1 日常a ①

 真っ赤な鉛筆、ミントの香りの消しゴム、指定のかばん、整然と並んだライトブラウンの机、まどぎわのポトスのはちたくさんの生徒たち、窓から吹き込む初夏の風、黒板に書かれた今月の目標、二年一組の教室、学校での真っ白な日常。

 窓際に並んでいる沢山の観葉植物の緑色が風にそよいでいる。そんな風は、心の中のもやもやとした感情を流し去ってくれそうな気がした。

 窓の外の朝の空。雲ひとつない空は真っ青すぎた。目に映っているのは空なのかガラスなのかわからなかった。

 いつもと変わらない朝の教室の風景。女子生徒たちのかんだかい笑い声。黒板の前でふざけている男子生徒たち。席について教科書を開いている生徒の姿。放送部の朝のアナウンス。変化のない光景──


「……今日のうんせいナンバーワンはのあなた。すべてが絶好調です、ラッキーですね。ちなみにワーストワンはみずがめ座。良からぬことが起こるでしょうね、ショボーンです。ラッキーアイテムは購買のバナナ牛乳です。文芸部が新入生募集中。読書感想文コンテストは明日締切りです。二年一組から四組はぶんせきぶんの小テストがあるのでがんって。天気は晴れ、降雨確率10%、湿度45%、最高気温31度。運動部のみんなは熱中症に気をつけてね。今朝のリクエスト音楽はなつかしのグロリア・エステファンです。あと十分ほどでホームルームの時間です。皆さんゆうを持って朝の時間を過ごしましょうね。パーソナリティー、リッチーでした」

「ナンバーワン運勢か。だと思った」


 ふくはらは水差しを持ったままつぶやいた。ざわめく空間。かんした空気。そんな教室に背を向けて、窓際の観葉植物の鉢に水をやっていた。


「おはよう、毎日えらいねえ」


 登校してきた女子生徒が鞄を机に置きながら声をかけた。


「植物係だからな」


 福原はにがわらいした。学級委員長の呼びかけで、クラス全員が何らかの係をっているのだ。号令係や連絡係や日報係から、植物係や今週の目標製作係まで、なくてもいいようなものまである。それでも、それらは、ほとんどのクラスメイトには受け入れられてはいた。


「ふふっ、福原君の可愛かわいい彼女が来たよ」


 席に着いた女子生徒が、にやっと笑って教室の入り口を指差した。

 廊下から黄色い笑い声が聞こえ、スポーツバッグを持った女子生徒が教室の後ろのドアを開けたところだった。彼女は廊下のほかのクラスの友達に手を振りながら教室に入ってきた。


