緊急事態《メイデイ》 ④

 そして、息をもつかせぬ大冒険が始まった。

 足音をしのばせて角を曲がり、ゆかけ目を飛びえ、階段をのぼったりりたりするたびにドキドキした。行動がどんどんだいたんになる。地底のハイウェイを渡り、地下鉄の駅を通りけ、床のけ目にトーチを落としてのぞき込み、通路にみ出した海水の水まりをとつした。目にうつるものすべてが、耳に聞こえるものすべてが、空気さえもが秘密の香りをはらんでいた。

 ダクトの風のうなりの中に、吸血コウモリの大群の羽ばたきを聞いた。

 化学火災のこんせきの中に、ばんじんき火のあとを見つけた。

 高圧ケーブルほども太さのある毒ヘビとそうぐうし、とうの末に勝利を収めた。

 いつきよに3クラスもレベルアップした。

 ぼうけんしやの宿を見つけたので、ひと休みすることにした。折れてよこたおしになった大きな柱のかげでトーチを燃やし、ハルカは床にしゃがみ込んで、メモ帳の地図を見ながらチョコバーをかじる。地下道に入ってから、そろそろ一時間くらいになる。ずいぶん歩いた気がするが、財宝はまだ見つからない。手がかりを求めて、ハルカは地図をじっと見つめた。

 ふと疑問が浮かぶ。

 どうして、こんなにも複雑な構造をしているのか。

 こうして改めて地図を見てみると、意味のないぶんや曲がりかどがたくさん目につく。今まで歩いてきた道を思い浮かべてみるが、たような分かれ道をいくつもけてきたせいで、どこをどう歩いてきたのかうまく思い出せない。地図を書いたりこうりようの印を残したりしていなかったら、最初の入り口にはもう絶対にもどれないだろう。まるで、わざとわかりにくい構造に作られているかのようだ。おまけに、どの道もただでさえくらなのに、太い柱が通りのなかに並んでいたり、壁から張り出していたりするせいで、ライトがあっても見通しが悪かった。なぜこんな不便な作りになっているのだろうか。そんなの想像できないけれど、ここはかつて、何万という人々が毎日行き来する場所だったはずだ。

 チョコバーを食べ終わり、包み紙をポケットにしまう。

 そういえば。

 リーブスから、こんな話を聞かされたことがある。カンヅメ鉱山のような地下せつが迷路のような構造になっているのは、市街戦を想定した一種のようさいとして設計されているからだ、と。壁がでこぼこしていたり意味のない柱があったりするのも、味方の兵隊がそのかげかくれててつぽうったりできるようにするためらしい。敵に簡単にせんりようされたりしないように、めにくく守りやすい作りになっているのだという。

 あるいは、この辺りもそうなのかもしれない。

 だとすれば、気をつけなければいけない。

 わるものほんきよは近い。

 さあ、ぼうけんの日々再びだ。ハルカは出発することに決めた。親切な宿の主人はハルカの手当てをしてくれた上に、毒消し草まで分けてくれた。もう毒ヘビは敵ではない。夜光塗料の目印を残し、主人に別れを告げ、ハルカはバックパックをい直して、

 足音などまったく聞こえなかった。

 立ち上がろうとしたしゆんかんに、その犬に気づいた。

 そのとき、そいつはトーチの光の中、ほんの3メートルほどのところにいた。でっかくてせていて黒っぽくて毛並みがガサガサしていて耳のたれた、世の中の何もかもが気に入らないという顔つきの犬だった。

 声を上げることもできず、こしがくだけてその場にしりもちをついた。

 パニックのいつしゆん、思考と行動がめちゃくちゃに混線した。とっさにマグライトをさぐりし、犬にライトの光を浴びせ、やってしまってからそれがこうげきさそうことになるかもしれないと思って小さく悲鳴をもらした。犬は光に顔をしかめ、飛びのくようなそぶりを見せたが逃げはしない。のどおくからかすかなうなり声を上げ、口のはしが少しだけめくれ上がって、きようあくきばがぞろりとのぞく。

 コンセントをかれでもしたように、ハルカは身動きひとつできなかった。

 あせいつてき落とせば、指一本動かせば、犬はそくに飛びかかってくるように思えた。

 トーチの光がちらつき、いやおうもない、息がまるようなにらみあいが続いた。

 自分をおそって食べるつもりなら、もうとっくにやっているはずだ──そう思えるようになるだけの時間が過ぎた。犬はハルカをじっと見つめている。たいもうさかて、けいかいしん身体からだじゆうにみなぎらせてはいる。しかし、身体全体の表情のどこかに、何かに迷っているような、何かを確かめようとしているような、そんなふんがある。

 この犬には、積極的なこうげきの意志があるわけではないのだ。多分。

 なぜそんなことがわかるのかは、わからない。

 ハルカは勇気をしぼり、カタツムリにも劣るゆっくりとした動きで身体の向きをずらし、両足の間にバックパックをろした。バックパックのファスナーをける。

 手をっ込むしゆんかんが一番こわかった。

 チョコバーをつかみ、ゆっくりと引き出して、ほら、と差し出して見せた。

 犬の関心がチョコバーに集中した。長い鼻をチョコバーに向け、すん、空気のにおいをかぐ。犬によく見えるように包み紙をむき、半分に折って、片方をひと口食べて見せた。もう片方を犬の方にそっと投げた。犬の正面に投げるつもりでねらいが左に外れたが、犬は、まるで糸でつながっているかのような熱心さで、ころがるチョコバーを目で追った。すぐにハルカに視線をもどすのだが、チョコバーの存在を身体中で気にしている。

 ようやくハルカのきようしんが薄れてきた。


「   」


 声がかすれていた。つばを飲み込み、小声で、


「あげる。チョコ好き?」


 犬がそわそわし始めた。自分は何か大切なことをしようとしていたのに、チョコバーが食べたくてどうしようもないという気持ちと、そんなものでかいじゆうされるものかというがごっちゃになっている。なぜそんなことがわかるのかは、やっぱりわからなかった。ひょっとすると自分は昔、犬をったことがあるのかもしれない──ハルカがそう思ったしゆんかん

 犬がチョコバーに鼻を近づけ、ついに食べた。

 ほんの二、三度くだいただけでまるみしてしまう。期待に満ちた目で見つめられて、ひと口かじった残りも投げてやった。ぺろり。ほかに食べ物はないかとバックパックをあさっていると犬が近寄ってきて、手元に鼻先をっ込んでせわしなく鼻をならした。鼻息がくすぐったい。きつい毛皮の匂いも、不思議と不快には思わなかった。

 ──この子いたいって言ったら、みんな、何て言うかな。

 ふと、そんなことを考えた。

 みようなところだ。そこまで甘えてはいけないという気もする。あまりいい顔はされないかもしれない。

 でも、きちんと世話をすると約束すれば。

 食べ物は、自分の分をわけてやってもいい。

 いざとなったら、みんなにはないしようという手もあるし。


「一緒に来る?」


 頭をなでてやったら、お返しにかおじゆうめ回された。現金な性格であるらしい。ついさっきまであんなにカリカリしていたのがうそのような、まるでずっと前から友達だったかのようななれなれしさだ。


「じゃあ、名前を決めなくちゃね」

刊行シリーズ

鉄コミュニケイション(2)チェスゲームの書影
鉄コミュニケイション(1)ハルカとイーヴァの書影