恐怖に目を見開いてすくみ上がっているその少女から、盛大に表面を波打たせる豆腐の味噌汁を細心の注意を払いながら受け取り、詫びた。
「もうしわけない」
少女はまるで椀に高圧電流が走ったかのような大袈裟さで手を離し、その手を顔の前でぶんぶん振りながら、ついでに首も振った。全身で「あたし触ってません本当です」とアピールしている。
若菜がおっとりと、笑いを含んだいつもの声で言う。
「ばか春奈ー。そんなにいちいちイヤガラセしなくても、誰も兄さんなんか取りはしないよう。もう、どこがそんなにいいのか、あたしにはわかんないよ」
僕は無言でオカズの列から焼き鮭の切り身と生卵の容器を取ってトレイに載せた。
若菜が僕に渡そうとした茶碗は、途中で嫌がる子猫のようにその手を逃れ、空を飛んでトレイにふんわりと降下した。
まだ二人が子犬のようにじゃれ合っていた在りし日のことが思い起こされる。若菜と春奈はタロットの太陽のカードに描かれる一対の天使のように愛らしかったのだ。それが今や片方はハタ迷惑な幽霊で、片方は兄の魅力を理解しない審美眼ゼロ娘になってしまった。まったく嘆かわしいこと甚だしく、その甚だしい思いがため息となって僕の吐息に混じった。
《なあに?》
「なによう」
さすが双子だけあって発想も似たようなものであるらしい。同時に僕に訊いてくる。
「いや別に何も。この焼き鮭は塩鮭なのかどうか、だったら醬油はかけないほうがいいかなとか考えただけだ」
若菜は口を尖らせて、
「ふーんふーん。まーいーけどー。それ、新巻鮭だよ。塩っからいよ、きっと」
「有益な情報をありがとよ」
「春奈もー。そんなにいつも兄さんにくっついてばかりじゃないでさあ、たまには仕事手伝ってよ。せっかく便利な力を持ってるんだし」
《べえ》
僕の隣で、たゆたう死せる妹が片目を指で引っ張って舌を出した。
「もう。べー」
生ける妹も同様に応対する。
情景的には微笑ましいシチュエーションであるのかもしれないが、そろそろ僕から後ろに並んでいる朝食待ちの行列から不自然な咳払いが多々聞こえるようになってきたので退散することにする。
そのまま春奈が片割れとにらめっこをし続けていてくれることを願いながら足音を忍ばせてみたものの通用せず、最後に《わかなのばか》と思念を放射して、春奈は再び僕の背後に回った。
たまたまなのか故意なのか、宮野の隣の席は無人だった。
制服のブレザーが大半を占める生徒の中に漂白されたパールホワイト、シミ一つない白衣を意味もなく羽織って朝飯を食ってるのなんてこいつだけだ。鼻筋の通った顔の造作だけ見ていればガンダーラ美術の仏像みたいだが、そこにへばり付いている表情がアルカイックスマイルをマイナス方向にカリカチュアしたものなので治まりが悪い。せっかくのヘレニズム様式もだいなしだ。
その邪悪な仏像のような宮野が箸を天に突き上げて、
「寮長殿! ここ空いてるぞ! 座りたまえ」
「言われなくてもそうするさ」
マッドサイエンティストふう黒魔術師の隣に腰を降ろして僕はトレイを置いた。
宮野は味噌汁と生卵をぶち込んだ茶碗の中身にソースをかけ、逆手に握った箸でぐちゃぐちゃと搔き混ぜるという暴挙をおこない、正面に座っていた男子生徒が気味悪そうな表情になって視線を逸らす。
「春奈くん! キミはいつ見ても可愛いな! そろそろ兄離れしてもいいのではないかねっ! うむ、キミの能力は実に対魔班向きだっ! どうかね一つ、その卓越した性質を学園の平和のために使用するというのはっ!」
ぬっと身を乗り出した春奈は首をねじ曲げ、宮野をアホくさそうに眺めて、それから僕に微笑みを残し、次第に姿をぼやけさせ始め、溶け込むように消えた。アホくさくなったのだろう。
