──目の前に、図書室の扉があった。
もう、数え切れないほどの回数開けてきた、そして施錠してきた見慣れた扉。
クリーム色の、木製の、ありふれた引き戸。
ところどころ塗装がひび割れ、隙間にかすかに木目が覗いている。
「……うおー緊張する」
そんな扉の前で、俺は一人激しくためらっていた。
この向こうには──御簾納がいる。
水曜の放課後。今週も、俺と彼女の図書委員の日がやってきたのだ。
つまり……あんな放送を聴いてしまってから、初めて顔を合わせる日が……!
あたりにチャイムの音が響く。図書室を開ける時間だ。
まだまだ緊張は解けていない。心臓はBPM150くらいで鳴り続けている。
「……でも、もう引き返せねえ……」
覚悟を決めると──俺は深く深呼吸した。
「……よし!」
扉に手をかけ、勢いよく開ける。
そして、そのままのスピード感でカウンターへ近づき、
「──お疲れ! 御簾納!」
「……ああ、お疲れ様です、先輩」
パソコンを立ち上げていた御簾納が、フラットな顔でこちらを見上げた。
その表情に──もう一度心臓がぎくりと跳ねて、
「……いやー! 今日も暑いな!」
「え、涼しいですけど。ていうか、声裏返ってますよ、どうしたんですか?」
「そ、そうか!? もしかしたら風邪気味だからかも、あははははは……」
……やべえ。全然、普通にしゃべれねえ!
御簾納の言う通り今日全然涼しいわ! なんで暑いとか言っちゃったんだ!
しかも風邪気味ってのも噓だし! 完全に健康体だよ!
初っぱなからめちゃくちゃじゃねえか!
「はあ……。なら、無理しなくてもいいですよ。辛いなら、早めに帰っていただいて」
「いやいや、そこまでじゃないから大丈夫!」
「そうですか?」
「うん。だから、普通に仕事はしてくよ!」
「……わかりました」
こくりとうなずく御簾納。よかった、納得はしてもらえたらしい。
鞄をカウンターにしまいながら、俺は気合いを入れ直す。
よし……がんばるぞ!
ぐずぐずになったけど。一発目から派手に躓いたけど、今さら逃げ出すわけにもいかないんだ。
あんな放送を聴いちゃった上……二胡にも大口を叩いちゃったんだから!
*
「おはよう……」
「おはようお兄……って、どうしたの!?」
──放送を聴いた、翌朝。
いつものように自室を出て、いつものようにリビングに着くと。
先にテーブルでご飯を食べていた二胡が、こちらを見て目を丸くした。
「めちゃくちゃ……眠そうだけど」
二胡の言う通り──寝不足だった。
例の配信で動揺したせいで、ほとんど一睡もできていなかった。
眠ろうとして布団に入り目をつぶっても、頭の中でサキのセリフがエンドレスリピート。眠気が来るどころか、むしろ妙にドキドキして目が冴える一方だった。
「いやあ……ちょっとびっくりすることがあって。昨日、ほとんど眠れなかった。ふぁああ……」
あくびをしながら、俺も二胡の隣の席に座る。
今日の朝ご飯は……和食らしい。
ご飯に焼き魚、ほうれん草に冷や奴、ネギの味噌汁……。
寝不足で疲れ気味の胃には、こういうご飯が一番ありがたい……。
「……ああそうだ、夜のうちにギター録っといた。メールしたから、聴いておいて」
「それはわかったけど……なにがあったの?」
手に茶碗を持ったまま、二胡がこちらを覗き込んでくる。
「びっくりすることって、どういう?」
ちょっと迷ってから……俺は二胡に打ちあけてみるかと考える。
内容的に抵抗あるけど……こいつになら、相談できるんじゃないか。
しかも、的確なアドバイスをもらえそうな気もする。
身内ながら、俺は内心二胡の賢さに信頼を置いているのだ。
「……それがさ。なんか、知り合いがやってるっぽいネットラジオ見つけちゃって。しかもその中で、俺のことっぽい話してて……」
「話ってどんな? まさか、悪口?」
「いや、悪口とかじゃなくて……やや好意的な感じの……」
「へえ。ならよかったじゃん。わたしがラジオで悪口言われてたら、マジギレしちゃうもん。再起不能になるまで追い込んじゃう」
「怖……。再起不能て……」
「学校は透明な戦場なんだよ。生き残ろうと思ったら、報復が必要になることもあるのです」
「どういう世界観で生きてるんだよ、お前は……」
しかも、そう言う二胡の笑顔は『前線で戦う兵士』ってより『部隊を動かす指揮官』だったぞ……。
マジで怖えよ……。学校でどういうポジションなんだ、二胡……。
「……とにかく、それで悩んでて。これからそいつとどう接すればいいんだろうって考えたら、眠れなくて。ああ~、どうすっかなあ~……。放送聴いたよ、っていうのも気まずくなりそうだし。隠したままっていうのも罪悪感あるし……」
そう、身の振り方が難しいのだ。
偶然とは言え配信を聴いてしまった。知らぬ存ぜぬでいるよりも、できればはっきり相手に伝えてしまいたい。俺の性格的にも。
けれど……今回、内容が内容なわけで。
どうも、俺のことを……好きっぽい……話をしていたわけで。
さすがに本人に「おうおうおう、聴いたぜ~!」みたいな感じでいくわけにはいかない。
じゃあ俺は、これから御簾納にどうやって接すれば……。
「んー。ちなみにそれって」
と、悩む俺に二胡が言う。
「100%相手がその人って、確定した感じなの? フルネームで本名名乗ってるとか、その人しか知らない情報話してるとか」
「ああ……そういうわけじゃないんだけどな」
確かに、絶対の証拠があるわけじゃない。
個人的には確定だと思っているし、あそこまで証拠が揃って他人だってことはほぼないとも思っている。それでも、100%かといえば、そこまでは言い切れない。
「だったらまずそこじゃない? それっぽい話題で反応を見たりして、確証が摑めるかどうか」
言いながら、ご飯を食べ終えた二胡が箸を置く。
「ごちそうさま」
「なるほどなあ。まずはそこからか……」
「うん。で、やるなら慎重にね」
席を立ち台所に食器を運びながら、二胡はこちらににやりと笑った。
「お兄、そういうのめちゃくちゃ下手そうだし」
「そ、そんなわけねえだろ! むしろ得意だよ、駆け引きは……」
「でもさ、相手って、昨日言ってた例の冷たい後輩でしょ?」
「うぇ!?」
「しかも、彼女に好意的に見られてて、動揺してるんでしょ? そんな状況で、うまく立ち回れるかなー」
「な、なんでわかるんだよ!? 御簾納のことって……。俺、一言も言ってないよな!?」
思い返してみるけれど……うん、やっぱり言ってねえぞ!
後輩だとか、話題のあいつだとかそういうことは。なんなら、女子だってことさえ言ってないはず。なのに、なんで二胡は……。
混乱する俺に、
「……ほらー、ひっかかった」
心底楽しそうに二胡は笑う。