朝、いつものようにアラームが鳴る三十秒前に目覚まし時計そのものを頭にぶち当てられて僕は目を覚ました。ふらふらと学習机の上に戻っていく置き時計を視界の端で捉えながら起き上がる。
もう何年も目覚まし時計が本来の役目をまっとうしたためしがない。確実に目を覚ましてくれるのはいい、春奈が自らの存在をアピールしたいのも解る。だがしかし、もう少し穏やかな目覚めの儀式はないものか、このままでは時計か僕の頭のどちらかが機能不全を起こす日もそう遠くないことであろう、と以前、はっきりと言ってやったことがある。翌朝、僕は枕で窒息死しかかった。
記憶に眠る愛らしかった双子の様子を思い起こしてため息吐き吐き制服に袖を通しているとエンジ色のネクタイが飛来して僕の襟に絡まった。鏡を見るまでもなく下手くそな結び目は相変わらず。文句を言うと首を絞められかねないので、だからいつも僕のネクタイは曲がりっぱなしだ。
同室だった奴がカーテンまで持っていってしまったため(もともとそいつの私物だったが)、イヤミなまでに爽やかな朝日が射し込んでいる。その埃が舞い散る光の中に華奢な霊体がゆらりと現れた。肩の上で毛先の揃っていない髪が揺れ、柔和なカーブを描く頰を緩めて紅い唇をほころばせる。
無垢な笑顔を浮かべて春奈は片足のつま先を軸にして一回転して見せた。
ちゃんと足があるもののその足が地に着いていることは当然ながらない。いつもふわふわと漂っているから解りにくいが身長は百五十半ば、なぜ解るかと言うと春奈そっくりの双子の若菜がそのくらいで、ついでに体重とスリーサイズも聞こうとしたら若菜は上目遣いで僕をマジマジと見つめ、呆れたような声で、
「そんなの聞いてどうするの?」
と聞き返された。
《おはよ》
短い思念が届き、春奈は無邪気に笑った。その無邪気ゆえに様々な事件を引き起こしており、たとえば去年の四月、中庭で満開だった桜が一夜にして散り去ったのは春奈の仕業であり決して、
《さくらとあたしとどっちがきれい?》
と訊かれ、一瞬口ごもった僕の責任ではないと思われる。
春奈の白いセーラー服は僕らの自宅近所の中学のものだ。生きていれば彼女もそこに通っていただろう。まあ生きてても第三EMPに来てた可能性が強いとは思うが。
僕なんかに憑依せず事故死した現場で地縛霊でもやっていてくれたら、今ごろ美少女幽霊出現スポットとして観光名所にでもなったかもしれないのに惜しいことである。
「なあ、春奈。せめて実家の自分の仏壇に取り憑かないか? けっこう高かったらしいぞ、あれ」
春奈は僕の鼻先に透き通った小作りの顔を近づけて応えた。
《いや》
土足厳禁の寮から出るには玄関で靴に履き替える必要がある。男子寮B棟で寝起きする生徒はおよそ百五十名前後、そのため一階は下駄箱が立ち並び、眠そうな顔をした寮生たちが押し合いへし合いをしているのもいつもの光景、急がないと朝飯を食いっぱぐれる恐れがある。
外に出ると森林特有の爽快な空気が肺を満たした。ほとんど山を一つ削って作られたこの学校の敷地は呆れるほどに広い。おそらく工事範囲を拡大すればするほど誰かの懐が潤う仕組みにでもなっていたのだろう。
三つある男子寮を横目に五月晴れの下をぞろぞろと歩く生徒たちに混じって、敷地の一番北を目指した。途中で校舎を挟んで反対側にある女子寮からの流れも合流、朝昼晩の食事時は時間が決められているためちょっとした渋滞を引き起こす。中等部と大学部と比べて高等部の人数が一番多いせいもある。EMP能力の発現年齢は十四歳、消失年齢は十八歳時というのが平均で、ようは高校生が最も多い。
