緊急事態《メイデイ》 ⑤

 犬は答えない。バックパックにはなづらっ込んで中身をあさるのにいそがしい。ハルカは名前を考え始めた。黒いからクロ。けんだったからノラ。うーん。名前名前。もっとかっこいい名前。犬がバックパックに顔を突っ込んだまま、わふ、とえた。まさかかされているわけでもないだろうが、ハルカはいつしようけんめいになって考える。名前は、犬の名前は


 ひしゃまる


 自分に何が起こったのか、ハルカにはわからなかった。

 とつぜん、胸のどうが不規則になって、呼吸まで苦しくなった。正体不明のしようげきに頭の中をくされて、いつしゆん何も考えられなくなった。バットで頭をなぐられて、正確にその痛みだけを消去できるとしたら、ちょうどこんな感じがするかもしれない。

 ひしゃまる。

 それが、何なのか、わからない。

 それが名前であるという確信すらない。何のイメージもともなわない、「ひしゃまる」という音だけがそこにある。考えたら出てきた、という気はしない。ずっとそこにあったものに今まで気づかなかった、という感覚に近い。

 少しずつ、

 収まってきた。

 呼吸が楽になってきた。どうも安定してきた。寒くもないのに身体からだが少しふるえていた。自分は病気かもしれないと思ってこわくなった。帰ろう──そう決めて、折れた柱に手をつきながら立ち上がる。つけっぱなしでほうり出してあったマグライトをひろい上げる。犬はまだバックパックで遊んでいた。手段と目的が逆転している。中に食べ物があるかなんてことはもうどうでもよくて、バックパックに顔を突っ込んでごそごそやるのが楽しいらしい。取り上げたらおこるかな──ハルカは少しためらって、ストラップに手をばした。

 犬がいきなり顔を上げた。

 ハルカはびっくりして手を引っ込めた。しかし、犬はハルカの方を見てもいない。左手の通路のやみ、ハルカがやってきたのとは反対の方向をじっと見つめたまま、ぴくりとも動かない。人間には聞こえない、犬にしか聞こえない何かに耳をすましているようにも見える。何かあるのかと思ってライトの光を向けた。特別何があるわけでもない。ただ、柱の列と、れきと、こけえたゆかと──

 犬が走り出した。

 あっと思ったときには、犬はもうライトの光がかろうじてとどいている辺りまで行ってしまった。そこでハルカの方をり返り、何かに強烈に迷っているようにくるくる回りながらたんんでいる。追いかけようと思っておおいそぎで荷物をまとめ、もう一度ライトの光を向けた。

 犬はいなかった。

 犬の姿を求めて、ハルカは走り始めた。

 何度もころびそうになりながら、夢中でライトの光を追いかけて走った。こんな所でころんだら大ケガをするかもしれないとか、目印も残さずに動き回ったらまいになるとか、そんなことは考えもしなかった。犬を探すことしか頭になかった。

 チョコバーをもっとどっさり持ってきていればよかった。

 鼻のおくに、なみだはいがわいた。

 あきらめきれなかった。

 やっと、やっと友達ができたのに。

 どのくらい走ったのかわからない。ハルカの行く手に、短いのぼりの階段が浮かび上がった。ここまでは一本道、だったと思う。暗かったし、分かれ道のひとつやふたつは見落としたかもしれない。しかし、ハルカのかんは「犬はこの先にいる」と告げていた。

 ぐずぐずしているヒマはない。

 はあっ、と大きな息をひとつ。

 ハルカは階段をのぼろうとして、最初のステップに足をかけ、階段の先がうすぼんやりと明るいことに気づいた。

 階段の先で、犬がひと声えた。

 そして、それに答えるように、別の犬が別の声で吠えた。

 そして、それに答えるように、なに、どうしたのよ、とだれかが言った。

 言葉だった。

 女の子の声だった。


 それからハルカは、多分、階段を上ったのだろう。

 あの光景を見たのだから。

 何を期待し、何をおそれ、どんな気持ちで階段を上っていったのか──そんなことは、まるでおぼえていない。ぼうぜんしつの状態で、出来の悪いロボットのように、ぎくしゃくと、あぶなっかしく階段を上ったはずだ。そのあと、何カ月、何年という時間をあとにも、ハルカはこの光景を何度も何度も思い出すことになる。もうすぐ夏で、おまけに午後で、しかもめちゃくちゃにいい天気だったあの日の、名も知らぬとある地下道の光景を、

 イーヴァと初めて出会った、この光景を。

 階段をのぼり切った先はショッピングモールだった。いかなるせきゆえか、まるでここだけは時間が止まっていたかのように、三十年前の姿をほとんどそのままとどめていた。てんじようにはいくつものけ目があって、ななめに差し込む午後の光が通路全体のやみを青くめ、ホコリのりゆうはらんでいくものおびとなり、ゆかに散らばったガラスの破片をきらめかせていた。

 そこに、三匹の犬と、ひとりの女の子がいた。

 三匹の犬はいずれも不景気な体つきの複雑な雑種で、一匹はくすんだ白、もう一匹は白と茶色、最後の一匹は黒。その黒い犬は、さっきハルカのチョコバーを食べたあの犬にちがいなかった。

 女の子は、ハルカとおおむねかつこうをしていた。せつちゆうめいさいしよくのパンツにジャングルブーツ。 “ROACH KILLER”とロゴの入ったTシャツの上に、そでをぶっちぎったパンツと同色の上着をだらっとはおっている。歩兵用のぼうだんヘルメットをあみだにかぶっていた。はいきよの地下道を探検しようというときには、みんな似たようなことを考えるのかもしれない。

 としころはハルカと同じくらいだった。

 たけもハルカと同じくらいだった。



 かみの長さも色も、ハルカと同じだった。

 女の子と、目が合った。

 黒い犬が、階段をのぼり切ったところでこおりついているハルカを見て、わふ、とえた。

 ひとりとひとりと三匹が、てんじようから差し込む光のおびをはさんで、無言で見つめ合っていた。

 ハルカを見つめる女の子の顔に、深い深いおどろきの色が浮かんだ。

 女の子を見つめる自分も、たような顔をしているのだろうとハルカは思う。

 時間がけ始めた。

 最初に目が合ったしゆんかんから、二秒もってはいなかったはずだ。その女の子はとつぜんきびすを返し、ハルカに背を向けて走り出した。三匹の犬がそのあとを追った。女の子と犬たちは通路の先のかどを曲がって、まぼろしのように姿を消した。

 あっというだった。

 待って、と声をかけることもできなかった。自分は本心から待ってほしいと思っているのか、そんなこともわからなかった。

 人間だ。

 人間がいた。

 人間の女の子がいた。

 夢や幻ではない。絶対にいたのだ。女の子が。確かに。そこに。

 やはり、自分は、地球で最後の人間の生き残りではなかったのだ。

 ショッピングモールの入り口に、光の帯が幾重にも切り取る青いうすやみの中に、ハルカはいつまでも立ちくしていた。

 あの子は、わたしと同じようなかつこうをしていた。

 あの子は、わたしと同じくらいのとしだった。

 あの子は、わたしと同じくらいのたけだった。

 あの子は、わたしと同じくらいの長さのかみをしていた。

 それに──


 あの子は、わたしと同じ顔をしていた。


          


 トリガーには、他人ひとまんできることが三つある。

 ひとつ、いい男である。

 ひとつ、名ガンマンである。

 ひとつ、宙に浮くことができる。

刊行シリーズ

鉄コミュニケイション(2)チェスゲームの書影
鉄コミュニケイション(1)ハルカとイーヴァの書影