犬は答えない。バックパックに鼻面を突っ込んで中身をあさるのに忙しい。ハルカは名前を考え始めた。黒いからクロ。野犬だったからノラ。うーん。名前名前。もっとかっこいい名前。犬がバックパックに顔を突っ込んだまま、わふ、と吠えた。まさか急かされているわけでもないだろうが、ハルカは一生懸命になって考える。名前は、犬の名前は
ひしゃまる
自分に何が起こったのか、ハルカにはわからなかった。
突然、胸の鼓動が不規則になって、呼吸まで苦しくなった。正体不明の衝撃に頭の中を埋め尽くされて、一瞬何も考えられなくなった。バットで頭を殴られて、正確にその痛みだけを消去できるとしたら、ちょうどこんな感じがするかもしれない。
ひしゃまる。
それが、何なのか、わからない。
それが名前であるという確信すらない。何のイメージも伴わない、「ひしゃまる」という音だけがそこにある。考えたら出てきた、という気はしない。ずっとそこにあったものに今まで気づかなかった、という感覚に近い。
少しずつ、
収まってきた。
呼吸が楽になってきた。鼓動も安定してきた。寒くもないのに身体が少し震えていた。自分は病気かもしれないと思って恐くなった。帰ろう──そう決めて、折れた柱に手をつきながら立ち上がる。つけっぱなしで放り出してあったマグライトを拾い上げる。犬はまだバックパックで遊んでいた。手段と目的が逆転している。中に食べ物があるかなんてことはもうどうでもよくて、バックパックに顔を突っ込んでごそごそやるのが楽しいらしい。取り上げたら怒るかな──ハルカは少しためらって、ストラップに手を伸ばした。
犬がいきなり顔を上げた。
ハルカはびっくりして手を引っ込めた。しかし、犬はハルカの方を見てもいない。左手の通路の闇、ハルカがやってきたのとは反対の方向をじっと見つめたまま、ぴくりとも動かない。人間には聞こえない、犬にしか聞こえない何かに耳をすましているようにも見える。何かあるのかと思ってライトの光を向けた。特別何があるわけでもない。ただ、柱の列と、瓦礫と、苔の生えた床と──
犬が走り出した。
あっと思ったときには、犬はもうライトの光がかろうじて届いている辺りまで行ってしまった。そこでハルカの方を振り返り、何かに強烈に迷っているようにくるくる回りながら地団太を踏んでいる。追いかけようと思って大急ぎで荷物をまとめ、もう一度ライトの光を向けた。
犬はいなかった。
犬の姿を求めて、ハルカは走り始めた。
何度も転びそうになりながら、夢中でライトの光を追いかけて走った。こんな所で転んだら大ケガをするかもしれないとか、目印も残さずに動き回ったら迷子になるとか、そんなことは考えもしなかった。犬を探すことしか頭になかった。
チョコバーをもっとどっさり持ってきていればよかった。
鼻の奥に、涙の気配がわいた。
あきらめきれなかった。
やっと、やっと友達ができたのに。
どのくらい走ったのかわからない。ハルカの行く手に、短い上りの階段が浮かび上がった。ここまでは一本道、だったと思う。暗かったし、分かれ道のひとつやふたつは見落としたかもしれない。しかし、ハルカの勘は「犬はこの先にいる」と告げていた。
ぐずぐずしているヒマはない。
はあっ、と大きな息をひとつ。
ハルカは階段を駆け上ろうとして、最初のステップに足をかけ、階段の先がうすぼんやりと明るいことに気づいた。
階段の先で、犬がひと声吠えた。
そして、それに答えるように、別の犬が別の声で吠えた。
そして、それに答えるように、なに、どうしたのよ、と誰かが言った。
言葉だった。
女の子の声だった。
それからハルカは、多分、階段を上ったのだろう。
あの光景を見たのだから。
何を期待し、何を恐れ、どんな気持ちで階段を上っていったのか──そんなことは、まるで憶えていない。茫然自失の状態で、出来の悪いロボットのように、ぎくしゃくと、危なっかしく階段を上ったはずだ。その後、何カ月、何年という時間を経た後にも、ハルカはこの光景を何度も何度も思い出すことになる。もうすぐ夏で、おまけに午後で、しかもめちゃくちゃにいい天気だったあの日の、名も知らぬとある地下道の光景を、
イーヴァと初めて出会った、この光景を。
階段を上り切った先はショッピングモールだった。いかなる奇蹟ゆえか、まるでここだけは時間が止まっていたかのように、三十年前の姿をほとんどそのまま留めていた。天井にはいくつもの裂け目があって、斜めに差し込む午後の光が通路全体の闇を青く染め、ホコリの粒子を孕んで幾重もの帯となり、床に散らばったガラスの破片をきらめかせていた。
そこに、三匹の犬と、ひとりの女の子がいた。
三匹の犬はいずれも不景気な体つきの複雑な雑種で、一匹はくすんだ白、もう一匹は白と茶色、最後の一匹は黒。その黒い犬は、さっきハルカのチョコバーを食べたあの犬に間違いなかった。
女の子は、ハルカとおおむね似た格好をしていた。雪中迷彩色のパンツにジャングルブーツ。 “ROACH KILLER”とロゴの入ったTシャツの上に、そでをぶっちぎったパンツと同色の上着をだらっとはおっている。歩兵用の防弾ヘルメットをあみだにかぶっていた。廃虚の地下道を探検しようというときには、みんな似たようなことを考えるのかもしれない。
歳の頃はハルカと同じくらいだった。
背丈もハルカと同じくらいだった。
髪の長さも色も、ハルカと同じだった。
女の子と、目が合った。
黒い犬が、階段を上り切ったところで凍りついているハルカを見て、わふ、と吠えた。
ひとりとひとりと三匹が、天井から差し込む光の帯をはさんで、無言で見つめ合っていた。
ハルカを見つめる女の子の顔に、深い深い驚きの色が浮かんだ。
女の子を見つめる自分も、似たような顔をしているのだろうとハルカは思う。
時間が溶け始めた。
最初に目が合った瞬間から、二秒も経ってはいなかったはずだ。その女の子は突然踵を返し、ハルカに背を向けて走り出した。三匹の犬がその後を追った。女の子と犬たちは通路の先の角を曲がって、幻のように姿を消した。
あっという間だった。
待って、と声をかけることもできなかった。自分は本心から待ってほしいと思っているのか、そんなこともわからなかった。
人間だ。
人間がいた。
人間の女の子がいた。
夢や幻ではない。絶対にいたのだ。女の子が。確かに。そこに。
やはり、自分は、地球で最後の人間の生き残りではなかったのだ。
ショッピングモールの入り口に、光の帯が幾重にも切り取る青い薄闇の中に、ハルカはいつまでも立ち尽くしていた。
あの子は、わたしと同じような格好をしていた。
あの子は、わたしと同じくらいの歳だった。
あの子は、わたしと同じくらいの背丈だった。
あの子は、わたしと同じくらいの長さの髪をしていた。
それに──
あの子は、わたしと同じ顔をしていた。
トリガーには、他人に自慢できることが三つある。
ひとつ、いい男である。
ひとつ、名ガンマンである。
ひとつ、宙に浮くことができる。