「結論から言おう! 私はキミに謝罪せねばなるまい」
それのどこが人に謝罪する態度なのか、宮野は傲然と胸を張った。いちいち反応するのも面倒になってきたが、僕は律儀にも考えてから言った。
「思い当たるフシが多すぎてどれのことやら。305号室のドアのことか? あれなら部屋の二人が深夜までかかって修繕してたから謝るなら彼らに言ってやれよ。それとも校庭の塩の塊かな。運動部と園芸部の連中から苦情が来てる。なぜ僕に言うのか解らないが。それか未だに原因不明の先週の下駄箱一斉倒壊事件の犯人はお前だったのか?」
「どれも心当たりのあることばかりだが、この際そんなことはどうでもいいのだ」
恐ろしい色彩で染色された飯をためつすがめつしてから口に運び、宮野は眉をしかめた。
「寮長殿、今日の朝食はいやにまずいぞ」
「そりゃそうだろうよ」
調理係の女子に聞かせたら僕の代わりにこいつを再起不能にしてくれるかもしれない、なんとか彼女たちの前で同じセリフを言わせる方法はないものかと考えつつ、僕は焼き鮭の身をほぐしにかかる。調理担当は女子生徒が持ち回りでやっているが、別に旧弊な職業差別が学園にはびこっているからではなく、男子生徒にやらせてみたら喰えたものでないシロモノが続出したため便宜上そうなっているだけだ。彼女たちだってボランティアというわけではなく学校からアルバイト代が出るので、そう悪いことではないだろう。
さらに宮野は七味唐辛子を下が見えなくなるまで振りかけるという片手の上下運動に励みながら、
「あー、つまりだな、時は昨日、場所は高等部校舎四階の渡り廊下だ。夕暮れ時だったと記憶している。詰め所から、ほら何だ、例の残留想念体を退去させるべくキミの寮に急いでいたときだった。たまたま通りがかった生徒自治会長殿に出くわしてだな、B棟に行くのなら寮長に伝言を頼むと言われていたのだった。それをすっからかんと忘却の彼方へと追いやっていたのを今朝歯を磨いている最中に思い出したのだ。どうして歯磨きの最中に思い出したのかは解らない。まこと人間の記憶の仕組みとは複雑怪奇なシステムになっていることだと感心する」
「お前が粗忽者なだけだ。それで、伝言って何だ」
「ううむ、それだがな、今日の夜八時に自治会長室に来るようにとのことだった」
「……その今日というのは、つまり昨日のことか?」
「そうなるようだ」
「それを今ごろ聞かされた僕はいったいどうすればいいんだ?」
「時間が不可逆性の性質を持っている以上、どうしようもないと言うべきかと存ずる」
「宮野」
「なんだろう」
「殴っていいか?」
「断る」
不毛な会話をいったん脇に置いといて、僕は考え込んだ。
生徒会長。名前は覚えてるがどんな顔をしていたか思い出せない。何かの行事のたびに遠目から見たことがあるだけだ。寮も別だし面識もなければ会話したこともない。
何の用だろう。
「会長直々の呼び出しを食らうとはな。いったいどんな不始末をしでかしたのかね? 顚末書ですむことを私は願ってやまない。何なら願いついでに今から厄よけ祈禱をしてさしあげてもいいが。安くしておくぞ。ちょうど生きのいい猿の手を仕入れたところなのだ」
「お前がいまだに放校処分を受けずピンピンしてるからには、僕が顚末書を書くいわれもないだろうさ。それにそんな不気味なものを願掛けに使うほど追いつめられてもいない」
「ところで最近、外の世界でちょっとした騒動が発生しているのを知っているかね?」
相変わらず人の話を聞いていない。会話はキャッチボールだ。反対方向にボールを投げられても取れるわけがないだろう。
「どうやら学園の中だけでなく、外の一般社会にも昨日のような想念体がちょくちょく出現するようになっているそうだ。不思議なことだとは思わないかね」