としれじぇ ジャンル《都市伝説》 ②

 ゴロリとがえりをうち、ムーの方へと向き直った瞬間、彼女はみようかんを覚えた、

 ベッドに腰をかけたムー。そのベッドの下には、当然ながらムーの二本の足が見える。

 だが、彼の穿いたうすのデニムパンツの間に、ルルの目は何か不自然な存在を感じたのだ。


 ──なんだろう。


 一瞬、世界を進める時間の中で、自分ひとりだけが取り残されたような気がした。

 周りの音のいつさいがつさいが耳に入らなくなり、自分の心臓が重く跳ねる音だけが、ルルののうずいを強く打ち鳴らす。

【気にしてはならない】

 彼女ののうの、恐怖をつかさどる神経がそう告げる。

【すぐに確認しなくてはならない】

 彼女のせいぞん本能はそう告げる。

 二つの本能がせめぎあう中、ルルはゆっくりと、ゆっくりとせんを下に落としていった。


 ムーの顔が見える。相変わらず、何を考えているのかわからないとぼけた笑顔だ。


 ムーの胸が見える。口から血を流した熊をあしらった、ファンシーながらの黒いTシャツだ。


 ムーの腹と、ベッドの奥の壁が見える。ポスターの一つもっていないさつぷうけいな部屋だ。


 ムーのベルトが見える。な金具がガチャガチャ付いていて、しつな彼のそうしよくの中で浮いている事この上ない。


 ムーのひざが見える。り切れたジーパンは、で汚れているのかファッションなのか。


 ここまでは、いつもと何一つ変わらなかった。


 ここまでは、確かに日常だった。


 今なら引き返せる。そう思っても、ルルのせんは止まろうとしない。

 ベッドの下へ、ベッドの下へと向かって静かにかいを落としていった。

 そして────


 最初に見えたのは、すすけたはだいろだった。


 ──いる。

 それだけで、ルルは確信する。


 ──いる……

 ──いる。

 ──いる!


 ──ベッドの下に──何かが……ッ!

 彼女は目を見開いて、ベッドの下に広がるやみの全体を視界に収めた。

 そこに存在したのは、れっきとした人間の全身だった。

 男だというのは、そのゴツゴツとした体格からひと目でわかった。ベッドの下のスペースをうつぶせになるようなかつこうで、顔をこちらに向けている。

 しかし幸いな事に、男の目を含めた顔のうえ半分はムーの足によってさえぎられていた。もしも目を合わせてしまっていたら、彼女はこの時点で悲鳴を上げていたかもしれない。

 そして……彼女ははっきりと見てしまう。

 男がうつぶせになっているその横に、鈍い色を放つ、赤いさびを染み付かせたおのが置かれているという事に。


 ──ベッドの……ベッドの下に、斧を持った……


 ルルの全身に電気が走り、彼女の体はかみなりに打たれたように一度だけけいれんした。

 ムーはそんな彼女のように気付かなかったようで、首だけで後ろを振り返って窓の外に目を向けている。

 少女の目から見て、ムーはいつもと変わらない日常の中に溶け込んでいた。

 だが、今の自分は日常から完全にかくされてしまっている。

 ベッドの下にいる『存在』に気付いてしまった瞬間から────

 それから後は、ルルはおのれの目に映る全ての物が恐怖の対象となった。

 ベッドの下のすきに、誰かがいる。その事実だけを元に、彼女を取り巻く世界の全てが造りかえられる。

 ムーが住む広い洋間のあるアパート。

 楽しい一時を過ごすはずだったその一室は、今やげん世界のかんごくの中のように感じられた。

 窓が遠い。

 窓もドアも、なんと遠いのだろう。

 外の世界が遠く感じられる。

 冷房の風が背中をざんこくになでていく。その風の冷たさに、ルルはようやく自分を取り戻した。


 ──え……。


 ──……誰!?


 最も単純にして、最も重要な疑問。

 気のせいなのではないか、目のさつかくなのではないか。何度もそう思おうとしたが、何度目をらしたところで、男は確かにベッドの下に存在している。

 ピクリとも動かない男を見て、ルルは静かに視線を上げていった。

 そこでは、ムーがいつも通りの日常のままに存在して、ルルに向かって何気ない笑顔を浮かべていた。

 その笑顔が、ルルの恐怖をわずかにやわらげる。だが、恐怖をこくふくしたわけではない。あくまで一瞬とうさせたに過ぎなかった。

 な事に、ルルは男が手に持っているおのに関しては、それほど恐怖を抱かなかった。

 彼女が何より恐れたのは、男がベッドの下に存在しているという『事実』であり、その時点でルルは既に生命の危機を感じているのだ。

 自分が未だに悲鳴をあげていないのが不思議なぐらいだったが、ルルは冷静なこうを続けられる自分の脳に感謝した。


 彼女は天井に目を移しながら、数秒の間に自分達がおかれている事態を把握しようとする。

 ベッドの下の男が何者なのか、ルルはすぐに思い当たる事ができた。

 ──さっき、ニュースでやってた───

 この付近に現れた、正体めいの連続殺人

 きようおののようなものらしいという事を、電気屋に並んだテレビが伝えていた。

 冷静に考える事によって、ルルの中には先刻までとは違う恐怖がうずき始める。

 『わからない物』に対する本能的な恐怖から、『明確な命の危機』への理性的な恐怖。

 ──どうしよう。現実なの? これは本当に現実なの? どうして、どうしてよりによって私達のところに……っ!

 ルルは、それでも冷静な心を保っていた。まだ夢かもしれないというかすかな希望が残っていたからだろうが、その冷静さが、かえってここが現実であるという事を確信させる。

 悲鳴を上げてしまおうか、すぐに立ち上がって逃げるべきだろうか。

 殺人鬼はベッドの下だ、い出るまでに時間がかかるだろう。そのすきに逃げる事が──

 ──本当に、できるだろうか。

 自分がここで悲鳴を上げたとして、ころがっている状態から立ち上がって、ドアまで駆ける。

 腰を抜かしたりはしていないだろうか。悲鳴を上げることによって、パニックに陥ったりはしないだろうか。

 ──何より、ムーはどうなるだろう。私の悲鳴を聞いただけで、あるいは『逃げて』と叫んだだけで、すぐに動いてくれるだろうか。

 ベッドの下から、殺人鬼が這い出すより前に。

 そもそも、アパートのドアから逃げたとしても、どこまで逃げればいいのだ?

 この付近には交番は無く、よりのコンビニも走って5分以上はかかる距離だ。

 付近はもともと人通りが少ない上に、日も落ちている。

 しであるかのように、このアパートにはムー以外の住人は存在しない。

 もしも、もしも殺人鬼の足の方が速かったら。

 そこまで考えて、ルルは自分がうかつに悲鳴を上げなかった事にあんした。

 ──ひつだんで伝えるというのはどうだろう。

 そうも考えたが、もしも文字を書いている途中で『なにを書いてるの?』とでも問われたら大変な事になる。

 何とかして、ベッドの下の殺人鬼にられないように外に出なくては────


「? どうしたの、ルル」


 先刻からちんもくを続けるルルに、ムーがそうに声をかける。


「え? ああ、うん。なんでもないよ。ちょっとボーッとしてただけ!」

「……そう」


 せいいつぱいの作り笑いを浮かべるルルに、ムーはいつも通りの笑顔でうなずいた。

 ルルは呼吸を整えながら、今後自分がしなければならない事を考える。

 ──とにかく、殺人に気付かれたらだ。

 ベッドの下にかくれているからには、恐らくはものったところをゆっくりと殺すつもりなのだろう。

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