「あれっておれの彼女だったっけ?」

「じゃあ、ふくはら君のなに?」

おれ可愛かわい玩具オモチヤ


 彼女は後ろのたなの上にスポーツバックを置いてから歩み寄り、福原を見つけるとニコッと笑った。


「窓から見えたぞ。非常階段使っただろ。ちゃんと玄関から来ないとふう指導の教師に怒られる」

「そっか、非常階段使ったらいけなくって、玄関から来ないと風紀指導の教師に怒られるんだよね。なるほどね」


 あおやまは神妙な顔でうなずき、自分の机に学校鞄を投げるように置いた。


「ああ、疲れちゃった」


 由紀は机の上に腰をのせ、「うーん」とびをし大きく息を吐いた。体がっているのかほおが赤い。ショートカットのくり色の髪がれていた。


「汗くさいなあ」

「シャワー浴びたよ。あされん終わったあと、汗かいたからシャワーを浴びたもん……あ、おはよ、ミポリン今日は早いね」


 由紀は周囲の女子生徒に笑顔を振りまいている。由紀が教室に入ってくると、妙に教室の空気の流れがよくなる気がする。笑顔が伝染するようなそんな感じだった。


「それにしても、陸上部の女子はストイックだよな」

「楽しいからね。大会とかで勝てると。だからみんなで練習をがんって……ありがとうね。この前の競技会、応援に来てくれてたでしょ。ちらっと福原がいるの見えたの」

「……まあな。可愛い由紀ちゃんの走る姿を見たかったんだよ」


 福原は視線をらしながら言った。


「エヘヘ、うれしいな」

「それより、あと十分でチャイム鳴るぞ」


 登校した生徒たちが集まりだした朝の教室にはグロリアの曲が流れている。


「あ、早くしないとね。私のフェーズからだったよね」


 由紀がまどぎわに置いてあるチェスばんを、自分の机の上にしんちように運んでくる。


「そのゲームずっとやってるね」


 由紀の後ろの席の女子生徒があきれたような笑顔を向けている。ここ二週間ほど、朝と昼の空いた時間に由紀とゲームをやるのが日課になっていた。個人的に手に入れたオリジナルゲームなのだ。


「オリジナルゲームのテストプレイみたいなの手伝ってあげてるんだよね。なかなか決着がつかなくて、あと一週間ぐらいかかりそうだよ」

「何かけてるんだっけ?」

「勝った方が、なんでも言うことを聞くんだよね」


 がにやりと笑ってこちらを見た。


おれが勝ったら由紀の一番大事なものをくれって言うつもり」

「……えっ、そ、そうなの?」


 どうようした由紀が目を丸くした。


「そのスカートの下にかくしてる……」

「だ、ダメだよ、そんな……」

「パンツをもらう」

「……絶対に負けない」


 由紀はキッとふくはらにらんだ。


「でも、由紀が福原君に勝てるとは思えないけどなあ」


 女子生徒が笑いをこらえながら由紀を見た。


「どういう意味よお」

「だってさ由紀は頭を使うのはにがっていうかねえ……」

「そのくらいの方が女の子は可愛かわいいんだよな、由紀」


 由紀がむくれているので、福原はフォローしつつ机の上に座った。


鹿で悪かったね」

「でも、この総合チェス、由紀みたいに考えない人間を相手にする方がやりづらいんだよ。たまに意外な行動を起こされたりして」


 福原はチェスばんこまの配置を確認しながら言った。


「じゃあ始めよっか。あ、食べながらでいい? ねえ見て見て」


 すでに由紀の機嫌は直っている。感情豊かな由紀は切り替えが早い。


「見てるよ。意外に小さいんだよな」

「今日のチャームポイントは、赤と緑と黄色のカラフルな感じです。ねえ、可愛い? エヘヘ、小さくて可愛いでしょ。リボンもついてるし」

「ああ、可愛いよ。でも、小さくても三つあるだろ」

「朝とお昼と放課後のぶんだからね。ちょっとずつのほうがいいんだよね。まんするのつらいしね」

「放課後はいらないんじゃないか?」

「放課後のぶんは、部活終わった後に、部室でみんなでつまんだりするの。フルーツとかチョコとか入ってる」


 由紀は弁当を食べながら言った。


「自分で作ってんの?」

「うーん、今日もたまたま妹に作ってもらってるんだよね。お父さんのぶんも作るから労力はいつしよ……ゲホッ、ゴフッ、水」


 の手が机の上のペットボトルを倒した。


「おっと」


 ふくはらは机から落ちたペットボトルをさっとキャッチした。


「ほら。気をつけろ」

「……ありがと、すごい反射神経だね」

「ゆっくり食べな。せっかく可愛かわいい妹が作ってくれたんだ」

「中学生なのにえらいよねー」


 女子生徒がクスクス笑っている。


あおやま家のせきだよな」

「うんうん、パーフェクトだよね。美少女で性格も良いし、声もアナウンサーみたいにれい。中学生にしては色っぽい体もしてるしね。中等部にわざわざ見に行ったりする男の子もいるしねえ」

「可愛いだけじゃなくて、頭も切れるんだよな。きっと由紀の良いところを全部持っていった」


 この学校の中等部に所属している由紀の妹は、高等部でも有名なのだ。表向きかんぺきなる美少女の彼女には、高等部の男子生徒にもファンが多数いる。


「うるさいなあ、君の番だよ」


 由紀がチェスばんを指差した。


「ビショップを四マス前進」

「そうきましたか。ちょっと待ってね……」


 由紀が考え込みつつ、ふと顔を上げた。

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