今まで『命の危機』に直面した事が無く、自分の命の価値を知らずに来た少年は、暗く狭い空間の中で、ひたすら自分の境遇を呪い続けた。
だが、少年はまだ知らなかった。
本当の恐怖と絶望は、自分の足元にこそ存在するという事を────
☆
「そういや兄貴」
「なんだ」
「こないだホラ、都内で過激派クズレの愚連隊と悶着起こした時に、兄貴が回収したあれ……どこにやったんすか?」
「ああ、ハッパか?」
──ハッパ?
麻薬か何かの事だろうか。大麻の葉。ありえるな。
斧少年は勝手に自分の中で結論づけようとするが、角刈り達の会話がそれを許さなかった。
横向きに隠れている少年の肩口に、ベッドの板越しにバンバンと布団を叩く衝撃が伝わってくる。
「あれなら、このベッドの下に隠してあるぜ」
──ッ!!
まずい事になってきた。
斧少年は背中に汗を流しながら、手の中の斧を強く握りしめる。
恐らく、先刻からジャマになっている足元の箱の事だろう。確認の為にスキンヘッドが下を覗けば、その時点で自分の存在がバレてしまう。
そうなれば──日本刀を相手に斧で勝てるのか? 恐らく無理だ。
──あ、足を──ばれた瞬間にこのベッドに腰掛けてる奴の足を切ろう。その隙に逃げるか、それとも二人とも始末してしまうかだ。
問題があるとするならば、この狭いベッドの下から斧を振り回したとして、動けなくなる程の傷を相手の足に刻み込む事ができるのだろうか?
唐突に襲い掛かった危機に、斧少年は自分の足がガクガクと震えているのに気が付いた。
──怖い。怖い。怖い。駄目だ駄目だ駄目だ。
再び、斧少年に恐怖の波が押し寄せる。
もしも今ベッドの下を覗かれたならば、何も動く事ができないまま、情けない悲鳴をあげるハメに陥ってしまうだろう。
だが、スキンヘッドはベッドの下を覗こうともせずに、目を見開いて大声をあげる。
「なッ……だ、大丈夫なんすか!? こんな夏場にそんなとこに置いといて!」
「大丈夫だよ。だから日のあたらねえベッドの下に置いてるんじゃねえか」
「い、いや、でも、爆発するかもしれねえもんを、そんな自分の部屋に置いとかなくても……」
「組の方に置いとくわけにもいかねえだろが」
──……爆発?
会話の中に出てきた物騒な単語を聞いて、斧少年は自分の考えが間違っていた事に気が付いた。すなわち、ハッパとは麻薬などのことではなく──
──ハッパ……発破。つまり──
その結論が導き出されると共に、彼は自分の足元にあるものから、ヤクザ以上の恐怖の衝撃を受け取った。
────ダイナマイト!?
自分のおかれた状況に、危機が一つ上乗せされた。
爆弾の規模や威力がどんなものかは解らないが、スキンヘッドの反応を見るに、かんしゃく玉程度ではない事は確かだ。
少年は斧を握りしめたまま、自分を取り巻く世界が更に変貌していくのを感じている。
身を取り巻く全てのものが『死』に隣接している、冷たく重い感覚。
自分が身を潜めるベッドの下の狭い空間が、そのまま己の棺桶となってしまったかのような錯覚に陥り始める。
──逃げなくちゃ。
その恐怖から逃れる為には、別の恐怖を克服する必要がある。
彼は斧を強く握り、目の前にいる二人の恐怖を排除し、この部屋から脱出する事に。
それは、今まで味わったことの無い緊張だった。恐怖への緊張ではない。何かを覚悟することによる緊張感だ。
──やるぞ……やるぞ、できる、僕はできるんだ。
挫折を回避して、自分の力以下のステージで勝負することに慣れてきた少年にとって、これから行おうとしているのは明らかに分の悪い賭けだった。
ゲームで言うならば、常にイージーモードでプレイしてきた人間が、初プレイのゲームをいきなりハードモードで始めるようなものだ。
そして、そのゲームには自分の命がかかっている。
──できる、僕はできる。こんな爆弾の下からはオサラバするんだ。
少年が再び斧を強く握りしめた瞬間──
ゲームの難易度が、格段に跳ね上がる。
チャイム音。
単純に『ピンポン』という音で表現される、単純極まりない電子音が鳴り響き──
「どうも、芝里さん」
「頼まれてた酒、持ってきましたよ」
数人の男達──スキンヘッドと角刈りほど露骨ではないが、やはりカタギの人間には見えない男達が、有無を言わさずにドヤドヤと入り込んできた。
「おお、入れ入れ」
「こっちの酒は、若頭からの差し入れっす」
「いいのによ……カシラも世話焼きだな」
そのまま男達は洋間の床に座り込み、ベッドの下から出口までの道を塞ぐような形で酒盛りを始めてしまった。
──増えた。
その単純な事実は、斧少年の初めての覚悟を打ち砕くには十分すぎる威力だった。
そして──少年にとって、もっとも長い一日は続いていく。
☆
全員でタバコをふかし始めながら、無法者達はささやかな酒宴を繰り広げる。
部屋の中があっという間に煙で白くなり、ベッドの下にまでヤニの匂いが染み込んでいた。
少年は咳き込みそうになる衝動を必死に抑えながら、男達の様子に全神経を集中させる。
「で、そのガキどうしたんすか?」
「簡単なもんよ、ちょっと瞼を切ってやっただけでワンワン泣き出してよ。そのままエンコふっ飛ばしてやろうとも思ったが……」
「あぁ、哀川翔がこの前見たVシネで着てたみてえなスーツ、ネットで安く手に入って──」
「うちの組のシノギじゃ、クルコダイルとかは無理だしよ……知ってっか? 若頭のつけてるベルトも本革じゃねえんだぜ」
「ンな事聞かれたらぶっ殺されるぞ」
「駅前のノミ屋、トンズラしたって知ってるか」
「最近カスリの入りが悪くてよ」
酒に酔い始めたのか、無法者達はだんだん会話が嚙み合わなくなってきている。
話どころか男達の操る単語の意味さえ解らず、少年は斧を握りながらただ小さく足を震わせているだけだった。
──なんで、なんでこんなことに。
だが、逆に言えば、これはチャンスとも言えた。このまま男達が酔いつぶれてしまえば、自分はその後に悠々とベッドから抜け出して、この危険な空間から逃げ出す事ができるのだ。
その為には、最後まで自分の存在が気付かれない事が絶対条件だ。
──息を殺せ、絶対に存在を気取られるな、僕。無だ、無になるんだ。
不可能な望みを頭の中で反復しながら、少年は必死に己の恐怖を克服しようとしていた。
──なんとしても、なんとしてもこの場を切り抜けなくては。
絶大な恐怖の半分は、目の前にいるカタギではない者達。もう半分は、自分の足元にある死への片道切符。
ベッドの下の一部を占拠するダンボール箱の中には、男達が言うところのハッパ──ダイナマイトが詰め込まれているのだ。
だが、時間が経つに連れて爆弾に対する恐怖は薄まっていった。
──焦る事は無い、火が無きゃ爆発することはないんだ。
先刻はとにかく一歩でも遠くへ逃げだしたかったが、考えてみれば火のない爆弾よりも目の前のヤクザ者達に危機を感じるべきなのだ。