だから高等部校舎が最も大きく、上から見れば巨大なH型をしている鉄筋四階建てのすべてが高等部の学舎だ。Hの真ん中の横棒は渡り廊下と特別教室になっている。
大食堂まで歩く間、春奈は僕の後ろを滑空しながらついてきてこの学園に来て日の浅い生徒たちの腰を引かせていた。
明灰色の校舎を通り過ぎ、渡り廊下をくぐり抜けた所にある講堂脇、男女共同の大食堂は例によって混雑を極めていた。体育館より広い構内には見渡す限りテーブルが続いているのにこの有様だ。建築当初の予定人数より生徒数が増えているというのは本当らしい。
第四EMPができるのも時間の問題だなと考えながら僕がトレイ片手に歩くと、背後に春奈を張りつかせてるおかげで人混みのほうが勝手に避けてくれた。
紺色ブレザーでごった返す人の波間を通り正面の配膳カウンターまで到達する。奥の厨房では調理係の女子生徒たちがブラウン運動する粒子のように動き回っている様にはいつ見ても感嘆させられる。
その一方で配膳係の一員が手際よくプラスチック容器に料理を盛りつけていて、その割烹着姿の中の一人が僕を見つけてにっこりと微笑んだ。
「はよー、兄さん」
僕の肩口に浮かんでいる半透明のものと同じ顔、ただしこちらは春奈より髪が短く、なにより実体がある。七分咲きの桜みたいな笑み。割烹着姿が異様に似合うのは表情と仕草が子供っぽいせいだろう。
細めると三日月型になる両目を僕の背後に向けながら、若菜はしゃもじを振った。
「春奈も」
肩上で切りそろえられている髪の毛先が実は全然そろっていないのは理容クラスの女子生徒の練習台になっているからだそうで、彼女の髪型はいつも床屋代をケチった親に刈られた幼児のような具合になっている。もしこれが春奈だったら、その髪切り師の眉間にカーラーの一つくらいは飛んで行くのではないだろうか。
カウンターの上に飯をよそった茶碗の列を築きながら若菜が呼びかけた。
「宮野さんが捜してたよ。ちょっと前にご飯取りに来てたんだけど、兄さんがもう来てなかったかって。後で来るようなら言っといてくれって、ほらあそこ」
若菜が米粒まみれのしゃもじで指した先、長いテーブルの端っこに対魔班班長の寝癖頭が見えた。
「何の用だって?」
すると若菜はどうやら宮野の顔真似らしき表情を作り、やたらな大声で、
「若菜くん! キミはいつ見ても可愛いな! そろそろ兄離れしてもいいのではないかねっ! ……とか言ってたけど、あの人、何か勘違いしてるんじゃないかなあ。兄さんにくっついてるのは春奈でしょ」
いかにも心外そうに口元をアヒルみたいにして言ってるが顔の他のパーツはずっと笑っており、いつでもどこでも相手が誰でもスマイル終日営業が若菜のデフォルトだ。最後に若菜の笑顔以外の表情を見たのは、六年前の春奈のお通夜以来、僕の記憶にない。
日溜まりで和んでいる猫のような雰囲気を発散させつつ、若菜はにこにこと、
「今日は春奈機嫌がいいみたいねえ。どうして? あそっか、おとついから兄さん一人部屋なんだっけ。春奈と二人っきりなんだー。ふーん」
誤解を招くような発言は慎んでもらいたいものだ。
若菜の横の味噌汁担当の女の子が、おっかなびっくりという感じで容器を僕に差し出した。
すいっと春奈が背後から移動して、カウンターに半分身体をめり込ませながらその手元を見つめている。昨日も配膳当番をしていたその少女は、うっかり僕と指先を触れさせてしまったばかりに、宙を舞ったオタマで頭をポコポコ殴られていた。可哀想に。
春奈の冷徹な視線が気の毒な娘のぶるぶる震える手元に注がれる。
《……》
「ひぃ」