようやくホウレン草のソテーに取りかかったヤッチだったが、やはり相手は手ごわかったらしい。早食いチャンピオンのヤッチといえど、なかなか思うように減っていかない。
一方、ダイキのスピードは落ちない。残りのパンはもう二口ほどだ。
ヤバイ。このままじゃ、勝負は分からない。ここへ来て、ヤッチが負ける可能性も出てきてしまった。そうなれば、全てが水の泡だ。俺は必死で勝利を祈った。
頼む、ヤッチ!
結局、二人が最後の一口を口に含んだのは、ほぼ同時だった。あとは、先に口の中を空にしたほうが勝利ということになる。もう、どっちが勝ってもおかしくなかった。
クラス中が息を吞んだ。勝つのは、ドッチだ!
次の瞬間、誰もが予想しなかったことが起こった。
ヤッチが飲み干したと思われていた牛乳に手を伸ばしたのだ。そして残りの牛乳で、一気に口の中のホウレン草を流し込んだ。全てを飲み込んだのを確認して、先生が宣言した。
「ヤッチの勝ちだ」
クラス中が沸いた。まだ給食の途中なのに、ヤッチの周りにどっと駆け寄った。
ダイキは呆然としていた。負けることなど、全く想像していなかったのだろう。普段なら周囲を睨みつける場面だろうに、魂が抜けたように俯いていた。
アツアツのシチューを後回しにした作戦は悪くなかった。ただ、スタート直後にホウレン草のソテーをかっこんだのが、ダイキの敗因だろう。あそこで無駄に牛乳を消費せずに温存できていれば、勝負は分からなかった。ヤッチが負けることも充分にあったのだ。
途中、冷や冷やさせられたけれど、ヤッチのおかげで、ダイキ自身のチョコレートケーキを奪うことに成功したのだった。ありがとう、ヤッチ。
放課後、ヤッチが一人になるタイミングを見計らって、声をかけた。
「ヤッチ、やったね。でも、心臓に悪いって」
「へへ、ゴメン」
ヤッチは照れくさそうに笑った。ヤッチと言葉を交わすのは久しぶりだった。ダイキに怪しまれないように、なるべく会話をしないようにしていたのだ。