そして、息をもつかせぬ大冒険が始まった。
足音を忍ばせて角を曲がり、床の裂け目を飛び越え、階段を昇ったり降りたりするたびにドキドキした。行動がどんどん大胆になる。地底のハイウェイを渡り、地下鉄の駅を通り抜け、床の裂け目にトーチを落としてのぞき込み、通路に染み出した海水の水溜まりを突破した。目にうつるものすべてが、耳に聞こえるものすべてが、空気さえもが秘密の香りを孕んでいた。
ダクトの風のうなりの中に、吸血コウモリの大群の羽ばたきを聞いた。
化学火災の痕跡の中に、野蛮人の焚き火の跡を見つけた。
高圧ケーブルほども太さのある毒ヘビと遭遇し、死闘の末に勝利を収めた。
一挙に3クラスもレベルアップした。
冒険者の宿を見つけたので、ひと休みすることにした。折れて横倒しになった大きな柱の陰でトーチを燃やし、ハルカは床にしゃがみ込んで、メモ帳の地図を見ながらチョコバーをかじる。地下道に入ってから、そろそろ一時間くらいになる。ずいぶん歩いた気がするが、財宝はまだ見つからない。手がかりを求めて、ハルカは地図をじっと見つめた。
ふと疑問が浮かぶ。
どうして、こんなにも複雑な構造をしているのか。
こうして改めて地図を見てみると、意味のない分岐や曲がり角がたくさん目につく。今まで歩いてきた道を思い浮かべてみるが、似たような分かれ道をいくつも抜けてきたせいで、どこをどう歩いてきたのかうまく思い出せない。地図を書いたり夜光塗料の印を残したりしていなかったら、最初の入り口にはもう絶対に戻れないだろう。まるで、わざとわかりにくい構造に作られているかのようだ。おまけに、どの道もただでさえ真っ暗なのに、太い柱が通りの真ん中に並んでいたり、壁から張り出していたりするせいで、ライトがあっても見通しが悪かった。なぜこんな不便な作りになっているのだろうか。そんなの想像できないけれど、ここはかつて、何万という人々が毎日行き来する場所だったはずだ。
チョコバーを食べ終わり、包み紙をポケットにしまう。
そういえば。
リーブスから、こんな話を聞かされたことがある。カンヅメ鉱山のような地下施設が迷路のような構造になっているのは、市街戦を想定した一種の要塞として設計されているからだ、と。壁がでこぼこしていたり意味のない柱があったりするのも、味方の兵隊がその陰に隠れて鉄砲を撃ったりできるようにするためらしい。敵に簡単に占領されたりしないように、攻めにくく守りやすい作りになっているのだという。
あるいは、この辺りもそうなのかもしれない。
だとすれば、気をつけなければいけない。
悪者の本拠地は近い。
さあ、冒険の日々再びだ。ハルカは出発することに決めた。親切な宿の主人はハルカの手当てをしてくれた上に、毒消し草まで分けてくれた。もう毒ヘビは敵ではない。夜光塗料の目印を残し、主人に別れを告げ、ハルカはバックパックを背負い直して、
足音などまったく聞こえなかった。
立ち上がろうとした瞬間に、その犬に気づいた。
そのとき、そいつはトーチの光の中、ほんの3メートルほどのところにいた。でっかくて瘦せていて黒っぽくて毛並みがガサガサしていて耳のたれた、世の中の何もかもが気に入らないという顔つきの犬だった。
声を上げることもできず、腰がくだけてその場に尻もちをついた。
パニックの一瞬、思考と行動がめちゃくちゃに混線した。とっさにマグライトを手探りし、犬にライトの光を浴びせ、やってしまってからそれが攻撃を誘うことになるかもしれないと思って小さく悲鳴をもらした。犬は光に顔をしかめ、飛びのくようなそぶりを見せたが逃げはしない。喉の奥から微かなうなり声を上げ、口のはしが少しだけめくれ上がって、凶悪な牙がぞろりとのぞく。
コンセントを抜かれでもしたように、ハルカは身動きひとつできなかった。
汗一滴落とせば、指一本動かせば、犬は即座に飛びかかってくるように思えた。
トーチの光がちらつき、否も応もない、息が詰まるようなにらみあいが続いた。
自分を襲って食べるつもりなら、もうとっくにやっているはずだ──そう思えるようになるだけの時間が過ぎた。犬はハルカをじっと見つめている。体毛を逆立て、警戒心を身体中にみなぎらせてはいる。しかし、身体全体の表情のどこかに、何かに迷っているような、何かを確かめようとしているような、そんな雰囲気がある。
この犬には、積極的な攻撃の意志があるわけではないのだ。多分。
なぜそんなことがわかるのかは、わからない。
ハルカは勇気を振り絞り、カタツムリにも劣るゆっくりとした動きで身体の向きをずらし、両足の間にバックパックを下ろした。バックパックのファスナーを開ける。
手を突っ込む瞬間が一番恐かった。
チョコバーをつかみ、ゆっくりと引き出して、ほら、と差し出して見せた。
犬の関心がチョコバーに集中した。長い鼻をチョコバーに向け、すん、空気の匂いをかぐ。犬によく見えるように包み紙をむき、半分に折って、片方をひと口食べて見せた。もう片方を犬の方にそっと投げた。犬の正面に投げるつもりで狙いが左に外れたが、犬は、まるで糸でつながっているかのような熱心さで、転がるチョコバーを目で追った。すぐにハルカに視線を戻すのだが、チョコバーの存在を身体中で気にしている。
ようやくハルカの恐怖心が薄れてきた。
「 」
声がかすれていた。つばを飲み込み、小声で、
「あげる。チョコ好き?」
犬がそわそわし始めた。自分は何か大切なことをしようとしていたのに、チョコバーが食べたくてどうしようもないという気持ちと、そんなもので懐柔されるものかという意地がごっちゃになっている。なぜそんなことがわかるのかは、やっぱりわからなかった。ひょっとすると自分は昔、犬を飼ったことがあるのかもしれない──ハルカがそう思った瞬間、
犬がチョコバーに鼻を近づけ、ついに食べた。
ほんの二、三度嚙み砕いただけで丸呑みしてしまう。期待に満ちた目で見つめられて、ひと口かじった残りも投げてやった。ぺろり。他に食べ物はないかとバックパックをあさっていると犬が近寄ってきて、手元に鼻先を突っ込んでせわしなく鼻をならした。鼻息がくすぐったい。きつい毛皮の匂いも、不思議と不快には思わなかった。
──この子飼いたいって言ったら、みんな、何て言うかな。
ふと、そんなことを考えた。
微妙なところだ。そこまで甘えてはいけないという気もする。あまりいい顔はされないかもしれない。
でも、きちんと世話をすると約束すれば。
食べ物は、自分の分をわけてやってもいい。
いざとなったら、みんなには内緒で飼うという手もあるし。
「一緒に来る?」
頭をなでてやったら、お返しに顔中を舐め回された。現金な性格であるらしい。ついさっきまであんなにカリカリしていたのが噓のような、まるでずっと前から友達だったかのようななれなれしさだ。
「じゃあ、名前を決めなくちゃね」