「なんで謝る?」
「だって、君、怖い顔をしてた」
由紀はぐっと唇を嚙んでいる。
「怒ってないさ、別に。些細なことだから」
福原は笑い顔を作った。
「……本当に?」
「ああ、気にしなくていいよ」
「深刻に考え込まない方がいいよ。福原は物事を複雑に考えるタイプなんだから」
「はあ?」
「物事は意外にシンプルにできているんだよ。福原は全ての情報を取り込んで考えようとするから」
「……由紀のくせに、偉そうに説教するなよな」
「痛い痛い、ごめんなさい」
「あはは、夫婦喧嘩」
女子生徒が小学生のようなことを言った。近くの席で教科書を見ていた生徒も、予習をやめてキャーキャー言いだした。そんな彼女たちに、顔を赤くして由紀が怒っている。由紀の単純な反応はからかいがいがあるのだろう。
「今日はもういいや」
由紀周辺が騒がしくなったので、福原は苦笑いをしながらチェス盤を窓際の棚の上の安全な場所へと運んだ。
そんな時、教室の喧騒が不自然に静まった。生徒たちの視線は教室のドアに向いている。
「朝から来るのめずらしいね」
由紀がつぶやき、教室に入ってきた女子生徒を見つめている。
彼女は周囲の視線など気にする素振りを見せずに、無言で窓際の最前列の自分の席に向かった。すらりとした体のラインに、ウエーブがかった髪を揺らしながら歩く姿は、優雅に泳ぐ熱帯魚のようにしなやかに見えた。
立花飛鳥は、自分の座席の周囲で雑談をしていた女子生徒たちを一瞥してどかすと、机のフックに鞄を掛けた。周囲にいた女子たちは無言で飛鳥から距離を取っている。
教室の中で、彼女の周囲だけ温度が下がったような、そんな感覚があった。冷えた空間。冷気の伝染。
飛鳥は椅子に座る寸前、棚の上にチェス盤を運んでいた福原に不自然に視線を向けた。
福原は違和感を感じて振り向いたが、飛鳥はすでに椅子に座り、机の上に両手を投げだすようにして窓の外を見ていた。こちらを見たような気がしたが、気のせいだろうか。
「来なきゃいいのにな」
近くにいた男子生徒は迷惑そうな視線を向けている。
飛鳥は勉強はできるのだが、学校を無断で休んだり遅刻したりと、いろいろと問題のある生徒だった。学校に来ても、他の生徒とコミュニケーションを取ることもせず、ただ椅子に座っているだけなのだ。身動ぎしない飛鳥はマネキン女と揶揄されている。
福原は飛鳥を横目で窺った。静かに座っている姿は絵になっている。緩やかにウエーブして肩の下まで垂れている光沢のある髪、スマートなボディーラインに白い肌。無駄のない方程式のような無機質な美しさ。マネキンと例えられるのもわかる気がする。
「ねえ」
席に戻った福原に、由紀が不満げな視線を向けていた。
「どうした?」
「立花さんをじっと見てたねえ」
「相変わらず、無愛想だなって思ってさ」
そんな態度を貫く飛鳥は、最初は周囲の女子も気を遣い声をかけていたのだが、今は周囲に怖がられ距離を置かれている。飛鳥に近づくのは、彼女の態度に文句を言ったりする男子生徒程度だった。
福原自身、飛鳥との会話の最新履歴は、一ヶ月前に彼女の席の前で立ち話していた時に、どいて、と言われた程度だった。
「彼女はなんで学校に来てるんだろう」
誰かがつぶやいた。飛鳥はじっと空に視線を向けていた。ホームルームの始まりを知らせるチャイムが鳴った。
*
校庭からは運動部の掛け声が響いている。フェンスの向こうには幾何模様に並んだ住宅街の屋根が見える。福原が立っている校舎の屋上には湿っぽい風が吹いていた。
「よお、待たせたな」
声に振り向き、福原は投げられた缶コーヒーをキャッチした。こちらに歩いてきたのは速水だった。
「時間どおりだろ」
福原は再び校庭に視線を向けながらコーヒーを開けた。
「この暑い中、正気の沙汰とは思えねえな」
速水もフェンスに寄りかかり、校庭で活動する運動部の姿を目にしている。
「また福原も参加するか? この前の陸上部の大会で少しは儲けたんだろ。来週はバスケットボール部の大会がある。八割がたうちの学校が勝つから、賭けの焦点は点差と、誰が何点入れるかとかになるだろうな。チケットだけでも買うか?」
福原は首を振った。
「この前のは、一日潰したわりには大したことなかった。どのコースの選手が勝つかなんて、ベストタイムでほとんどわかる。賭けは成立していなかった」
「まあ、遊びだからな。休日に本格的にやるんなら、競馬場にでも行けばいい」
校庭のトラックで陸上部がリレーの練習をしているのが見えた。トラックの中ではラグビー部とサッカー部が活動している。ごっちゃ混ぜの放課後の校庭だ。
「最新のランキングが決まったぜ。福原は総合七位だな。たまにしか参加をしないわりには落ちてない。三年が受験で抜けてるから、上位ランクはほとんど二年だ」
「そっか。七位か」
「前のポーカーで稼いだポイントが効いたな。その時の賞金がもう出てる」
速水がポケットから茶色い封筒を出し、福原に差しだした。
「次は何があんの?」
福原は封筒を受け取らずに聞いた。
「次はでかいぜ。花形の麻雀だ。あいつも参加する。総合、麻雀部門、共にランキング一位のブルーアイ。もしかしたら、麻雀部門四強が出揃うかもしれねえ。そうしたら夏休み前にでかい金が動く。この学校の奴ら、月の小遣い十万単位でもらうような金持ち連中ばかりだからな」
学校サイドへの情報漏洩を防ぐためにコードネームのような通称がある。また、通称で呼ばれるのは総合ランキング十位以内のプレイヤーだけだ。
総合一位のブルーアイは、本名から取った通称だが、他のプレイヤーはゲームの性格や打ち筋などで自然に通称が決まることが多い。
麻雀の四強のブルーアイ以外の三人は、ドラを呼び込むドラゴン、トリッキーな打ち筋の魔術師、スピード重視のスピードスターだったはずだ。
プレイヤー同士がゲームで金を賭ける他、競馬のようにプレイヤーに周囲の生徒が金を賭ける。そんなシステムが高等部から中等部をも巻き込みできあがっている。速水はシステムの管理サイドを請け負うグループに所属している。
「麻雀なら速水もやるんだろ。参加しないのか?」
「コーディネーターは参加できねえよ。それに、所詮俺の腕じゃあ無理だ。遊びでやる程度だよ。特にあの四強は格が違う」
速水は低い声で笑った。巨大なギャンブルシステムが構築されているため、この学校の生徒には相当に腕のたつ人間がいる。特に麻雀の上位四人は半年以上ランキングに変動がない。それほど別格だった。福原から見ても、天才と認めざるを得ない生徒も数人いる。
「福原は、麻雀部門ランキングは五位だ。精密機械の福原。なあ、それより受け取れよ」
速水は茶封筒を福原に押しつけた。
「いらない」
福原は首を振った。
「これはルールだぜ」
速水がギロリと鋭い目つきで睨んだ。
「次のゲームの参加料と、残りは俺自身に賭ける」
「やる気か?」
速水が意外そうに声を上げた。
「最近参加してねえから抜けたいのかと思ったぜ。だが、やる気でてきたな。麻雀であの四強を崩せるのは福原だけだ」
「そろそろ、ブルーアイも王座から陥落すべきだからな。いつまでも好きにやらせておくわけにはいかない」
福原は宣言した。