1 日常a ②

「あれ、今日は観客がいないね。いつもはこのゲームニヤニヤして見てるのに」

ぶんの小テストがあるからだよ。だからみんな予習をしてる。あの先生、シビアに成績に結びつけるじゃん」


 女子生徒が言った。彼女は由紀の後ろの席で教科書を開いている。すでにほとんどの生徒が登校しており、席で勉強をする姿が多かった。


「えー、どうしよう」


 由紀が悲しげな表情で福原に訴えた。


「由紀がいまさらあせってもしょうがないだろ」

「君はいいよね。のんびり植木鉢に水をやっていてもいい点数が取れるんだからさ」

「いいから、続けようぜ。このテストの点が原因でおよめにいけなくなったらおれが責任とってやるから」

「……絶対だよ」


 はチラッとふくはらにらんでから、チェスばんに視線を向けて考え込んでいる。盤上のこまの動きがしばらく止まった。

 福原は窓の外を見た。大きな雲がゆったりと流れていた。鳥のさえずりが窓ごしに聞こえた。


「……あのさあ」


 福原は外を見たまま口を開いた。


「うーん、もうちょっと待ってね。ここがターニングポイントだから。しやでビショップにマッチアップするべきか……」

「なあ由紀」

「え、どうしたの?」


 声のトーンの変化に気づいたのか、由紀がいぶかしげに顔を上げた。


おれがもしもエスパー的な人間だったらどうする?」

「……はあ?」

「だから、超能力が使えたりしたらどうする?」


 福原は由紀の目を見つめて言った。


「超能力……あはは」


 由紀があきれたように笑った。


「よし、ここはレオパルドを発進させちゃおう……あれ、私のタンクがない」

「ほら、レオパルド。これを動かすと思った」


 福原はタンクの駒を放り投げた。


「あれ? さっきまで盤上にあったのに」

「俺って最近変なんだよな」

「ずるしたでしょ。前だってそんなこと言ってたじゃん。とう能力が開花したから私のパンツの色を当ててみせるって。確かに一週間連続で当てたけど、でも、それってブラジャーのかたひもの色を見て当ててたんだよね。私が上下おそろいの下着を付けるの知ってて……」

「変な夢も見るんだよな。やけにリアルな映像のような」

「……またはだかの私が夢に出てきて踊ってたとか言うんでしょ……レオパルドを動かすね。五のDにレオパルド」

「妙に心臓のどうが激しくなったりしてさ」

「カフェインの取りすぎじゃない?」

「由紀がそう言うなら気のせいかな」


 福原はため息をいた。


「でもさ、超能力使えたりエスパーだったりしても、君は君なんだから、超能力使ってずるしたりしなきゃ、こうして遊んであげるからさ」

「……そっか」

「気をつけな、そういうのって人に言っちゃいけないらしいよ。実は私も未来から来ているんだけど、かくしてる」

「タイムマシーンに乗って?」

「そこらへんの設定は秘密だよ。でもね、この総合チェスで負けるたびに時間を戻しているから、絶対に私が勝つわけなんだよね、エヘヘ」

「へーえ、ラベンダーの香りがしそうな話だな……よし、ランサーを動かす。はガードがゆるいから一気に突き刺してやる」

「ちょっと待ってよ。うーん、あ、食べてていいから」


 由紀が弁当箱を差しだしたので、ハーブの香りのするチキンをつまんだ。


「うまいよ。このチキンのコックに愛してるって伝えてくれていい」

「チキンを作った三丁目の肉屋さんの主人に?」

「由紀の可愛かわいい妹にだよ」


 ふくはらは缶コーヒーを振ってからプルタブを開けた。冷たいコーヒーを飲むと、ほんの少しだけ頭がすっきりとした。


「それ、はや君にもらったんでしょ」


 見ると、由紀がじっとこちらを見つめていた。


「なんで?」

「だって、速水君も飲んでるもん、そのインフレコーヒー」


 由紀が、コーヒーを飲んでいる速水ひろをチラッと見た。速水は教室の中央最後尾の座席に浅く座り、雑誌をパラパラとめくりながらコーヒーを飲んでいる。体が大きいため机が小さく見える。読んでいる雑誌はナイフマガジンだ。月刊世界の戦闘兵器、なども愛読書なのだ。

