戸棚の湯飲みがカタリと音を立て、胡座をかいて腕を組む宮野の眉間めがけて飛翔、鈍い衝撃音を発生させたのちに机代わりの万年コタツの上に着地した。ポットの湯が独りでに注がれる。お湯だけ。
額のコブを撫でつつ宮野は白湯をすすり、その正面で僕は黙々とカップを傾けた。
「この部屋では客人に水しか出してはならないという規則でもあるのか。ずいぶんな扱いではないか。寮長殿、少しは妹君に注意すべきではないだろうか。私はそう愚考するぞ」
「死んでる奴に何を言っても無駄だ」
僕の舌には甘すぎる紅茶を何とか飲み下しながら、
「今までさんざん言うことを聞かせようとしたさ。何一つ聞きやしない」
「死してもなお兄の許に留まってかいがいしく世話を焼いてくれる妹か。ふむむ、たいそう健気ではないか。正直言おう、私はひどく羨ましい」
妹を持っていない男は大概そう言うことになっている。
「だったらくれてやるよ。連れて行ってくれ」
「それができないから寮長殿はこんなところで学生をやっているのだろう。いつからだったかな?」
「中等部の初っぱなからだね。こいつが現れるようになってからは今年で六年目だ。おかげで小学校の最後の二年間は一苦労だった」
年子の春奈が死んだのは僕が十一歳のときだ。僕ともう一人の妹の若菜の目の前で軽トラックにはねられた。その翌日に霊体となった春奈が僕の側で不思議な力を振るうことを知っていたなら一晩中悲しみに暮れることもなかったと思う。
「すんなり成仏しとけばいいのにな」
《いや》
それまで空気に溶け込んでいた春奈が抗議するように姿を現した。頰を膨らませて僕の隣に滑り落ちる。
「ふむ。実に興味深いな。いや寮長殿の兄妹環境についてではない、幽霊が実際に存在するシチュエーションというものがだ。実のところ、私は幽霊の存在には否定的なのだ」
宮野はぬるま湯の入った湯飲みをコツコツと爪で叩いて、
「意識というものがどこで生まれるかくらいは解ると思う。そう、脳だ。早い話が意識などというものは頭の中を行ったり来たりしている電気の動きに集約される。しかしそこの春奈さんはすでに肉体を失っているわけだ。では彼女の意識はいったいどこで発生しているのか?」
観察者の目で見据えられ、春奈はべえっと舌を出して僕の背後に隠れた。
「私はこう考える。死に際した彼女の意識は誰かの脳に場所を移して肉体の死を乗り越えたのだとな。誰の? 言うまでもなかろう、寮長殿の脳にだ。つまり春奈くんは寮長殿の中にこそ存在するのだ」
「じゃあ、さっきの化けウニみたいな奴はどうなんだ? この学校に来てからああいう妖怪モドキにけっこう出くわしたけど、あいつらにも意識があるように思ったぞ」
原始的なものだがな、と宮野は重々しくうなずき、自説の開示を嬉しがるような口調で、
「あれら想念体は、我々能力者が無意識のうちに放射しているEMP能力の余剰エネルギー、その集合体だ。言ってみれば無意識の産物だな。ゆえに知能的な行動は皆無でただ暴れ回るだけ、だからこそ御し易いとも言える。多くの能力者たちが一カ所で長期間に亘って共同生活をしている場所にしか発生しないのは外の人間たちには都合がよかろう。おかげで私が持つような能力の生かしがいもある。が、春奈くんはあいつらとは違う。おそらく私の秘力でも無に帰すことはできないだろう」
春奈の白い腕が紅茶カップに伸びる。ふわりと浮かんだ陶器を僕は途中で受け止めて、
「もういい。宮野にやってくれ。僕の血糖値は充分足りてる」
春奈はぷいと横を向き、使い古しのティーバッグが空を飛んで宮野の湯飲みにダイブした。
宮野は、ありがたいと言ってわずかに色の付いたぬるま湯を飲み干し、
「まあ、本当のところは解らん。私が知らないだけで幽霊はいたるところにいるのかもしれん。ただ私は死とはすべてにおいて無に帰ることであり、無の状態を有にするには途方もないエネルギーが必要だと思っているだけだ。妹君を未だこの世に留まらせ、一つの意識として存在せしめるエネルギーは、いったいどこから来るのだろうか」
それについては思い当たることがないでもないがこいつに自説を開陳するいわれもない。僕はなげやりに肩をすくめ、話を変えた。
「最近増えてきたと思わないか?」
「何がだね。私のカリスマ性か?」
「そんな元からないものが増えてたまるもんか。想念体さ。僕がここに来た当初はせいぜい一ヶ月に一つか二つ出てきたらいいほうだった。今はほぼ週一ペースだろ。この寮だけでも今月三体目だ」
「生徒数が増加の一途をたどっているからな。漏れ出すEMP能力もその数に比例して増量するのだと思われる」
「ところで宮野」
「何かね」
「そろそろ帰ってくれないか。春奈がいらついている」
「そうしよう」
あっさり立ち上がって宮野はしかし扉の前で振り返った。
「うむ? そう言えば私はなぜ寮長殿の部屋に上がり込んだのだったかな? 確か何か他に伝えることがあったような……。すまぬ、思い出せん。思い出さんということは別にたいしたことではないのだろうと推察する。ではさらばだ。何かあればまた呼んでくれたまえ」
足音高く立ち去る宮野を、顔の横で無邪気に両手をひらひらさせる春奈が見送った。
僕が生徒会長から身に覚えのない呼び出しを受けたのは、その次の日のことである。