 速水の周囲は人がいなかった。あつかんのあるふうぼうの速水は、クラスで少々距離を置かれている。りつしているわけではなかった。ただ、周囲の生徒からのアプローチはえんりよがちであった。

 連帯感のあるこの一組において、距離感のある生徒は速水を含めて二人いる。言い換えれば、二人しかいないとも言えるが。

 ちなみに、由紀の言うインフレコーヒーとは、この学校の三階のきゆうけいじよにある自動販売機のコーヒーの通称だ。販売機にルーレットがついており、ボタンを押すタイミングによって当たりが出る。当たりはランダムではなくタイミングなのだ。それも、当たったコーヒーのボタンを押す時にもルーレットが回り、運と腕がよければ十本ぐらいは連続で出すことができる。ただし、同じ種類のコーヒーしかなく、味の方もただにがいだけのものなのだ。


ほかやつらも飲んでるぞ、ほら」


 福原は雑談している男子生徒たちを見た。青いパッケージの缶コーヒーを持ってっている。


「あれは遊びで取ったやつでしょ。ロッカーに入れてまっちゃったから、仕方なくぬるいまま飲んでる。でも、君の冷たいのは、さっき買ったばかり」


 ほかの生徒も買うのだが、飲むというより、一種のルーレットゲームとしての遊びとなっている。かくとくした景品は、一口ほど飲んで捨てられたりするのだ。


「意外にクセになる味なんだよ」


 ふくはらに飲みかけのコーヒーを渡した。


「……うぐう、飲めないよ」


 由紀が一口飲んで首を振った。


「君とはや君ぐらいだよね。好きでそのコーヒー飲んでるの。なんでそんなまずいの飲めるの? メリットは? ねえ、これ飲んでみて」


 由紀が、後ろの席で教科書を広げていた女子生徒に缶を渡した。


「いろいろ成分が入っててまずくなってるんだな」

「えー、何が入ってるのお? うわあ、まずいね、これ」


 コーヒーを飲んだ彼女が言った。


「あっちのほうがすごくなるやつ。だから、おれも速水もすごそうだろ。今度見せたげる」

「ふへへっ、ちょっと興味あるなあ」


 彼女はコーヒーをきだしながらケラケラと笑った。


「俺がいろいろ教えてやるよ。ローションプレイとパンストプレイは両立できないとか」

「もう、やめなよ福原」

「由紀といろいろ研究したんだよな。見せ合ったりし、しばり方も試したりして」

「それは大昔のことでしょ。君がそんなことばっかり言うから、クラスの女の子たちが私をからかうんだよ。違うんだからね。福原のお姉ちゃんと仲がよかったの。お姉ちゃん、すごくやさしくてちょっと不思議な感じの人でさあ。だから、福原とも……」

「その話になると、すごくむきになるねえ」


 女子生徒が由紀のわけを聞きながらニヤニヤしている。


「あーあ、汚いなあ。セーラー服がコーヒーで汚れちゃってるじゃん」

「大丈夫だよ。そのコーヒー、コーヒーっぽい飲料水だから洗うと落ちるから」


 由紀は机をいたあと、たしなめるように福原を見た。


「……あんまりさ、いいうわさ聞かないよ。妙にりがよかったり。こんなこと言いたくないけどさあ、距離を取った方がいいよ」

「速水と? 別に仲良くもないけど」

「でも、たまにひそひそ話したりしてる。それで、よくコーヒーとかガムとかもらっているでしょ」


 由紀は不満げだ。


「インフレコーヒーは当たったから、もらっただけだよ。逆に断るとこわいだろ。可愛かわいいもんだろ、あめとかジュースとか」

「コーヒーなら私があげるよ。飴とかガムとかもあるし。みんながいろいろくれるから机がいっぱいで困っちゃう。みんないつも私がおなか減らしてると思ってるのね」


 は机の引出しを開けてみせたあと、ほんの少しだけかたい表情になった。


「……もしかしていろいろ困ってる?」

「なんで?」

「だって、ほら、もともとお姉さんとふたり暮らしだったのに。ねえ、よかったら、うちの親に相談しようか…………ごめん」


 由紀が目を伏せた。

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